第十六章 喪失

第115話義昭の決断

 堺の一件から、一年と半年が経った。

 その間、仕事が忙しくてずっと城に詰めていた。

 何故忙しかったというと、四方八方から敵が攻め込んできたからだ。

 一つは武田家の侵攻――とは言っても少々事情が異なる。

 三方ヶ原の戦い以来、武田信玄は病に臥せっていると情報があったが、実は死んでいたのだ。

 これはなつめにも探らせたから間違いなかった。

 大殿は運が強い。おそらく最大の敵であろう信玄が本格的に戦う前に死んだのだから。


「しかし跡を継いだ武田勝頼は凡将ではないらしい。一層気を引き締めなければ」


 秀吉はそう言ったのだけれど、僕たちは浮かれていた。

 信玄を相手取るよりも簡単だとタカをくくっていたのだ。

 でも、それが大きな間違いだと気づく。


「武田勝頼、東美濃の十八の城と砦を攻め落としました!」


 浅野くんが書類仕事をしていた僕にそう報告してきた。

 思わず筆を落としてしまった。


「それは、本当なのかい?」

「まことです! 至急、評定の間にいらしてください!」


 その日は夜まで話し合いをしたけど、何の解決策を得られなかった。

 武田信玄を失っても、武田家の脅威は残っていたのだ。


「今の主命どおり、鉄砲の生産を急ごう。大殿は三方ヶ原のような策を考えているはずだ」


 秀吉はそう言って、評定を打ち切った。

 後で半兵衛さんにどうしたらいいのかと訊ねると「秀吉ちゃんの言うとおりね」と咳一つした。


「武田家は災害のようなものね。どう足掻いても侵攻を止めるのは難しいわ」

「そんな……」

「でもね、それでも大殿は何かお考えがあるみたいよ」


 半兵衛さんが力強く言ってくれたので、ほんの少しだけ安心した。

 今の生活を守りたい僕が居たから。


 そしてもう一つ、災害と評すべき勢力が台頭してきた。

 本願寺である。

 なんとせっかく平定した越前国に一向宗が攻め入り、元朝倉家家臣の代官たちを次々と殺めて、一挙に奪われてしまったのだ。

 これは武田家の美濃侵攻と同じ時期だった。だから対処のし様がなかった。

 北近江は越前国と隣接している。もし攻め入るのなら、僕たちの領地からだ。

 僕たちはまず、朝倉義景――今は義恵という法名だ――を救い出そうとする。いや救い出すという言い方は違うかもしれない。もし還俗でもされて、越前国の傀儡にされたら、それこそ手の付けようがなかったからだ。

 長政が決死の覚悟で潜入したけど、失敗に終わった。

 久政寺に押し入ったとき、義恵は既に死んでいた。

 武士らしく切腹して。

 おそらく利用される前に自ら命を断ったのだろう。


「朝倉殿には言いたいことが山ほどあった。しかし、潔く死なれては何も言えないではないか……」


 久政さまのこともあり、長政は複雑そうな顔で呟いた。

 僕は何も言えなかった。ただ黙って肩に手を置いた。


 その他にも、伊勢長島で一向宗が蜂起した。長島城などを乗っ取り、尾張を狙う姿勢を見せた。

 ここにおいて、織田家は空前絶後の窮地に陥っていた。


 こうして一年と半年の間、僕たちは仕事に忙殺されていたのだ。

 唯一の救いは、越前国の一向宗が北近江に攻め入らなかったことだ。

 それは義恵の死が影響している。

 理由として旧主朝倉義景を死に追いやったこと。そして朝倉家は長年、一向宗と敵対していたことが起因している。


 鉄砲の生産と年貢の管理、一向宗の備えに追われている中、ある日僕は義昭さんから手紙をもらった。

 何でも話したいことがあるとのことだった。

 秀吉に相談すると「公方さまの呼び出しだ。断るわけにもいかん」と渋々許可をくれた。

 この頃、志乃は施薬院に行っていたので、ついでと言ってはなんだけど、会いに行くことにした。


「こんなに忙しいときなのに、将軍さまは何の用だろうか?」

「そう言うな雪隆。この国の武家の頂点に立つお方の呼び出しを無視するわけにもいかん」


 一緒に京へ向かっているのは、雪隆くんと島だった。僕が義昭さんと友人であると伝えるとかなり驚いていた。いや、驚いていたのは二人だけで、勝蔵くんはよく分かっていなかったし、なつめは大笑いしていた。

 とりあえず、雪隆くんは僕の家臣で、島は客将だから、一度お披露目する必要があった。 

 だから同行を頼んだのだ。


「くれぐれも粗相のないように。気さくな人だけど、礼儀は大切だから」


 釘を刺してみると「そうは言っても礼儀なんて自信ない」と珍しく雪隆くんが弱音を吐いた。


「こんなことなら作法を習っておけば良かった」

「僕の真似をすればいいさ」


 そんな会話をしつつ、僕たちは京に着いた。

 以前より活気があったけど、なんだか騒がしい。

 皆、心ここにあらずといった感じだ。


「どうする? 志乃さんに会いに行くのか?」

「いや、二条城へ向かう」


 胸騒ぎがしたから、まず義昭さんと会うことにした。

 二条城で身分を明かし、中へと招かれた。

 そして義昭さんと対面する。

 傍には一覚さんも居た。


「雲之介。久しいな」

「義昭さんもお元気そうで何よりです」


 元気そうと言っても、以前に会ったときよりも痩せていた。

 いろいろと気苦労が多いんだろうな。


「そこの者たちは?」

「僕の家臣、真柄雪隆と、客将の島清興です」

「ほうほう。家臣ができたか。うん? 真柄? 確か朝倉家に居なかったか?」

「その息子ですよ」

「そうか。今後とも雲之介を助けてやってくれ」


 島とやや遅れて雪隆くんは平伏して「ははっ!」と応じた。


「一覚。雲之介に言っても良いか?」

「……公方さまが決めたことですので、私は何も言いません」


 一覚さんは暗い表情で答えた。

 一体、何が起こるんだろうか……


「雲之介。私は決めたぞ」

「何を、ですか?」


 義昭さんは晴れ晴れとした顔で僕たちに告げる。


「私は将軍を辞することにした」


 最初は何を言っているのか、分からなかった。

 でも、否応にも理解させられる。


「もしかして、細川さまのせいですか?」

「ああ。あやつ、どうしても暗躍を止めぬからな。こうして足利家を終わらすしか、止められないだろうよ」


 義昭さんは「それにいささか疲れた」と溜息を吐く。


「私は天下を治める器ではない。将軍をやって思い知らされた」

「それで、将軍を辞めてどうするつもりですか?」


 義昭さんは「織田家に権限を委譲する」とあっさり答えた。


「信長殿が将軍をやるのだ。それを岐阜に行って伝えてほしい」

「大殿が、将軍に?」

「ああそうだ。その前に左近衛権中将に任官してもらう。それがその宣旨だ」


 義昭さんが一覚さんに身振りで命じる。一覚さんは僕に文を手渡した。

 僕は、義昭さんに同情を覚えた。

 だから――


「もう一度お聞きしますが、義昭さんは将軍を辞めた後、どうするつもりですか?」

「寺に行こうと考えているが」

「良ければ長浜に来ませんか?」

「……なんだと?」


 思わぬ申し出に義昭さんは驚いたようだ。


「穏やかに、何事も思い悩むことなく、ゆったりとした生活を送りませんか?」

「……魅力的な申し出だ」


 義昭さんは目を細めて、考えてくれた。


「信長殿に文を書く。しばし待て」




 僕はその後、施薬院に行って、志乃と子どもたちに会った。

 志乃は相変わらず美しかったし、子どもたちはかなり大きくなった。

 晴太郎は少し臆病だけど、優しい子だった。

 かすみはおてんばだけど、優しい子だった。

 このまますくすくと育ってほしい。


 そして、岐阜城に僕たちは登城した。

 大殿に宣下と文を手渡す。


「なるほど。公方さまが……」


 大殿は不機嫌な様子だった。まあ東西南北に敵が居るのだから当然だけど。

 宣下を聞いたときも変わらない態度だった。


「今の膠着した状況を打破するには、俺が将軍になるしかないな」


 そう呟いた大殿。それに側近の堀秀政が「では上洛なさいますか?」と訊ねた。


「ああ。急ぎ上洛の準備をする。兵を集めよ」


 そして大殿は「大義であった」と僕に言う。


「褒美に何が欲しい?」

「褒美、ですか? ……思いつきません」


 大殿は「ふはは。相変わらず欲のない男よ」と高笑いした。


「まあいい。急ぎ猿に伝えよ。お前も上洛するようにと」

「かしこまりました」


 なんか最近伝令役みたいだなと思いつつ、僕たちは馬を走らせる。

 この一連の行動が僕を苦しめることになるなんて。

 思いもよらなかった。

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