第77話向き合うこと

 呆然としている山科さまに対して――僕は静かに語りかける。


「そもそも、僕に裁く資格なんてありません。だって――記憶が無いのですから」


 話を聞いていても、頭痛が酷くなるばかりで、何一つ思い出せない。

 幼い頃の記憶だから?

 失ってしまったものは取り戻せない?

 理屈は分からないけど、そういうことなのだろう。


「受けた仕打ちも分からないのに、酷いことをされた自覚も無いのに、山科さまを裁くなど、できないです」

「し、しかし――わしは、君に裁かれる覚悟で」

「ええ。あなたに罪があるとしたら、そこでしょうね」


 一呼吸置いて。僕は山科さまに言う。


「僕はあなたを許せない。とてもじゃないけど、許容することはできない。どうして、巴さんを――死なせてしまったのか。そこだけが悔やまれる」


 記憶の断片。僕を殺そうとするところしか思い出せないけど、それでも僕の母親だ。

 愛情はない。むしろ恐怖の対象だった。

 それでも――情けはある。


「心に傷を負った巴さんに寄り添うことすら、あなたはできなかった。罪があるとするのならそこですね。良秀との関係に気づけなかったとか。襲われてしまったとか。起きてしまったことは仕方ないけど、慰めることや向き合うことはできたはずです」


 山科さまは僕から目線を外した。その姿は疲れきった老人そのものだった。

 腰が曲がっているのも、目の下の隈が酷いのも――長年の勤めではなく、罪の意識からだと、今更ながら気づいた。罪の重荷を背負い、夜も眠れないほど悩んでいるからだ。


「過去のことを今更言っても、仕方がありません。それは僕も理屈では分かっています」


 突き刺した刀を引き抜き、捨てた鞘を拾って納める。


「でも――許せない。正直、怒りを感じている僕も居ます」


 小刻みに震えている山科さまに僕は言い放った。


「一生、向き合ってください。罪悪を感じながら生きてください。巴さんの成仏を祈ってください。毎日ずっと。死ぬまでずっと。それがあなたの贖罪になる」


 気がつくと、僕は泣いていた。悲しくて泣いているのだろうか。

 それとも――


「僕はあなたを祖父とは思わない。母も母とは思えない。父親なんて論外です。記憶を失くしただけじゃない。家族というつながりも、今日で失くしてしまった」

「…………」

「だけど淋しくない。僕には志乃が居る。晴太郎もかすみも居る」


 僕は座って泣いている志乃に近づいて、背中から抱きしめた。


「記憶を失くしたことで得たものもある。それで帳消しになるわけじゃないですけどね」


 強く抱きしめる。離れないようにずっと。志乃が振り返って、僕の顔を覗きこむ。


「志乃。これで良いんだよね……いや、これで良いんだ」

「……あなたがそう思えれば、それでいいのよ」


 その言葉に、安心を覚えた。

 いつの間にか、頭痛は消え去っていた。


 良秀は何者なのか。何の目的があって巴さんに近づいたのか。今生きているのか。どうしてそんな仕打ちをしたのか。

 尽きることのない疑問を解決するのは、難しいだろう。月日が流れすぎた――

 意気消沈している山科さまを残して、僕たちは屋敷から去った。

 別れの言葉はなかった。もう再会することもないんだろう。


「ねえ雲之介。どうして刀を抜いたの?」


 雪が道端に積もっている。とても寒い。

 寄り添うように傍を歩く志乃が不思議そうに僕に訊ねる。


「あなた、本当は怒ってなかったんでしょう?」

「うん? 怒ってたよ。でも殺すつもりなんてなかった」

「じゃあなんで――もしかして、私が詰め寄ったから?」


 僕は頬をぽりぽり掻きながら「山科さまを黙らせようとしただけだよ」と答えた。


「口が達者な人だから、一回脅すことで、何も言えなくしたんだ」

「ふうん。よく分からないけど」

「はっきり言えば、なんで刀を抜いたのか。僕にも分かってない」


 志乃は「なによそれ」と言ってけたけた笑った。僕の一番好きな表情だった。


「でもあなたがあの決断をしたのは、嬉しかったわ」


 志乃がしんみりと言う。


「殺さないとは分かっていたけど、もしかして許しちゃうんじゃないかって冷や冷やしたわ」

「そんな甘くないよ僕は」

「でも、山科さまを自害に追い込まなかった。あなたならできたはずなのに」


 確かにそうだった。あの場で弾劾できたと思う。自害に追い込むほど責め立てることもできたはずだ。

 でもそれはしなかった。


「それはどうして?」

「……あれでも祖父だから。ここで殺してしまったら、晴太郎やかすみに顔向けできないと思って」


 何の取り繕うこともない、本音だった。

 志乃は嬉しそうに「それでこそ、雲之介よ」と言ってくれた。


「さて。これからどうするの?」

「秀吉から休みをもらったから、三日間はゆっくり過ごせるよ」

「家族水入らずね」

「それから、友人に会いに行く」


 僕は問わないといけない。

 山科さまとはまた違う緊張感があった。


「ふうん。その後は?」

「秀吉と一緒に軍備を整えて、朝倉攻めかな。またしばらく会えなくなるかも」


 志乃は「そっか」と言って頭を僕の肩にくっつけた。


「なら、淋しくないように、一緒に居たいな」


 僕は志乃が愛おしくてたまらなかった。

 これが、愛情なんだろうなと、志乃の肩を抱き寄せながら、思った。


 三日の間、とても楽しく過ごせた。

 晴太郎が言葉を話した。最初の言葉は「おとー」だった。志乃は悔しがってかすみに「おかあって呼ぶのよ」と教え始めた。

 お馬さんになって屋敷中を歩いたり。

 秀長さんからいただいたでんでん太鼓を鳴らしてあやしたり。

 志乃と一緒に雪見酒をしたり。

 四人で京の町を歩いたり。

 楽しい三日間は矢のように早く過ぎ去っていく。


 そして二条城に向かおうとしたとき。

 屋敷の前に輿が止まっているのが見えた。


「ねえ、雲之介。あれは――」


 見送りで外に出ていた志乃も気づいたようだった。

 輿が下りて、中から出てきたのは――


「久しいな。雲之介」


 今から会いに行くはずだった、義昭さんだった。


「よ、義昭さん!? どうしてここに――」

「そなたに会いに来た。いや、そなたに殴られに来たんだ」


 お供の者に「ここで待つように」と言い残して、屋敷に入る。


「まずは茶を出してくれ。あのときと同じように」




 茶室なんて上等なものはない。だけど茶道具だけは一式ある。

 僕は薄茶を点てて、義昭さんに差し出した。

 志乃は離れて、その様子を見ていた。


「――美味いな。監禁されていても、衰えていなかったか」


 茶碗を置いて、僕を真っ直ぐ見る義昭さん。


「明智から、話は聞いているか」

「ええ。対価もいただきました」

「そうか……本当にすまない」


 義昭さんは。

 第十五代将軍である義昭さんは。

 織田家陪臣の僕に対して。

 ――土下座をした。


 僕は――何も言わずに見ていた。


「ちょっと! 何をなさっているんですか!? 雲之介、何ぼうっとしているのよ!」


 志乃が焦った様子で僕に言う。


「良いのだ奥方。私はそれだけのことをした」


 頭を上げて。義昭さんは僕に言う。


「謝らなければ、そなたと向き合うことなど、できやしない」

「……どうして、僕を監禁したのですか?」


 僕の言葉に最も驚いたのは、志乃だった。


「えっ? く、雲之介? 何言っているのよ? あなたは三好家との交渉に失敗して……」

「それは偽りだ。実はあれは仕組まれたことなのだ」


 義昭さんは僕に向かって言う。


「浅井家先代当主、久政の死。本願寺の蜂起。武田の侵攻。そなたの監禁。これら一連の動きを仕組んだ者。そして織田包囲網を画策した者。その首謀者を、今ここで明かそうと思う」

「…………」


 僕は何も言わずに義昭さんの言葉を待った。


「……私もその首謀者に協力してしまった。その罪は消えん」


 そう前置きして、義昭さんは話した。


「首謀者の名は――」


 その事実に、僕は向き合うことになる。

 目を逸らさずに、真っ直ぐ見据えるんだ。

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