私が溺れた川 05

 私とヒロキが別れてから、もう七年近く経っていた。


その間、街で見かけることすらしなかった。長い間ずっとあのひと無しでこの先の人生を生きていかなければならないのだと自分に言い聞かせていた。目が合っただけだ。長く感じたけれど、きっと一瞬のことだっただろう。ことばを交わしたわけでもない。それなのにもうどうしようもなかった。ベッドに入ってもいつまで経っても眠れなかった。頭のなかではあの頃聴いていた音楽がずっと鳴り続けていた。化粧も髪型も中途半端な状態でなんとか出社したものの、仕事が全く手に付かず、同僚たちに心配されたほどだった。ずっとあのひとのことを考えていた。この七年間、必死で抗っていた流れに飲み込まれていくようだ。


居ても立っても居られなくなって、会社を出て昨日と同じ電車に乗った。自分の靴を眺めながら、あの居酒屋までの道を懸命に言い訳を探しながら歩く。


今日会えなかったらそれで終わりにしよう。どのみちもうとっくに終わっているのだから。そう言い聞かせながらも、絶対にヒロキがいるだろうと確証を持っていた。茶色の木製のドアを開ける手が震えている。もう戻れなくなる。強い予感がしていた。


「いらっしゃいませー」


昨日と同じようにカウンターの奥からその声が飛んでくる。ゆっくりと視線を上げた。案内をする女性店員はいないみたいだ。誤魔化しが効かないほどしっかりと目が合う。ヒロキは、やっぱりいた。一人きりで現れた私を見て、手が止まった。そして諦めたような顔をした。


全身を電流のような細かな震えが駆け巡った。強い恐怖にも似た感情を抱えながら、カウンターに座った。ヒロキの目の前に。そしてあのひとの目を見る。いつかのように、挑むみたいにして。薄いメニューを捲って料理と酒を注文する。それ以外には何も言わなかった。私は黙ってただただヒロキが作った料理を食べ続けた。


 あの頃、私はあのひとを手に入れるためだったらなんだってしていた。化粧も覚えたし、たくさん嘘もついた。


ずっと静かに横たわって眠っていたあの少女がむくりと身体を起こして、こっちを見る。彼女は、だけどどうしようもなく今の私の姿をしていた。


ことばでは到底表現できないような感情が身体中に詰まっていて、気管支も食道をも圧迫していた。腹が満たされているのかどうかもわからず、適当なところで食事をやめた。手帳の一ページを破り取って、電話番号を書いた。それを黙ってカウンターの奥へ差し出す。


あのひとは紙切れを見て、それから私の顔を見て


「無理だ」


と小さな声で言った。


「無理ならそれでもいい。でも、待ってる」


私はずいと更に奥へその紙切れを滑らせた。あのひとは無理だ、と繰り返して戻そうとする。


「いらないなら、自分で捨ててよ」


二人のちょうど間で、紙切れは水滴に濡れてふやけた。


ジャケットを羽織り、会計をして逃げるように店を出た。大通りから離れているせいか、やけに静かな細い道を、自分の身体を抱きながら歩く。


初めてライヴでヒロキを見た瞬間から、あのひとが頭から離れたことはなかった。


まだ十五歳だった私は、どうしたら自分とあのひとの世界が重なるかを、寝ても覚めても考えていた。行ける限りのライヴには足を運んだし、古参のファンに混ざって出待ちをした。インターネットを駆使して、あのひとの痕跡を辿った。思い返せば気味の悪いストーカーそのものだけれど、自分の気持ち悪さや痛さに気が付く余裕もないほど、必死だったのだ。高校生のお小遣いはあっという間に底を点いて、カフェでバイトを始めた。バイトとライヴで忙しくなる一方で成績は下がっていった。母親は狂ったように声を上げて泣き、「加奈子は変わってしまった」と叫んだけれど、そんなことではもう私を傷つけられなかった。


あのひとが通っているという噂があった飲み屋にも行った。初めて扉を潜るとき、誰かに監視されているようで私の子供だましの嘘など一切通用しないような気がして少しだけ足が竦んだ。だけど十六歳の私はちゃんと二十歳以上に見られた。酒を覚え、何度も通ううちにあのひととは会えないまま、店主のマサキさんとだけ仲良くなっていった。マサキさんのマサキが苗字なのか名前なのかは知らなかったけれど。


「お姉さん、美人さんだよね。モデルでもやってるの?」


そう言われたとき、私は素直に照れた。アルコール以外の理由で頬が熱を持つのが分かった。私は少し迷ってから頷いた。そういうことにしておいたほうがあのひとに近づきやすいのではないかと計算したのだった。でも実際、見た目に気を遣い始めてから容姿を褒められることが増えていた。気だるげで生意気そうで何を考えているかわからないと言われていた私の顔は、人によってはアンニュイに見えるらしいのだった。黒髪を真っ直ぐに伸ばして前髪は重たく切り揃え、真っ赤な口紅を引いていた私は、ときどきストリートスナップに撮られたり、生まれたばかりのアパレルブランドや服飾関係の専門学校のモデルなんかをさせてもらったりしていた。出来上がった写真は、美しかった。そのなかに写る私はもはや私などではなくて、才能ある他人の手によって創られた作品として存在していた。だからモデルをやっているというのは、あながち嘘ではなかった。マサキさんはやっぱりナイトフォールのメンバーと親しくて、皆が来たら呼んでくれるように約束をして、電話番号を教えた。それからは携帯の音量を最大にして過ごした。いつでもあのひとと出会えるように、絶えず準備を整えていたのだ。


待ち侘びて眠れない日々が続いて身体が疲れ果てていたのに、心はギラギラと燃えていた。本当に長い間連絡は来なくて、ほとんど諦めかけた頃になってようやく電話が鳴った。


「加奈子ちゃん。今、ナイトフォール来てるよ」


すぐに支度をした。急いでいたけれど手を抜かずに身だしなみを整えて、母に気づかれないように家を飛び出した。


何度となく潜った引き戸を開けた瞬間、あのひとがいることがわかった。マサキさんに教えられるまでもなく、カウンターに並ぶ後姿のうち、どれがあのひとのものかすぐにわかった。それまで私のなかで勢いよく燃え盛っていた無鉄砲さと勇気が急に萎んでいって、代わりに泣き出しそうになった。地面に影を縫い付けられているみたいに動けなくなった。マサキさんが私について何か話したらしく、四人がそれぞれのテンポで振り向いた。ギターボーカルのユウトは軽く手を挙げて、ドラムのリョウスケは手を振ってくれて、ベースのショウタはペコリと小さく頭を下げた。ヒロキだけはただこちらを見るだけで、なんの反応も示さなかった。


「こっちおいでよ」


マサキさんに手招きされて歩き出した私の両脚は、生まれたての小鹿なんて比じゃないほど震えていた。そして四人がそれに気が付いてしまっているんじゃないかと気が気ではなかった。奥から順にユウト、ショウタ、ヒロキ、リョウスケの順で座っていて、私は一番手前のリョウスケの隣の空いている椅子に、


「おじゃましまーす……」


ほとんど私の頭蓋骨の中でしか響かないような声で断ってから腰を下ろした。いつもなら何も考えなくても問題なくすっと座れる背の高い椅子に、今日はどうやったら届くのかわからなくてただ座るだけなのに四苦八苦していると、マサキさんがカシスソーダを出してくれた。


「乾杯しようか」


マサキさんも四人もビールを飲んでいた。中身のほとんど残っていないジョッキを全員が掲げた。カシスソーダの入ったグラスを持ち上げて、マサキさんの乾杯とそれに続く四人の声を合図にグラスを合わせた。ユウトには届かなかったけれど、ヒロキのジョッキと私のグラスが当たってカチャンと音を立てると、それだけで急速にアルコールが全身に回ったみたいに心臓がどきどきした。


「加奈子ちゃんはモデルやってるんだよ」


マサキさんがそうやって言うと、リョウスケが


「あーそんな感じする。美人さんだもんねぇ」


と言いながら私の顔をまじまじと見た。それに釣られるように他の三人もこっちを向く。


「そんなしっかりしたものじゃないです」


数えるほどしかカメラの前に立ったことはないし、私のモデル業はほんの少しのお金と他人の手によって自分が作り変えられていく快感を味わうためのものだった。求められればいくらでも応えたけれど、それは決して能動的な欲求ではなかったし、彼らにとっての音楽のようでは全くなかった。


「加奈子ちゃんって、学生さん? なんか若いよね」

「えっと、フリーターです。カフェでバイトしながらちょこっとだけモデルをしてるような感じです」


というのが当時の私の設定だった。


「へえー、これ、聞いて良いのかわからんけど、歳いくつ?」


ショウタがそう言うと、ユウトが女の子にそれは聞いちゃいかんやろと言った。ヒロキとリョウスケは二人のそんなやりとりを見ながら笑っている。あんなにも会いたいと思っていたヒロキが目の前にいると言うのに、あのひとの顔をほとんど見られていなかった。そのときになってようやくその横顔が赤く染まっていることに気が付いて、身体の奥深いところから、今まで存在すら知らなかったような感情が轟音を鳴らしながら急速にせり上がってくるのを感じた。


「二十一ですー」


口にしたときに少しだけ胸が痛んだが、年齢と職業以外には嘘は言っていない。


「え、じゃあ俺らとそんな変わらんやんね」

「でも今二十一って聞くとめっちゃ若く感じん?」

「わかる。わっか!って思ったもん。今」


ヒロキがビールを呷ってジョッキを空けて、お代わりを注文した。横顔で笑いながら、


「うん、若いわ」


そう言った。それが初めて私に向けられたあのひとのことばだった。


ああ、私は一体何を話しているのだろう。もっと別に話したいことが山のようにあるはずだった。もはや私はナイトフォール以外の音楽を聴いていなかった。他にもたくさん好きなバンドやアーティストはいたはずなのに。あの曲のあの部分のメロディラインが痺れるくらいにかっこいいとか、あの歌詞に救われてきたとか、こんな風に解釈してしまうとか、伝えたいことがいっぱいあったはずなのに。言いたいことが言えずに焦りが募った。


お酒とマサキさんの絶妙な具合のアシストの力を借りつつ、私たちは喋って喋って喋って喋った。人生でこんなにもたくさん他人と話したのは初めてかもしれないというくらいに喋った。最初は会話に参加するよりは聞いて楽しんでいるようだったヒロキの口数も次第に増えていった。その頃にはもう私は迷いを捨ててあのひとの目をまっすぐに見て話すようにし、また聞くようにした。挑むようにあのひとの瞳を見つめていた。


十六歳の私は、狡猾だったのだ。あのひとを手に入れるためだったら何にだってなれた。

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