私が溺れた川 02

 翌朝、スマホのアラームに起こされた。雨雲はどこかへ去ったらしい。部屋のなかの明るさをなんとなく知覚する。布団のなかで足を滑らすと、猛烈な痛みが脳まで駆け上がってきて、一瞬で微睡みから覚醒することを余儀なくされた。


布団を剥いで痛んだ足の裏を確認すると、靴擦れなんかよりもよっぽど酷い傷が一面を覆いつくしていた。せめてもの救いは昨夜の自分が眠気や倦怠感に負けず、刺さっていた細かな棘を抜き消毒をしていたことだった。そんな自分を褒めてやりたい。


薬を塗って絆創膏とガーゼを適当に貼って、そっとストッキングを履いた。鈍くジクジクと痛むけれど、会社を休む理由にできるほどでもない。履き慣れた四センチのチャンキーヒールのパンプスに足を突っ込んでみると、なんとかなりそうだった。昨日履いていたパンプスが転がっている玄関を出る。


 働き始めた頃は苦痛でしかなかった満員電車も三年も毎日乗っていれば、楽な体勢や比較的空いている乗り場なんかを覚えてしまった。スマホを触れるだけのスペースを確保して、放置していた彼氏からのラインに返信をする。深夜、恐らく私が寝た後に来ていた昨日の新婦からのメッセージは見て見ぬふりをした。サラリーマンの頭たちの隙間から見える窓の外に目をやる。


 彼氏と出会ったのは、二年半前のこと。大学を卒業して入社した今の会社の研修で知り合った。五十人ほどもいた同期の一人だった。同期の多くが研修を終えて全国の支社へ配属されるなかで、私も彼も本社勤務が決まった。とはいえ営業部の彼と業務部の私は普段は別のフロアで仕事をしていて、社内で顔を合わせることは滅多に無い。


ガタン、と電車が揺れて隣の学生らしき女の子がぶつかってくる。当時は気が付かなかったけれど、髪型も服装も持ち物も自由なのはとても楽だったなとしみじみ思う。


例えばこんな毎日の通勤の電車のなかだとか会社のエレベーターのなかだとかで、今でもなんとなく思い出してしまうのは一人だけ。


先に出社していた同僚たちに挨拶をしながら自分の席に着く。来ているメールを一通り確認してみても、一つとしてイレギュラーの発生を告げるものは無い。いつもと同じ一日が始まっていく予感がする。


入社して二年半が経って、社会人としての生活にも会社にも慣れた。よっぽどの事態が起こらない限りは自分で対処できるようになった。平和と呼べる日々。だけど退屈な毎日。


私を愛してくれる恋人のことを、愛していないわけじゃない。あのひととの別れを経験して、もう二度と誰のことも愛さないだろうと、愛されないだろうと思っていたのに。次の二月が来たら、私は二十五歳になる。周りの友だちの間ではそろそろ一回目の結婚ラッシュが始まっている。きっと私もこのままいけば、今の彼と結婚することになるのだろうと思う。だけど皆は、一体何を決め手にして結婚をするのだろう。


 二年半前、社会人になったという誇らしさと自由を失うことへの諦めを抱きながら、新調した真っ黒なスーツに身を包んで、私はこの場所へ来た。新人研修。その後全国の支社へと散っていくことになる同期たちも初めは全員この本社ビルに集められた。総勢五十人ほどもいた。一か月半の研修は学生時代の延長のようなものだった。五、六人ずつのグループに分けられ、さまざまな課題に取り組んだ。


彼と私は同じグループだった。今でもこのBグループは仲が良くて、関西や東海に配属になった子たちがこっちへ戻ってくるたびに集まっては飲みに行っている。不安で仕方が無かった社会人生活も、そんな彼らと一緒だったから想像以上に楽しくて充実した幕開けとなった。


五週間に及んだ研修が終わった日、私たちBグループと仲が良かったAの子たちとで打ち上げに出かけた。飲める子が多かったし、私も飲めないわけではなかったから散々飲んで笑って誰かが皿をひっくり返して、店員に謝ってまた笑った。そのまま離れ離れになってしまうことが惜しくて、迫りくる別れの時間に抵抗するかのように私たちは二軒の居酒屋をはしごした。午後十一時四十五分辺りで、誰かがカラオケに行こうと言った。賛成する声が次々に上がる。私は同期と過ごす最期の時間を心から楽しんではいたけれど、オール明けのあの気怠い絶望感が大嫌いだった。だから一人で先に抜けようと思っていた。


「俺も明日朝早いから、この辺で帰るわー」


篤樹がそう言ったとき、彼は私のときよりも惜しまれていた。彼は、つまりそういう人だった。大人数で時間や空間を共有するときに人を楽しませることができる人だ。一方の私はその楽しさを受け取る側でしかなかった。


「吉沢さんってどっち方面?」


二人きりになって駅に向かって歩いていると、篤樹にそう聞かれた。私が答えると、


「じゃあ一緒だー」


と彼がそう言うから、私たちは同じ電車に乗った。金曜の夜はこの時間帯でも乗客が多い。一週間分の鬱憤をここぞとばかりに晴らして羽目を外し過ぎた人も多くいるから、終電間近のホームは足元に注意して歩かなければならない。うっかり誰かの鬱憤を踏んづけた暁には、こちらのストレスが急激に臨界を迎えることになる。だから私はきっと俯き加減で歩いていたのだと思う。


「疲れた?」

「疲れてるように見える?」

「なんか眠そう」

「それはもともと」

「もともとって」

「そういう顔なの。よく言われるし」


篤樹はおかしそうに目を細めた。


「吉沢さんって意外と面白いよね」

「そうかな。どこが?」

「うん、面白いと思う」


一人で納得するように繰り返し頷くのを眺めながら、今の会話のどこに面白いと感じるような部分があったのか振り返った。


同じ車両内で酔っ払ったおじさんの集団が大声で喋っている。いつもなら耳障りに感じるその音量に隠れて、私たちはいろんなことを話した。思えば篤樹と二人きりでゆっくり会話をするのは、その夜が初めてだった。研修の何が楽しかったとか、大変だったとか、学生時代は何をしていたかとか、これからどんなことをするのかとか。会話の内容も会社からはみ出していった。


「月曜日からもう本配属とか信じれないよね」

「ほんとに。なんだかんだ言ってまだ学生気分だもん」

「それなー。次会社行ったらもう皆はいないんだもんな」


篤樹が言う皆とは同期のことだ。私と篤樹の他にもう一人女の子が本社配属となっただけで、残りの大多数の子たちは日本全国にある支店や支社に散らばることになる。もうこの五週間のように出社して顔を合わせて、まるで学生みたいに机を合わせて同じ課題に取り組むこともない。週末が終われば、隣にいるのは先輩や上司たちになる。もう何年も社会人として生きてきた人たち。その頃の私はもう二十二歳で大学も卒業していたのに、大人に囲まれて責任を背負って自分も大人になっていくという実感がいつまでも湧かずにいた。


「みんながいなくてもさ、またご飯でも行こー」


素直にうん、と言いかけて、なんとなく思い留まった。普段より多めにアルコールを摂取したせいで考えが浅くなっているけれど、何かもっと真剣に検討しなければならないことがあるような気がした。


そんな私の曖昧さを待てず、篤樹が慌てたようにことばを付け足す。


「同期がいないとやってける気しねー」


会話は穏やかに、それでも決して途切れることなく続いていった。最寄り駅までの十五分があっという間に過ぎた。


「駅から家までどうやって帰るの?」

「いつもはバスだけど、今日はもうタクシー拾おうかな」


わざわざ確認するまでもなく最終バスが無くなっていることはわかっているのに、腕時計を見ながら答えると、一瞬の間が出来た。私が急に不安を覚えて顔を上げると、篤樹はすぐに笑顔を見せた。


「タクシーなんてリッチだね」

「なんてったって社会人だからね」


電車がスピードを失っていき、ホームに滑り込む。チャイムが鳴って左右にドアが開く。車内から見えたホームは不思議なくらいに暗かった。


「気を付けてね」


篤樹の声に明るいほうを振り返る。うん、と手を振って私は薄暗がりのなかに降り立った。ドアが閉まる。同じ電車から降りてきた人々は足早に階段を下っていく。千鳥足になるまで酒を飲んでも帰るべき場所は頭の隅に残っているらしい。規則的な音を立てて電車が去っていくと、都会の端にある駅は耳鳴りがするほどの静けさに包まれた。真っ直ぐ前、反対の方面へ向かう路線は終電も終わって誰もいない。その光景が奇妙に思えて、足元を見た。歩きやすさだけで選んだヒールの低いリクルートパンプス。


どこにも行く気になれず、座り込んでしまいたくなった。慌ててバッグに仕舞い込んだスマホを探して両手で握りしめる。さっき別れたことをもう後悔していた。


ほんの数十分、二人で時間を共有しただけなのにその日を境に私は篤樹のことを良いなと思うようになっていった。


 これは後になって本人から聞いたことだけれど、篤樹はあの電車が進んだ先どころか、沿線にも住んでいなかった。付き合い始めてしばらく経ったころ、私と二人になるための口実だったのだとはにかみながら誇らしげに打ち明けてくれた。私たちはただの会社の同期という関係から恋人同士になるまでの道を、ゆっくりと時間を掛けて進んだ。それは私が臆病だったせいかもしれないし、篤樹が配慮をしてくれたせいかもしれなかった。


私たちは滅多にケンカもしないまま、ここまでやってきた。いつだって明るく優しい彼に目立った不満なんてない。料理が下手なのはお互いさまで、だからこそ笑って相手のことを許せた。無趣味で時間を持て余していた私が彼に連れていかれてサッカースタジアムに出かけたこともあった。たぶん篤樹の恋人になっていなければ、一生大声を上げてよく知らないサッカーチームの名前も知らない選手のことを応援することなど無かっただろう。そういう意味では私たちはバランスが取れていて、良い関係を築けているはずだ。


だけどあの頃感じていた激流のような感情が、ここにはない。


 目立ったミスも犯さず、何事もなく無事にタイムカードを切る。自分の仕事が終わったら帰る。管理職を除いて、業務部のほとんどが定時から一時間以内には会社から姿を消している。二色しか選択肢が無いのなら、確実にホワイト企業だ。私だってほぼ毎日十八時には会社を出られる。そして電車のタイミングが上手く合えば、十九時半頃には玄関のドアを開けている。友だちのなかには毎日日付が変わってからタクシーで帰宅したり、会社に泊まったりしている人もいる。そんななかで自分は比較的時間があるはずなのに、毎日何もできないままに終わっていく。手の込んだ料理をすることも部屋を片付けることも念入りに肌の手入れをすることもできていない。興味も湧かないバラエティ番組をBGMにしてただなんとなくスマホの画面をスクロールしているだけ。その内に眠たくなって、眠る。このまま私はどうなっていくのだろう。そんなことを考えては眠れなくなる夜もある。あの頃の私は満たされていた。そう。かつての私が確かに持っていたはずのものを知らない間に失くしてしまっていた。


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