私が溺れた川 03
会社を出ると秋の冷たい風が頬を心地よく撫でた。エアコンのせいでぼうっとした頭と乾燥しきった瞳が少しだけ息を吹き返す。地下鉄の駅までの五分間を早足で歩く。最近日が暮れるのが一段と早くなった。今年もきっとこの快適な気温は一瞬で終わって、すぐに寒さに首を縮める日が来るんだろうな。近くにいくつか専門学校があるせいで、授業を終えた学生たちの姿が多く見られる。数人の友だちグループでお喋りをしながら並んで歩く子たちもいれば、楽器や美容学校で使うのであろう黒くて大きなバッグを背負って一人で足早に通り過ぎていく子たちもいる。誰もがここから何にでもなれるという可能性を抱えて輝いているような気がして、思わず目を反らしてしまう。
きっと明日も同じ日が来る。きっと何も変わらない。
なんだか飽きてしまっていた。自分の人生に。
真面目に幸せに毎日を生きれば生きるほど、ときどき無性に自分の人生をぶち壊してしまいたくなる。その方法もわからなければ、そんな勇気もないくせに。
誰とも目を合わせないようにして階段を下って辿り着いた地下鉄のホームには行列ができていた。無意識のうちにため息が出る。行きの電車の混み具合は諦めているけれど、帰りまですし詰め状態だと報われなさに妙に傷ついてしまう。後ろの人に押されて、流されるように乗車する。ほとんど身動きの取れない状態で密着した隣のサラリーマンが付けるイヤフォンから漏れる音を聞きながら、中吊り広告を睨む。日頃ドラマを見ない私でも最近話題の映像作品に引っ張りだこだと知っている女優が透き通るような笑顔を浮かべている。彼女はどんなことに悩んで、どうやって気を紛らわせているのだろう。
地下鉄を降りて地上線へ乗り換えるとようやく他人との密着状態は解消される。見たいものがあるわけでも知りたい情報があるわけでもないけれどスマホを取り出す。メッセージは一件。私のスマホはいつも退屈そうだ。バッテリーの減りも少ない。
篤樹:明日仕事早く終わりそうなんだけど、ご飯でも行かない?
通知画面に表示される文章だけを読んでメッセージを開くことなく、スマホをジャケットのポケットに滑り込ませた。篤樹はきっと昨日の結婚式の話を聞きたいのだろう。そして私がどう思ったのかを。最近、彼が纏う空気が微妙に変化していることに気が付いていないわけじゃない。私たちはもう丸二年以上交際をしていて、篤樹はもう二十五歳だし私ももうすぐそうなる。周りの大人たちは(私も十分大人だと言える年齢ではあるけれど)、顔を見るたびに結婚はまだなのか、良い相手はいないのかと尋ねてくる。ほんの二年半前までは結婚もましてや妊娠なんて御法度だったのに。私の対する世間の位置づけの急速な変化に、当の本人が置き去りにされている。そもそも二十代って忙しすぎる。学生生活を終えて社会人になって会社に馴染んで仕事を覚えて結婚をして出産をしなければいけない。それをこの十年の間で済まさなければ、今度は行き遅れているだのなんだのって言われる。幼い頃は一度だって将来の夢は花嫁さん、だなんて言ったことは無いし、小さな子どもが特別好きかと言われればそうでもないし、産みたいと思ったことも無いのに、それでもそうしなければならない気がする。例え私が仕事や趣味に没頭して独り身としての人生を謳歌したって、世間は結婚していないという一点だけでかわいそうだとか寂しそうだとかって言うんだろう。
電車が目的の一つ前の駅で停まる。さっきポケットに追いやったばかりのスマートフォンを取り出して篤樹からのメッセージを開く。
ほんと? 行こー。また終わったら連絡して。
素早く文字を打って送信して、明日彼の仕事が終わるまでの間、どこでなにをして待とうか考えることに集中した。
私の仕事が定時で終わってから篤樹からの連絡が来るまでのおよそ一時間半を、会社の近くのカフェと呼ぶには色気の無さすぎる喫茶店で小説を読みながら過ごした。
篤樹:遅くなってごめん。今終わった!
そう連絡が来たのは下巻の四分の三辺り、物語の真相が今まさに明らかになろうとしているところだった。スマートフォンが光っていることに気が付きながらも、私は小説から目を離せずにそのまま数ページを捲った。それからテーブルの上に広げていた私物をバッグに片づけてお冷を一口だけ飲んで喫茶店を出るのと同時に篤樹に電話を掛けた。居場所を伝えると、彼がこっちまで来てくれることになった。
「ごめん。お待たせ。結局遅くなった」
「いいよ。本読んでたし。遅くなったって言ってもいつもの篤樹に比べたらだいぶ早いじゃん」
「まあねー。繁忙期になったら絶対こんな時間に会社出れないもんなー」
営業である篤樹は、お客さんの都合に振り回さることも多々ある。アポが二十時を過ぎてからでないと取れないこともあるし、そのまま会食に参加しなければならないこともある。定時前に会社に戻ってこられることがあっても今度は内務に回すための書類を作成しなければならない。そもそも私と彼では業務量が違い過ぎている。
「友だちにお洒落っぽい店教えてもらったんだけどさ、居酒屋でもいい?」
「いいよ、どこでも。終電に間に合えばいいし」
「じゃあそこ行こ」
私たちは地下鉄に乗って数駅移動した。仕事終わりにこうして二人で食事に出かけること自体、久しぶりだった。会えていなかった数週間の間、私の生活には目立った波風は起きなかった。社内では品質管理課の誰々さんが不倫をしているらしい、相手はマーケの何々課長らしいという噂が、熱いトピックとしてずっと語られているけれど、多少の野次馬根性が騒ぐだけで別に直接関係があるわけでもなんでもない。一方の篤樹は今年入社したばかりの新人の教育係を任せられており、どうしたら彼が成績を上げられるか、いかに頑張ろうと思ってもらえるかということに心を砕いているようだった。営業と言うのはつくづく大変な職種だと思う。まず物を買ってもらって成績を上げなければならないし、生産や輸出入の管理の部門と顧客との間に立って諸々の調整をしなければならない。つまり関わる全ての人の機嫌を取りながら、自分の仕事が円滑に進むように操らなければならない。それには相当なコミュニケーション能力がいるはずで、基本的に大勢で過ごすより一人でいる時間を好む私には到底できそうもない。けれど篤樹はもともと人が好きで、また人に好かれる性格のせいか性に合っているようで、忙しさや惜しいところで契約を逃したことに対しての愚痴は口にするものの、仕事そのものに対してはほとんどネガティブなことを口にしなかった。彼のそんな部分は心から尊敬しているし、恋人として誇らしくも感じる。
「ここだ、ここ」
ナビゲーションアプリを開いていたスマートフォンから顔を上げて、篤樹が言った。その視線の先には確かに落ち着いた雰囲気の居酒屋があった。目立った装飾やメニューが書かれた看板は無く、白地の壁に木目調の板が下げられ、また白い文字で店名と思われる英字が綴られていた。表札と同じチョコレートブラウンのドアをいつもように篤樹が開けて、私を先に通してくれる。そういう些細だけれどなかなかできない気遣いに、私はいつも身体の中心に温かなものが生まれるのを感じる。
私がありがとう、と言うのと篤樹がドアを閉めるのと、その声は重なった。
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