私が溺れた川

青井あるこ

私が溺れた川 01


 さっきまでの色とりどりな賑わいは、まるで演出だけ凝って中身のないミュージカル映画みたいだ、と思う。

霧雨が降る冷えた十月の日曜の夜。降りたばかりの電車は通勤時間帯にはいつも身動きができないほど満員になるのに、ところどころに空席があった。だけど座る気にもなれなくて、最寄り駅までの十五分間、私はドア付近に立ったまま車窓を流れていく暗闇を眺めていた。

いつも利用しているバスはとっくに最終便が出てしまっている。駅前のロータリーには私を待ち構えるかのように空車のタクシーが列をなしていた。ドライバーたちの視線を躱して歩く。

ハイヒールを履いた足が痛くて、今日の結婚式を思い返す。

終始はにかんだ笑顔を見せていた新郎新婦。二人を祝福する大勢のゲストたち。生い立ちを追った映像。友人代表の挨拶。新婦から両親への感謝の手紙。会場の端から端まで余すことなく幸福で装飾されていた。

ため息が漏れる。足と、引き出物が入った大きな紙袋を持った手が痛む。駅から部屋まではバスで十分。お呼ばれ用の履き慣れないピンヒールのパンプスで歩くような距離ではない。少なくとも私にとっては。霧雨が巻き髪を湿らせていく。傘を差すことすら煩わしい夜だ。

バス通りから路地に入る。見慣れない細い道を歩いていくと、大きなマンションを見つけた。

コンクリートの壁が雨に濡れて濃いグレーへと色を変えている。その建物の前に、住人用であろうゴミ捨て場があるのが目に留まり、吸い寄せられるようにそちらへ足が向かっていった。赤い枠で囲まれた看板にゴミは収集日の朝に出してくださいと書かれているのに、青いネットの下には複数の中身の詰まったゴミ袋が転がされている。傘を左肩と顔で挟んで、青いネットを持ち上げて、そこに右手に持っていたオパールのように光の加減で緑っぽくもピンクっぽくも輝く白い袋を乱暴に放った。振り返らずにゴミ捨て場を後にすると、荷物が軽くなったせいか気分までもだいぶマシになった。小さなハンドバッグに入りきらない荷物を入れているトートバッグから煙草とライターを取り出して、火を点けた。

久しぶりに呼吸をするかのように、深く肺まで煙を吸い込んで吐き出す。紫煙が湿った空気のなかにゆっくりと溶け込んでいく。つま先の痛みに耐えられなくなってパンプスを脱いだ。ストッキング越しに感じるアスファルトは想像よりももっとゴツゴツ、でこぼこしている。ふう、ともう一度煙を吐いてハンドバッグの中からスマホを取り出す。

メッセージが一件来ていた。


 篤樹:おつかれさま。

    今日はどうだった? また話聞かせてね。

    疲れてるだろうから、ゆっくり休んでねー。


さっき荷物を捨てて軽くなったはずの右手に急に重さを覚える。まるで薬指に嵌まるシルバーの指輪自体が質量を増したかのように。

スマホをバッグにしまって、脱いだパンプスを指先に引っ掛けて歩き出す。

静かな夜を一人で歩いていく。

イヤフォンは刺さない。あの日、私の音楽は完全に止まってしまったから。

結婚式なんて必要ないよね。

あの頃の私たちはそう言って笑い合っていた。誰かに祝福される必要も誰かに見せびらかす必要も無かった。

きっとあのとき、私は私のなかにある愛をすべて使い果たしてしまったのだと思う。

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