私が溺れた川 07
七月の夕暮れ時だった。
『いまついた』
携帯に届いたメールをさっと読むと画面から顔を上げて、辺りを見渡した。鮮やかな浴衣と花が咲く非日常的なヘアスタイル。録音されたテープで繰り返される祭囃子と上気した人々の声。そのなかであのひとの姿だけを探していた。
二人きりで会うのは、初めてだ。花火を見に行こうって約束をしたけれど、私は浴衣を着れなかった。色とりどりの浴衣を纏う女の子たちと見慣れない姿に戸惑いつつも照れている男の子たちの間を、ワンピースにいつものコンバースのハイカットの白いスニーカーを履いた私が掻き分けていく。人混みが苦手で、心拍がいつもよりも早い。
いつも通り毛先だけワンカールさせた黒い髪の生え際からべっとりとした汗が滲みでてきてこめかみを滑り落ちていく。あのひとに会う前に化粧が取れてしまいそうで余計に気分が急いた。
『どこにいるかわかりません! 駅のどっち側?』
ほぼ画面に目を落とすこともなく指の感覚だけを頼りに入力してメールを送信し、どこへ行けばいいのかもわからずに人並みを進んでいると、すでに酔っぱらっている中年のカップルがぶつかってきた。暑さへの苛立ちに任せて睨み付けても彼らは私にぶつかったことにすら気がついていないようだった。彼らのまだらで下品な茶髪を思い切り軽蔑して、そうして自分が人込みに飲まれてしまっていることを認識した。どの方向に向かっても足が踏み出せない。
急に襲来した不安感に立ち竦んでいると、携帯が掌のなかで重たい音を立てて震えだした。待ち合わせをしているというのに、これから二人きりで会うというのに、画面にその名前が表示されるだけで鼓動も呼吸も一瞬止まる。左手の親指でボタンを押して、携帯を耳に当てる。
『もしもし』
『加奈子ちゃん、どこにいる?』
『駅を出てすぐのところにいます。出口を出て向かって左側の、自販機があるほう』
『自販機……』
電話越しに聞こえるざわめきは、私が生で聞いているものと同じだった。
『あ、あれか』
目印を確認できたのであろうその声を雑踏のなかに探す。緊張のしすぎで気分が悪いほどだった。
『あ』
どっちの口から発せられたのかわからない。もしかしたら二人同時に声を上げたのかもしれない。黒いキャップを被っていた。右耳に携帯を当てて、あのひとがこっちにやってくる。左手を軽く上げたりなんかして。白いTシャツに黒いシャツを着ている。辺りは暗いし人いきれに息が詰まりそうなのに、あのひとがこっちへやってくる。視線をちょっとだけ下げながら。でも真っ直ぐにやってくる。私のもとへ。
「ごめん。待たせたよね」
「全然待ってないです。私が早く着きすぎちゃっただけで……」
「ほんとに?」
「ほんとです」
遠くでドン、と音がして周りで歓声が上がった。あのひとの毛先に赤色の光が落ちる。さっきまで鬱陶しく感じていたざわめきはもう全く聞こえない。私たちはお互いに会うためにこんなところまで出てきたくせに、まともに目を合わせ続けることすらできずにいた。
いつもみんなで会うときには一体に何を話していたんだっけ。私もあのひとも口数が多いほうではないけれど、みんながいる場でもあのひととたくさん話せたことに胸をいっぱいにして最上の幸福のなかで眠りについた明け方もあったのに。
「人多いね」
「多いですよね」
「みんな見たいんだね、花火」
「ですねー。一年で今だけですもんね」
努力して会話を繋げてもすぐに沈黙が襲ってきて、私は段々と不安になってきた。私と一緒にいることが退屈だと思われたらどうしよう。私のために割いた時間が惜しいと思われたらどうしよう。そんな風に考えれば考えるほど、相槌までも不自然になっていく。花火の音と明かりに引き寄せられるようになんとなく歩いていく。
「どのへんだったら綺麗に見えるかな。俺、来たことないんだよね」
「えっ、そうなんですか」
「そうそう。地元にいたころは毎年一回は行ってたけど」
「地元に花火大会があったんですか? いいなぁ」
「普段は全然人がいない街なんだけど、その日は県外からも人がいっぱいくるから俺は嫌だったなぁ。電車も車も混むし」
「それでも見に行ってたんですね」
「一応ね、行っとかなきゃってなるんだよね。なんだかんだ」
あのひとが生まれて育った見たことのない街とそこで催される花火大会の様子を想像すると、自然に口角が上がった。そこで見る花火はきっとこの街のものより美しいんだろう。
花火が綺麗に見られるポイントを探してゆっくりと流れる人々が露店やそこに列をなす人々に引っかかって滞る。逆方向へと歩いてくる人を交わすたびあのひとの間が空き、何度も会話は中断を途切れたしあのひとを見失ってしまいそうで怖かった。これだけの人出のなかで逸れたらもう二度と会えないんじゃないかという気がする。
二人とも携帯を持っているのにも関わらず、そう思った。
ときどき私の右手の甲が、あのひとの左手の同じ部分に触れる。一瞬の接触なのにその小さな点が熱を持ち、額から汗が噴き出してくる。もどかしくて胸が苦しくなる。何も考えずにその手を握ってしまえたらどんなにいいだろう。はぐれてしまいそうだからということを理由にしても、私からその手に触れることは恐れ多いことのように思えて、とてもできそうになかった。
いつの間にか歩くことに必死になって打ちあがる花火に足を止めることもできなくなっていた。瞬きの間ほどの時間だけ暗闇を染めて消えていく花火の儚さと、すぐ隣にあのひとがいるのに触れられないもどかしさに胸が詰まる。
「あ、見て。大きいのが上がるみたい」
近くで知らない女の子の声がして、それにつられるように二人とも顔を上げた。
さっきまでのものよりも口笛みたいな細く甲高い声が長く続いて、狭いライブハウスで聞くバスドラのように腹に響く重たい音が鳴った。
「わあ、すごい」
力なく開いた唇から思わず間の抜けた声が漏れた。
夜空いっぱいに無数の金色の細かな花弁が開いたかと思うと、それが柳のように、そして雨のように降ってくる。
デジタルな明かりの気配を感じる都会の夜に、ずっと昔から続く人の手の温もりを感じるような光だった。
辺り一面で自然と拍手が沸き起こる。
それはまるで日本で初めて花火を作った人から現代の職人まで、全ての作り手の意思が大きな両手となり夜空と言う水面に金色の花をそうっと浮かべたようだった。
そんな目には見えない何かとの繋がりを強く感じて、涙ぐんでしまった。
「今のは本当にきれいだった」
すぐ隣からさっきの金色の雨の最後の一粒みたいに温かな声が落ちてきて、いつの間にか手の甲同士がくっつくほどの距離で並んで立っていることに気がついた。
そっと横顔を見上げてみる。
その目はまだ光の残滓が残る空を見つめていた。
あのひとの目で、あのひとの感性を持って今の光景を見たのなら、一体どんな風に感じるんだろう。
きっとことばでは表し尽くせないそれを知りたかった。
心臓が低く大きな音を立てていて、呼吸が震えた。あのひとの存在を意識して強張った右手が、不意にぴくりと震えた。そんな私の指先に温かくて少しだけしっとりとしたあのひとの指がゆっくりと絡められる。思わずその場で泣いてしまいそうだった。お互いの指先と指先だけを絡ませて、大きく息を吐いた。
今、とても深い場所に足を踏み入れようとしている。
もうただではもとに戻れないと、そんな予感がしていた。息を吸って、ぎゅっと掌を握る。ほどけてしまわないように力を込めた。そして歩き出す。さっきまでよりも近い距離で。すれ違う人を避けるときは、手を引かれて二人で同じ方向へ行く。肩と肩が触れる。自分でも泣きたいのか笑いたいのかわからなくて、奇妙な気分だった。家族以外の男の人と手を繋ぐのは、これが初めてだった。
それ以降の花火をしっかり見ることもせず橋を渡り終えて、川沿いへと流れていく人混みから外れた。この先がどこへ続くのかもよく知らない道を二人だけで歩いていく。もうはぐれる心配なんてないのに、手は繋いだままだった。
「なんかやっと息が吸える感じがする」
ふとあのひとがそう言った。
「東京はあれだね、花火大会さえも人の出が田舎とは違うね。俺の地元の祭りも人多いなって思ってたけど、ここの比じゃなかった」
「そうなんですか?」
「うん。なんか上京したばっかりの頃のことを思い出した。どこを行くにも何をするにも人が多いし、並ばなくちゃいけないし。一人になれる場所を見つけられなくて、地元帰りたいなーって思ってた」
「今日も帰りたくなっちゃいました?」
何気なく聞いたつもりだったけれど、あのひとははっとした表情で私を見つめた。
「今でも一番大切な場所だと思ってるけど、もう東京も悪くないなって思えるようになってるよ。今日の花火もきれいだったし」
「そっか。……それなら良かったです」
花火の音がだんだんと後方へ遠ざかっていく。あのひとの生まれ故郷や大学時代を過ごした街の話を聞きながら、このままどこへ行くのだろうとぼんやり思っていた。
いっそのことこのまま夜行バスに乗って学生時代によく通っていたという中華料理屋に行くのも良い。
この夜がずっと長く続けばいいと願っていた。
「これからどうする? この時間からだとどっか居酒屋でも入る?」
「それもいいですね。駅の周りとかだったらなにかしらありそうですもんね」
「じゃあとりあえず駅まで行こうか」
「はい。行きましょう」
「それかコンビニで酒でも買って、俺の部屋来る?」
あまりにも直球でそう聞かれて、私は返答に困った。一人暮らしの男性の家に行くということがどういうことを意味するかはわかっていて、だけどあのひとがどこまでを想定しているのか掴み切れなかった。だけど期待にも似た覚悟をどこかでしていた。あのひとにならなにされても構わなかった。
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