私が溺れた川 04

「いらっしゃいませー」


店の奥から聞こえたただの挨拶に、普段なら気にも留めないそのことばに背筋がぞわりと粟立った。正確にはその声に、だ。嫌な予感がした。今すぐに走って逃げるべきだと警告が鳴り響いた。だけどその警報が余りにも突然けたたましい音で鳴り出したせいか、私は呆気に取られていた。そしてどこか諦めてもいた。いつかこんな日が来ることを、ずっとどこかで予感していたのだろうと思う。


引き寄せられるようにゆっくり、本当に時間を掛けて視線が絡み合った。


あの頃と同じだ。

私はいつだってあのひとの目を挑むように見つめた。


あなたならわかるでしょう。

そう言っていた。視線の中で。


バイトらしきやけにビビッドな赤色のリップを引いた女性店員に案内されて、座敷に入った。私たちはお互いの姿が完全に見えなくなるまで、絡まった視線を外せずにいた。


どうしてこんなところに。


口には出さずに、だけどあのひとの名前を呼んだ。

ヒロキ。

とそう呼ぶ自分の声がはっきりと聞こえた。


女性店員にファーストドリンクを尋ねられて篤樹が生を二つ、と答えた。彼女が個室から出ていき障子が閉められる。それでもまだ私は網膜に焼き付いたカウンターの向こうにいたあのひとの姿を視界から消せずにいた。


そう言えば私は子どもの頃に川で溺れたことがある。父の実家がある岐阜の河川敷へ家族で遊びに出かけたときだ。そんなに流れが速いようにも水が深そうにも思えなかったのに、川底の石で滑り、そのまま足を掬われた。


まるでそのときのようだ。水が耳に詰まって音がぼやける。篤樹が何を話しているのか理解ができなくて、私は曖昧に相槌を打ったり笑ったりしていた。店員が障子戸を開けるたびに意識して目の前の篤樹と並べられていく料理に集中しなければならなかった。メニューにあると必ず頼んでしまうぶり大根を口にしても味も香りも感じられなかった。


「なんかさ」


二口目を食べる気にはなれなくてそっと箸を置くと、篤樹も同じように手を止めた。


「加奈子、もしかして体調悪い?」

「そんなことないよ」


そう否定するならもう少し相応しい表情があっただろうと自分でも思うほど不出来な笑顔を浮かべてしまったと思う。頬の辺りに強張りを覚えた。


「……ちょっと疲れてるのかも」


篤樹の沈黙に責められているような気がして、ことばを継ぎ足す。


「そっか。ごめんな、気づけなくて」

「そんなのはいいよ。別に大したことないし」

「今日は早めに帰ろ。また土日にでもゆっくり出かけようよ」

「……そうだね。ありがとう」


篤樹の心からの優しさと気遣いに内臓を焦がされるような罪悪感を覚えた。だけどそれとは反対に今すぐにでも一人になりたかった。それはほとんど走って店を飛び出したいほどで、一体今何が起こっているのか、起ころうとしているのかを見極めなければならないような気がした。


会計は篤樹が済ませてくれたから、結局私はあのひとと直接話すどころか至近距離でお互いの顔を見ることさえしなかった。だけど不思議なくらいの確証があった。


あのひとはここにいるのが私だということに気が付いている。


最寄り駅まで送るという申し出を断って、篤樹とは地下鉄で別れた。暗い窓に映りこむ黒髪を一つに束ね、目の下には薄っすらと影のある私の顔。その虚像に真っ直ぐな黒髪を胸まで伸ばし、真っ赤な口紅を塗った少女が重なる。重たく切り揃えられた前髪の下の目は冷たく、生意気そうにこちらを睨んでいる。


 満員の電車の中でも会社のエレベーターの中でもキーボードを叩きながらでも思い出すのは結局あの日々だ。


十五歳の私は周りの十五歳たちに比べて、自分だけが大人で自分だけが正しいと思い込んでいた青臭くてバカな子どもだった。


例えば私は「死にたい」じゃなくて「死んでやる」なんて、まるで自分の命に価値があるかのように脳内で嘯いていた。

諦観のなかで生きていたローティーンだった。


小・中学生の頃は面倒に巻き込まれないように派手なグループに近づきすぎず、かといっていじめの対象になるような地味なグループにも追いやられないように絶妙な加減で自分の立ち位置を確保していた。つまり私には誰かと一緒にいたいとか、どこか特定の場所にいたいとか、そういう帰属意識があまり無くて、そのおかげで身軽で空っぽだった。毎日毎日家では両親の顔色を窺って、学校ではひたすらに空気を読んでいた。


長生きなんて絶対にしたくなかった。煙草を吸ってみるのも良いかもしれないな、と思っていた。この先生きていったって、自分が幸せを手にできるとは到底思えなかった。


そんな私だったけれど、唯一好きだったものがあった。それが音楽だ。毎日学校から帰ると大事なものを搾り取られた後に残る滓みたいになっていた。母が笑顔で聞いてくる「今日はどうだった?」の答えを考えることさえ酷く煩わしかった。回答を盗み見ることもなく宿題を終わらせて、クイズ番組を見ながら母と二人で母の作った料理を食べて、小学校で習うような漢字が読めないタレントにぞっとして、お風呂に入って、髪を乾かして歯を磨き終えると急いで自室へ引き上げた。まだ何か話したそうな、一緒にテレビを見たそうな母の視線を振り切るとまた私のどこかが擦り減ってひりひりした。


ベッドの上でラップトップを開いてヘッドフォンを差し込む。YouTubeへアクセスする。そして右を向いた三角をクリックする。途端に私が寝転ぶ現実は遠ざかり、音の重なりと映像が世界を満たしていく。一曲が終わると数秒して別の曲が流れ始める。同じバンドのMVばかりが続くこともあれば、全く知らないバンドの曲が突然紛れ込んできたりして、それが全く予想もしていなかった新たな出会いになることも度々あった。正直なところCDのほうが音質は良かったが、MVを見ることが好きだった。ストーリーがあっても台詞は無い。説明も無い。登場人物たちがどんな関係でどんな人生を歩んできて、何に悩んでいるのかなんてどうとでも想像できる。本当は答えがあるとしてもそれは製作者のもので、そこに何を感じるかはすべて私に委ねられている。そんな自由さが好きだった。


その頃、とくにハマっていたバンドがあった。at nightfall――アットナイトフォールという名前の彼らには、夏休みのたびに遊びに行っていた父の故郷出身ということもあって興味を持った。夕暮れ時ナイトフォールというその名の通り、物悲しさや寂しさ、そしてどこか安心感を覚える日没のようなうたを歌っていた。プレイヤーに入った何百という曲をシャッフルで流していても彼らの曲が始まった瞬間、例えどんな心境でいたとしてもその曲の色に感情が染められていく。そんなにも強く私の感情を揺さぶることができたのは、彼らだけだった。


 幼い頃、川で溺れた私を救ってくれた父は、たぶん浮気をしていたのだと思う。両親から真相を明かされたことはないけれど、私が中学に入学して少ししたころから二人の間に溝が生まれて、そしてそれは深くなっていく一方のようだった。母はいつも不安定でヒステリー気味で、私の発言を自分を傷つけるためのものだと受け取ることが多かった。母がヒステリーを起こすたびに部屋に籠ってカッターを左手に当てた。だけど皮膚は意外にも頑丈で、血が出るほどの傷はつけられなかった。私は家での発言にも細心の注意を払わなければならなかったし、四六時中周りに気を遣うことに疲れ果てていた。そして私をそんなにも擦り減らす周りを憎んでもいた。


だから「死んでやる」という気持ちと決心は、私の復讐でもあったのだ。


でもその前に、十五年と三か月間頑張って生きてきた自分を労いたかった。

死ぬ前に一度だけ、ライヴを見に行ってみよう。

私はとても挑戦的で、好戦的でもあった。「どうせこんなものか」と思うためでもあった。


収容人数が二百人くらいの小さなライヴハウスだった。階段に並んで開場を待つ人たちは皆慣れているように見えて、ひとりぼっちを心細く思った。入場してからは埃っぽいフロアでどこに立っていれば良いのかもわからず、なんとなくステージ向かって右側の真ん中より少し前辺りに突っ立った。周りの客たちの話す声が聞こえてくる。この前のライヴが、とか今回のアルバムは、などと話す彼らは紛れもなくナイトフォールのファンで、私は初めて自分と同じ音楽を愛する人に囲まれていることを実感して、何故だか口の中が渇くほど緊張した。


彼らがステージに上がってくる。拍手と歓声。隣の人との会話に夢中になっていた無数の意識がステージへと吸い寄せられていく。フロアに広がっていた人混みが前方へぎゅっと収縮する。そして演奏が始まった瞬間、私の感情は完全に彼らに握られてしまった。ライヴというものがこんなにも至近距離で繰り広げられるものだとは思っていなかったせいもあるのかもしれない。あの頃の私にとって、それは衝撃的すぎる体験だった。ステージの上を縦横無尽に駆け回り、時には倒れるように転げまわる。CDやMVだけではわからなかった激しいプレイに呆気にとられた。今まで私の耳は歌声しか拾っていなかったのかもしれない。身体の奥底まで響く重低音。


なかでもギタープレイは圧巻だった。汗に濡れた金髪を振り乱し、気が振れたんじゃないかと思うほどの激しさで演奏する姿には、恐怖心すら覚えるほどだった。彼から目を離せなかった。自分の世界が粉々に壊されていくのを目の当たりにしていた。


ライヴが終わって帰宅しても何をしても音が耳にこびりついて離れなかった。CDを聴くと苦しくて悔しくて叩き割りたいほどの気分になるのに、止めるとどうしようもなく欲しくなる。身体の内側で渦を巻く奔流をどう扱って良いものかわからず、ギターが欲しいと思った。そしてそれ以上に、あのひとが欲しいと思った。


私のそれまでのつまらなくて我慢ばかりの最低な人生は、あのひとと出会うために、そして手に入れるためにあったのだと本気で考えた。


今まで多くの苦しみに耐え、乗り越えてきたのだから、どうか、神様、あのひとを私にください。そんな風に願っていた。

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