私が溺れた川 06
歩いたことのない道を当てもなく歩いていると公園を見つけた。ブランコと滑り台と砂場がある広場を照らしている街灯は電灯の寿命が近いのか、瞬くように点滅している。その頼りない明かりの下のベンチに座った。星のない空を見上げて、今夜だけは朝まで待とうと決めた。
あのひとが現れないまま夜が明けたら、それはつまりそういうことだ。
だけど私にはわかっている。
公園に辿り着いて、三時間以上が経過していた。マナーモードを解除していたスマホが鳴る。ディスプレイには登録されていない番号が表示されている。すぐに誰だかわかる。わかっているのに手が震えて、なかなか応答することができない。このままこの着信音が止んだら、私たちは終わり。
だけどこの電話に出たら、どうしようもなく始まってしまう。
息を殺した。
「もしもし」
電気的なノイズの向こうであのひとの声がする。居場所を告げた。正確な位置も名前も知らない場所にいるけれど、きっとわかってくれるだろう。そんな気がした。そしてあのひとが何かを言い出す前に電話を切った。
真っ暗に近いくらいの公園の入り口に、ヒロキの影を見つけたときには立ち上がることすらできなかった。ヒロキも足が竦んでいるかのようにその場で立ち尽くしていた。やがてあのひとが一歩前に進むと、私の脚もようやく動くようになった。走り出したいけれど歩くだけでも足がもつれてしまいそうだ。それでもお互いの目を見つめ合ったまま、真っ直ぐに歩いていく。二人の間にあった距離は、もうほとんどない。
抱きしめたいと、唐突に思った。触れたい。私はずっと目の前にいるこの人が欲しくて堪らなかったのだ。伸ばしかけた手からヒロキが逃れようとする。
「もう無理だよ」
私の肩を掴む左手の薬指には、銀色をしたシンプルなリングがあった。それだけは重たい暗闇のなかでもはっきりと確認できた。そんなことに気づいていないわけじゃない。でもそれが何だって言うのだ。
「どうでも良いよ、そんなこと」
あのひとの瞳をじっと見てそう言った瞬間、私の勢いを押しとどめようとしていた左手にそのまま肩を引かれて、よろめくようにしてヒロキの腕の中へ飛び込んだ。
暖かさとヒロキの身体の感触を感じた瞬間、呼吸をすることも背中に腕を回すことも忘れて、ただただ抱きすくめられていた。全身の骨が砕けそうだ。暴力的なまでのその力に、ヒロキの気持ちを知った。やっとの思いでヒロキを抱きしめ返す。私の骨が折れることなんて、一向にかまわなかった。
腕や指やお互いの身体をできうる限り絡ませ合ったまま、ホテルに入った。二人して翌日の仕事のこともあのひとの奥さんへの言い訳も忘れてしまっていた。服を脱ぎ捨ててさっきまでよりももっと密着した。お互いの全てに手を這わせて、いとも容易く一つになる。
激流に飲まれていく。あのひとの前では何も隠す必要なんてない。隠し通すことなんてできない。私は声を上げた。喉の奥がひりひりするほど。深いところまで味わい尽くして、味わい尽くされた。
身体同士をくっつけたまま、ほんの少しだけ離して一息吐いた。嘆息するタイミングまで同じで思わず顔を見合わせる。
そのときになって再会してからようやく初めてお互いの顔をしっかりと見つめ合うことのできる間ができて、絶望感が追い付いたみたいに、声を上げて笑った。
笑いながらあの頃とは違うヒロキの黒くて短くなった髪をぐしゃぐしゃに撫でる。
ヒロキはそれを拒もうとして、私はさらに躍起になる。三十二歳の男と二十四歳の女が、二人とも裸でベッドの上にいるという状況なのに、小学校入学前の幼児が鬼ごっこをするみたいに無邪気で必死だった。会話はほとんど無かった。その代わりにこそぐりあったりじゃれ合ったりして、触れ合う。あの頃の私たちは一体何を話していたんだろう。恥は無くて、肌の温度がひどく心地いい。こうしていることがとても正しいことのように感じる。
ヒロキの身体のパーツで最もお気に入りの一つである、細くて長い美しい白い手に触れる。大事に両手で持ち上げて、指の一本一本を確かめるようになぞる。ヒロキはくすぐったそうに手を引く仕草をした。私の黄色が強い手の甲と比べるとあのひとのものは驚くくらいに白い。肌の色と言うよりは、本当に白い。掌が上を向くようにひっくり返して、自分の手を重ねた。指を指と指の間に一本ずつ差し込んでいって、ぎゅっと力を入れて握ってみた。
ざらり、と指の付け根辺りにあの頃には無かった固い感触を覚えて、思わず手を放しそうになる。私の手を握り返す指先にすら時間の経過を感じる。不意に泣いてしまう予感がして、誤魔化すようにキスをするしかなかった。
私たちはそのまま眠るわけでも話し込むわけでもなく、お互いの身体に触れ合いながら朝を迎えた。ホテルの部屋から会社に欠勤の連絡をして、もう一度ヒロキのいるベッドに潜り込んだ。横たわると重たい眠気が襲ってきた。それに必死で抗って、飽きずにあのひとの顔を見つめ続けた。眠ってしまうには余りにも惜しい時間。
チェックアウト時間が間近に迫って、ようやくシャワーを浴びて服を着た。部屋を出る前にもう一度強く抱き合うと、身体が癒着してしまったんじゃないかと思うほど、離れがたかった。ホテルを出ると再会を約束することも別れを告げることもなく、お互いに示し合わせたわけでもないのに別々の方向へ歩いて行った。
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