第11話 ムーンライト・ヨコハマ
東海道新幹線の新横浜で下車し、市営地下鉄に乗り換えてやって来た関内駅。そこから少し東へ行ったところにある山下公園で、俺は日没とともに暗くなっていく海を眺めていた。
「横浜の
「きみ、よくそんな古い歌を知ってるな。それってきみの父親どころか、祖父の世代に
背後から聞き覚えのある声がしたので振り向くと、少し前にどこかへ行ったはずのマリーがいつの間にか戻ってきていた。
彼女は昔の知り合いが今どこにいるのか調べてくると言っていたが、こんなに早く聞き込みが終わるのはやはり催眠術が使えるからだろうか。
「ああ、俺がガキの頃に
「ふぅん……少し
「そんなことより、知り合いとやらの居場所はわかったのか?」
「おっと、そうだったね。うん、ここからだと歩いて二十分もかからないと思うよ」
「よし、じゃあ行くか」
そうして俺はマリーに案内され、東京湾に
「はぇー……すっげぇところだな。写真や映像で見たことはあったけど、ほんと日本じゃないみたいだ」
「実際に中国人が多く暮らしている町だからね。僕も来たのは久しぶりだが、雰囲気は昔とそんなに変わっていないな」
中華街の街並みは夜だというのにむしろ昼間よりも明るく、空に浮かぶ月の光さえ霞んでしまうほどだった。俺はこういったにぎやかな場所も嫌いではないが、この夏祭りのような
「で、こんなところに来てなにをしようってんだ? まさか四川料理の店に
「僕たち
そう言いつつマリーが足を止めたのは、俺たちが歩いていた大通りの中でもひときわ立派な店の前だった。中国の寺院にある五重の塔によく似たその建物の入り口には、黒地の板に白い文字で『黒竜江飯店』と書かれた看板がかけられている。
「ここって……やっぱ中華料理の店じゃねえか! メシ食う以外でこんなところに用事って、他になんかあるのかよ?」
「まあ、いいから黙ってついてきなさい」
「お、おい……!」
マリーは俺の質問に答えることなく、堂々と店の自動ドアをくぐっていく。俺も慌てて彼女の後を追ったが、こんな高級そうな店に冷やかしで入ってもいいのだろうか?
「いらっしゃいませ、お二人様でよろしいでしょうか?」
俺たち二人が店内に足を踏み入れると、すぐに黒いタキシード姿の青年が声をかけてきた。こちらはてっきり
「いや、悪いが僕たちは食事をしにきたわけじゃないんだ。
マリーがそう口にした瞬間、それまで温和な笑みを浮かべていた青年の表情が急に変わった。口元は
「失礼ですが……あなたのような若いお嬢さんが、なぜ
「とてもそうは見えないだろうが、僕は彼の古い知り合いなんだよ。“
「……少々お待ちください」
青年はそう言い残して店の奥へと引っ込んでいった後、俺たちからは見えないところで別の誰かとなにか話しているようだった。中国語なので会話の内容まではわからないが、ただならぬ様子なのは声の調子から伝わってくる。
「おいマリー、お前の知り合いってのはなんかヤバいやつなんじゃないだろうな? さっき言ってたヘイロンパンって、まさかチャイニーズマフィアとかじゃ……」
「ああ、そのまさかだよ。この地域のヤクザと長年にわたって利権を争ってきた中華系マフィアの
「ちょ……!」
「お待たせしました。どうぞこちらへ――」
俺がマリーの真意を
男に
(この喪女、いったいなに考えてんだ? 吸血鬼と戦う特訓のためにわざわざ会いにきた相手が、よりによってマフィアって……)
俺たちがドジョウ
さらに男の手が止まると同時に俺たちの乗っているカゴが動きだし、体が一瞬浮き上がるような感覚に包まれる。これは……地下に下りているのか?
「ふぅん、なかなか
「はい、
「そうか……彼ももう八十歳を過ぎているはずだから、体のどこを悪くしていても不思議じゃないな」
そう言って遠い目をするマリーの横顔が、俺には少しだけ寂しそうに見えた。きっと彼女は五百年もの時を生きているうちに、知り合いが自分よりも先に死んでいくのを何度も見送ってきたのだろう。
それから間もなくエレベーターが停止して、重苦しい音とともにドアが開いた。体感だと五階か六階分は下りてきた気がするが、ここはいったい地下何メートルなのだろうか?
「おぉぅ……」
エレベーターを降りた先に広がっていたのは、とても地下の部屋とは思えないほど美しい空間だった。床に敷かれた
「老板、帯来了(
「
たっぷり五十畳ほどもありそうな部屋の奥には、大きな介護用のベッドが背もたれの起きた状態で置かれていた。そのすぐ隣には心拍などのバイタルサインを計る機械も設置されていて、ここが重病人を介護するための部屋だと一目でわかる。
そしてベッドに身を起こしてこちらをじっと見つめていたのは、まるで枯れ枝のように細い体つきの老人だった。胸のあちこちに貼られた電極パッチや鼻から伸びたチューブなどが痛々しいが、どうやらこの人がマリーの言っていたマフィアの親分らしい。
「やあ、久しぶりだね
「……ああ、なんと懐かしい声だ。この長き人生に終わりが
マリーに
「僕も会えて嬉しいよ
「
「どれだけ時が流れようと、僕にとってきみは今でも
マリーがそう言い終えた瞬間、老人の目からぼろぼろと涙がこぼれだした。彼女たちの間になにがあったのかは知らないが、少なくともこの二人はかなり古くからの知り合いらしい。
ふと見ると、老人の横には俺と同じぐらいの歳だと思われるチャイナ服姿の少女がいた。あまりに無表情すぎて一瞬マネキンかと思ったが、雪のように白い髪のとても可愛い女の子だ。
少女は老人のすぐ隣に立ち、彼の目から溢れる涙をハンカチで拭ってやっていた。マリーと同じくらい端正なその顔からはまるで感情が読み取れないが、少なくとも彼女が冷たい人間でないことはその優しい手つきでわかる。
「もう……長くはないようだね」
「ああ、医者からはあと半年も持たないだろうと言われている」
「ほとんど不老不死の僕が言っても説得力はないかもしれないが、死ぬことを恐れる必要なんてないよ。神も仏もこの世で生きている人間を救おうとはしないんだから、彼らにはあの世できみを裁く権利もないさ」
「ははは、そういえばあなたはオルレアンの乙女が処刑されたのを知って理神論者になったと言っていたな。なるほど、神や仏がいないのなら、天国や地獄もありはしない……か」
二人は部外者にしてみれば笑えないことを話題にしながらも、実に楽しそうな様子で語り合っていた。老人の口調そのものは
「それで、今日はどんな用件でここに? まさか私の死期が近いことを予感して、わざわざ見舞いに来てくれたというわけでもあるまい」
「ああ、実はこの子を
「ほう……あなたもついに
老人が俺の隣にいたドジョウ
それにしても、マリーが言っていた『アレ』というのはいったいなんなのだろう? “飼っている”というからには生き物だと思うが、とりあえず虎やライオンのような猛獣でないことを祈りたい。
俺がそんなことを考えながら十五分ほど待っていると、背後にあるエレベーターのドアが再び開いた。
「おやおや、本当にヴェルレーヌ嬢ね。これはまた懐かしい」
妙に
「やあ、
「ほっほっほ、こう見えても色々と健康には気を
「すまないが、今日は連れのためにきみが飼っているあれを使わせてほしいんだ。おそらく壊すことになってしまうと思うが、構わないかい?」
「ああー、いいよいいよ。どうせもうこんなモノをけしかけて敵対組織の幹部を暗殺するなんて時代じゃないし、歴史の闇に消えていくだけだったはずの私がまだ組織のお役に立てるなんて嬉しいことね」
マリーに
また
「
「
「ああ、こちらのことは気にせず存分にやるといい。
「では……」
旧知の仲らしき三人は、そもそも当事者であるはずの俺をすっかり無視して話を進めている。そしてフクロウ
その瞬間――
―― ドゴォン! ――
「うおっ!?」
雷が落ちたかのようなものすごい音とともに、ストレッチャーの上に安置されていた棺桶の
「グゥゥォァァ……」
それは、俺が昨日出くわした
なにより俺の目を引いたのは、そいつの
「な、なんだよこの気色
「ミツキ、そいつを練習台にして
「待て待て待て、その前にこいつがいったいなんなのか説明しろ!」
「なにって……中国の吸血鬼、いわゆるキョンシーだよ。この国でも三十年ほど前にカンフー・ホラーというジャンルの映画で一大ブームを巻き起こしたはずなんだが、古い
「自分が生まれる前のことをなんでもかんでも知ってるわけねーだろ! つーかお前、俺をクイズ番組に出るのが趣味の雑学王かなんかだとでも思ってんのか?」
「うーん、あのシリーズは今でもそこそこ有名だろうと思ってたんだけどな。まさかきみがそこまで驚くとは……」
マリーはどこかとぼけた顔をしながら、そういうポーズをつけられた人形のように首をかしげている。
くそ、このポンコツ吸血鬼め。なんの予備知識もない状態でこんなのが目の前に現れたら、誰だって面食らうに決まっているだろうが。
「まあ、こいつは
「やれやれ、壊してもいいとは言ったけど、もう少し歴史と伝統というものに対して敬意を払えないものかね。確かにもう自我を失っているとはいえ、こいつはもともと拳法の達人だった極上のキョンシーよ」
俺が勝って当たり前と言わんばかりの
こうして向き合ってみたところ、このキョンシーとやらの身長はちょうどあの狼男と同じくらいだ。体重は肉付きから察するに八十キロ前後といったところだろうが、今の身のこなしからするともう少し軽いかもしれない。
「一つだけ忠告しておくけど、頭を正面から狙うのはやめておくことね。もしも
(なんだこの動き? 気持ち
それは俺が今までゾンビ映画などでも見たことのない、なんとも奇妙な移動法だった。
「ミツキ、気をしっかり持ちなさい。そんな操り人形のような相手にも勝てないようじゃ、
「――――っ!」
俺が少し臆病風に吹かれていることに気づいたのか、後ろにいたマリーが軽く馬鹿にしたような口調で
そうだ、これからあの狼野郎と戦おうってのに、こんな
「ああもう、わかったよ! やってやらぁ!」
キョンシーは一定の歩幅とリズムを刻みながら、真っ直ぐにこちらへと向かってくる。
俺はそれを迎え撃つために大きく腰を落とし、初めての実戦に挑むべく拳を構えた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
第11話あとがき
今回は横浜中華街にある店の地下を舞台に、いよいよ主人公の初戦闘が始まるシーンを描きました。
組織のボスとして登場した
彼の本名である
ちなみにキョンシーを動かす役として登場させた
今回の作中に『理神論』という言葉が出てきましたが、これはわかりやすく言うと“この宇宙を生み出した『理』=物理法則そのものが神であり、そいつは独立した人格を持っていたり人間の営みにいちいち関わってきたりはしない”という思想です。
頭ごなしに神の存在を否定するだけの無神論とは違い、神と呼べる存在自体はいる(在る)かもしれないと認めているので、むしろ“神がいようがいまいが、人間にはそれを知る手段がない”とする『
東洋の吸血鬼ともいえるキョンシーと本家本元の
今回の話を書くにあたって『キョンシー』という単語が登録商標になっていたりしないかどうかを調べたんですが、向こうでは普通に使われている一般名詞なんですね。
ちなみにキョンシーという発音は広東語読みなので(標準的な北京語読みでは『チャンスー』)、そのままだと他の人物名や組織名が標準読みなのに対して少々おかしなことになるんですが……。ここはキョンシーという読み方のほうが一般に広く浸透しているということで、なにとぞご了承ください。
次回からはようやく本格的なバトルが始まりますが、その中で主人公がどうして
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