第12話 戦う覚悟


 大きな案山子かかしを思わせるキョンシーの体が飛び跳ねるたび、その顔に貼られたおふだがひらひらとなびく。そしておふだがときどき大きくめくれ上がるたび、その口元から鋭い牙がのぞく。

 おそらくやつの武器はあの牙による噛みつきと、ぴんと伸びた指先から突き出している長い爪だろう。俺はじりじりと迫り来る敵の戦力をそう分析しつつ、湧き上がってくる不安や恐怖を懸命けんめいに押し殺そうとしていた。


「すぅぅぅ……ふぅぅぅぅぅぅぅ…………」


 鼻から吸った息をへその下に溜め、口から細く長く吐き出すことで全身に血と酸素を行き渡らせていく。この腹式呼吸というやつは数多くのスポーツにおいて基本とされるだけあって、こういうときに気持ちを落ち着かせるのにも効果的だ。

 とにもかくにも、まずはきもえなければいけない。人は恐怖で体がすくんでしまうと、自分より弱いはずの相手にすら手も足も出なくなるからだ。

 そうして俺が戦う覚悟を決めるのに手間どっている間にも、すでにキョンシーはこちらの間合いに入る寸前のところまで近づいてきていた。

 相手のほうがリーチでまさっている以上、最初の攻撃は蹴り技から入るべきだろう。いくら三十センチ近くも身長差があるとはいえ、俺の脚がやつの腕よりも短いということはないはずだ。


(こいつ、ジャンプの歩幅もリズムも常に一定だな。これなら……!)


 このキョンシーという怪物は自我を失っているそうなので、妙な小細工を思いつくほどの知能もないのかもしれない。どこからどう見ても単調としか言いようのないその動きは、こちらにとってまさに絶好のまとだった。


「しぃっ!」


 俺はキョンシーが自分の前に着地しようとする寸前に、左足を大きく踏み込んで右の前蹴りをくり出した。まだ宙に浮いているやつの胸板に突き刺すような蹴りを入れ、ダメージを与えつつ後ろに吹っ飛ばしててやろうと考えてのことだ。

 我ながら、タイミングは完璧だった。

 俺の膝が完全に伸びきるのと同時に、足の親指と人差し指の付け根――中足ちゅうそくと呼ばれる部分がキョンシーのみぞおちにヒットする。そして次の瞬間――


 ―― ばぎゃんっ!! ――


 分厚ぶあつい木の板が砕ける音とともに、キョンシーがうつ伏せの格好で床に叩きつけられた。俺が蹴り上げたやつの体が板張りの天井に激突して、『へ』の字を描くように逆バウンドしたのである。


「ほぅ?」


 その光景を見て、マリーの隣にいたウォン導師がフクロウの餌鳴きみたいな声を上げた。ご自慢のキョンシーが吹っ飛ばされたことによほど驚いたのか、彼は元々大きな目をさらに見開き、興味深そうな表情を浮かべている。

 吸血鬼に転化したばかりのときもそうだったが、俺もまた自分自身のパワーに驚愕きょうがくしていた。今の蹴りはほんの様子見のつもりだったのに、八十キロはあろうかという相手がピンポン球のように吹っ飛んだのだ。しかもやつが激突したときの衝撃で、天井にも大きな穴が開いてしまっている。


「す、すんません! 部屋壊しちゃって……」


 俺は思わず老人のほうに向き直り、天井に大穴を開けてしまったことを謝罪した。なにせこの部屋は調度品だけでなく内装も豪華そのもので、とてもじゃないが親を亡くした貧乏浪人の俺に弁償できるとは思えなかったからだ。


「ははは、そんなことは気にせんでいい。それよりも、戦いの最中に敵から目を離すのは感心せんな」


 老人が笑いながらそう言って、キョンシーの吹っ飛んだほうを指差してみせる。その意味に気づいて俺がもう一度振り向くと、やつはまるで何事もなかったかのように立ち上がっていた。


(嘘だろ……まるで効いてないのかよ? 今の蹴り、人間なら胸骨どころか背骨まで折れるほどの威力だったはずだぞ)


 こちらがその驚異的なタフさに唖然あぜんとしている間にも、キョンシーが再びバネ仕掛けの玩具おもちゃみたいに飛び跳ねてくる。

 それなら次は本気の蹴りをくらわせてやろうと、俺が軽い前傾ぜんけい姿勢で構えたそのとき――やつは驚くべき行動に出た。


「なっ?」


 お互いの制空圏せいくうけんが触れ合うほんの少し手前で、キョンシーはいきなり俺に背を向けた。まるでバレエダンサーが片足を上げてスピンするように、その場でくるりと回ってみせたのだ。

 これが間合いの中で起こったことならば、バックハンドブローや後ろ回し蹴りといった回転系の技が来ると予想できる。棒のように硬直したやつの四肢でそんな技が出せるのかはともかく、手足を振り回すだけでもフェイントぐらいにはなるだろう。しかし双方の手足が届かないこの距離で、わざわざ無防備な背中をさらす意図はいったいなんだ?

 少し遅れて、俺の右側からなにかが空気を切り裂いて飛んできた。いや、飛んできたというよりは伸びてきたというべきか。


 ―― ひゅんっ! ――


っ!?」


 黒い蛇のようにも見えたその影の正体は、やつの後頭部から垂れ下がっていた辮髪べんぱつ(※清朝しんちょう時代の中国人男性の髪型で、腰まで伸びた長い三つ編み)だった。それが疾風を思わせる速さで俺の首をでつけ、右から左へと通り過ぎていったのである。

 鋭い痛みを感じてふと首筋に触ってみると、手のひらにべっとりと血がついていた。吸血鬼が持つ再生能力のおかげで傷自体はすぐにふさがったものの、俺が人間のままだったら今の一撃で死んでいたかもしれない。


(こ、こいつ……髪の毛の中にクナイみたいなもん編み込んでやがる!)


 振り抜かれた勢いでキョンシーの首に巻きついた辮髪べんぱつの先には、長さ十五センチほどのきらりと光る刃物がぶら下がっていた。細長いひし形をした刃の片端が小さな輪っかになっていて、そこに髪の毛を通して結んであるらしい。

 この技は古いカンフー映画で見たことがある。先端に刃物を仕込んだ髪を攻防の最中にひるがえし、敵の目や首を切り裂くというものだ。


「ヴァゥッ!」


 キョンシーがさっきとは逆方向に回転し、また辮髪べんぱつを振り回してくる。そして、俺がそれを避けようと上体をのけ反らせた瞬間――やつはそのまま跳び上がって、こちらとの距離を一気に詰めてきた。


(しまった、二撃目はただの脅しか?)


 ものを考えられないと思っていたはずの相手が意外な駆け引きを仕掛けてきたことに、俺はあせりや恐怖よりもむしろ感動を覚えた。今の攻撃は一撃目で俺に刃物への警戒心を植えつけ、二撃目を牽制けんせいに使うことでこちらのカウンターを封じるためのものだったのだ。

 こいつに知能がないなんて、とんでもない思い違いだった。いや、おそらく意識的に行動していないというだけで、やつが生前に身につけた技や戦いのノウハウは脳細胞に刻まれたままなのだろう。それがウォン導師の“戦え”という命令に従って、戦闘用AIのように肉体を操っているに違いない。

 くそ、駄目だ。こんなに上体がのけ反っていてはすぐにパンチを出せないし、蹴りを入れたとしてもこっちがバランスを崩してしまう。


「ガァッ!」


 俺の目の前に着地したキョンシーは、前に突き出した二本の腕をすさまじい勢いで振り回してきた。爪で切り裂くというよりは、打撃でこちらの首をへし折ろうとするかのような攻撃だ。


「っとぉ!?」


 ダッキングと呼ぶには不恰好ぶかっこうな動きで頭を下げ、横薙よこなぎの一閃をかろうじてかわす。やつの腕はどちらも硬直していて左右同時にしか動かせないのか、やたらと大振りだったのが幸いした。

 苦しまぎれに脇腹へボディブローを入れてみたが、キョンシーはよろめきながら少し後ずさっただけで、あまり効いた様子はない。肋骨が何本か折れた感触はあったものの、それがやつの動きに大して影響を与えていないようなのだ。


「ちっ! どうなってんだこいつの体は?」

「ミツキ、そんな生半可な攻撃を何度くらわせても無駄だ。不死者アンデッドの多くは人間をはるかに超える再生能力を持っているんだから、骨折程度のダメージはせいぜい二十秒もあれば回復してしまうぞ」


 マリーが仁王立ちに腕組みという昭和の熱血コーチみたいなポーズをとりつつ、さらりと恐ろしいことを言ってくる。だが俺はその言葉とさっきの刃物による攻撃で、自分が今やっているのが殺し合いだということにあらためて気づかされた。

 そう、殺し合いというのは相手の骨をへし折ってもそこで終わりではない。ルールのある試合ならばその時点でレフェリーが止めに入るのだろうが、それはあくまで試合に勝ったというだけのことだ。

 また相手が心をへし折られ、泣いて命乞いをしてきたとしてもそれで終わりではない。その言葉が嘘偽りのない心からの敗北宣言であったとしても、それはあくまで勝負に勝ったというだけのことだ。

 そもそもこのキョンシーは自我がないのだから、仮に八つ裂きにされたとしても“まいった”などとは言わないだろう。これは勝った負けたを決めるための戦いではなく、ただ相手に死を与えるための戦いなのだ。

 よく考えてみれば、俺があの狼男とやろうとしているのもそういう次元の戦いだった。やつに挑もうというのなら、俺も今ここでその領域に足を踏み入れなければいけない。


(とはいえ、再生の隙も与えずにこいつを殺す方法なんてあるのか? 頚動脈けいどうみゃくを切りつけて失血死させるにしても、銀の武器でなきゃ意味がないのはさっき身をもって学んだからな……)


 この戦いを終わらせるには目の前にいる敵を殺すしかないと腹をくくりはしたものの、俺にはその具体的な手段がなかなか思いつかなかった。なにせ俺のパワーは人間だった頃の十数倍はあるはずなのに、打撃ではやつの骨を砕くのが精一杯なのだ。

 心臓をえぐり出して握り潰すといった定番の方法も試してみようかと思ったが、マリーのように鋭くとがった爪を持っていなければそれも難しいだろう。不死者アンデッド同士の戦いというやつは、俺が思っていた以上に面倒くさいものらしい。


(よし、こうなったらイチバチかで頭を狙ってみるか。あのおっさんは顔を正面から攻撃するなって言ってたけど、おふださえ剥がさなきゃ問題ないだろ)


 俺は攻撃の狙いをキョンシーの頭部、それも脳の運動野がある部分(※頭頂部より少し前のあたり)に定めることにした。いくら不死者アンデッドだろうと肉体を操っているのが脳である以上、運動機能の中枢ちゅうすうを破壊してやれば動けなくなるはず。

 それに傷や骨折が元どおりに回復するのは、つまるところ新陳代謝によるものだ。ならばその機能をコントロールしている視床下部ししょうかぶさえ潰してしまえば、再生能力そのものを奪うことができるかもしれない。


「ゴァァアッ!」


 キョンシーがまた目の前まで迫ってきて、獣のようなうなり声とともに両腕を振り上げる。狙いは俺の頭か、それとも肩か。いずれにせよ、左右の手刀を同時に打ち込んでくるつもりだろう。

 相手の狙ってくる場所がおおむね予想できるというこの状況は、こちらにとって好都合だった。あの手刀を受け止めることでやつの両腕を封じておけば、今からやろうとしている俺の攻撃がさらに当てやすくなるからだ。

 ところが――


「ごぅっ!?」


 突然、胃の中でニトロでも爆発したかのような衝撃を受け、俺はものすごい勢いで後方へ吹っ飛ばされた。

 生まれて初めて味わう痛みに悶絶しながらも、俺にはなにが起こったのかすぐにわかった。上から振ってくる手刀を防ぐために両腕のガードを上げた瞬間、がらきになったボディを蹴り上げられたのだ。

 まさに油断。いや、剣道でいうところの『居着いつき』(※一つの型や考えに囚われること)というべきか。やつの脚は膝だけでなく付け根まで硬直していて、蹴り技など出せるはずがないと勝手に思い込んでいた。

 まずい、この先には病気で動くことのできないあの老人がいる。しかも宙に浮いた状態でこれだけ勢いがついてしまっては、どう身をよじっても軌道を変えることができない。

 このままでは間違いなく老人に怪我けがをさせてしまう――そう判断した俺は、せめて彼へのダメージが少しでも軽くなるよう身をすくめた。だが、あとは運を天に任せるしかないと目を閉じかけたそのとき――


 ―― ズドム! ――


「ぐぇっ?」


 直前にくらった蹴りほど強烈ではないものの、それとよく似た衝撃が今度は背中に炸裂して、俺は床にはたき落とされた。どうも誰かに蹴られたらしいが、もしかしてマリーが俺を止めてくれたのだろうか?


「痛てて……もうちょいやんわりとした止め方はなかったのかよ」


 そう言いつつ天井を見上げた俺の目に入ってきたのは、マリーではなく別の――先ほど老人の隣にいた、白髪の少女の顔だった。

 チャイナ服の脇にあるスリットから伸びた脚を下ろそうとしているところを見ると、どうやら俺の背中を蹴ったのは彼女らしい。しまった、もうちょい早く目を開けていればパンツが見えたかもしれないのに。


「ご……ごめんなさい。大丈夫……だった?」


 一見きつそうな印象を受ける顔立ちとは裏腹に、少女は驚くほど優しい声で話しかけてきた。

 七十キロ以上もある俺が吹っ飛んできたのを蹴りで止められるあたり、このがなんらかの武術を身につけているのは間違いないだろう。ひょっとすると彼女は老人の世話係ではなく、むしろボディガードに近いのかもしれない。


「キョンシーは力が強いだけで、速さはそれほどでもない……。それに動きそのものは単純だから……よく見て」

「お、おう……」


 少女がそっと差し伸べてきた手を握り、立ち上がる。すると彼女は自分から手を伸ばしてきたにもかかわらず、ぽっと顔を赤らめてうつむいてしまった。

 さっきは俺とそう変わらない年齢かと思ったが、こうして見ると彼女のほうが少しだけ年下のような気もしてきた。というか、このめちゃくちゃ可愛いな。


「オイこらミツキ、鼻の下を伸ばしてるんじゃあない! 今は戦いの真っ最中だぞ!」


 まだ手を握り合っていた俺たちにラブコメの波動を感じたのか、マリーが目つきの悪い猫みたいな表情でこちらをにらみつけてくる。そうだった、まずはあのキョンシーをなんとかしないと。


「わ、わかってるよ! 見てろ、次の攻防で決着けりをつけてやる」


 そう言いつつ、俺はボクシングを真似たようなフットワークで相手の右側へと回り込んだ。また強烈な攻撃で吹っ飛ばされたとき、その先にいる人間を巻き込まないようにするためだ。


「さあ、来いよ。さっきは意表を突かれていいのをもらっちまったけど、もう二度と同じ手はくわねーぞ」


 俺が声をかけたとたん、キョンシーがカラクリ人形のような動きで両腕をこちらに向けてくる。おそらくこいつは視覚でものを見ているのではなく、音や匂いなどからこちらの位置を割り出しているのだろう。

 そして俺もまた、やつに必殺の一撃をお見舞いするべく、浅く腰を落として拳を構えた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 第12話あとがき



 空手やボクシングなどの格闘技に限らず、キョンシーとの戦いでも間合いが生命線なのはFC版のゲームをやったことがある人ならわかると思います。

 それを読み違えるとあっという間にボコボコにされ、弟子にコンティニュー画面で「まったく、なんてよわくてなさけないせんせいだ!」と言われちゃうんですよね。

 ちなみに辮髪べんぱつの先に刃物を仕込んで振り回すのというのは、90年代のジェット・リー主演映画に出てきた技です。普段は刃が房状になった髪の中に隠れているため、切られるまで刃物が仕込んであることに気づかない、というものでした。

 現代では長い三つ編みの男性なんてまずいないと思うので、逆に警戒しろというほうが無理な不意打ち技として登場させてみましたが……主人公の蹴りよりも間合いが広いとなると、刃物を含めた髪の長さが一メートル超えてることになりますねコレ。


 今回の話は主人公の意識をアマチュアの『試合』からルール無用の『殺し合い』にシフトさせるのがテーマでした。

 元々この主人公は自分を見下そうとする連中から馬鹿にされたくないという一心で体を鍛えてただけなので、喧嘩はしても殺し合いまでする度胸はないという設定だったんですよ。

 そんな未成年の主人公がそう簡単に『殺す覚悟』を持てるようになるのもちょっと不自然かと思ったので、殺さない限り止められない相手と戦わせ、そうしなければ自分が殺されかねないという状況に追い込んだわけです。


 次回は不死身のキョンシー相手に主人公がどんな技でトドメを刺すのか、という話になる予定です。

 やはり『吸血鬼のパワーがあればこうなる』という威力で描写したいと思いますが、技自体も“絶対に真似しないでくださいね”という注意書きが必要になりそうな、人間の力でも実際に使ったらヤバいものですのでお楽しみに。

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ゼロから始めるヴァンパイアライフ ~闇の母が喪女をこじらせたオタク女だった件~ @FLAT-HEAD

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