第76話母と父と祖父のこと

「君の母親の名前は――巴という。わしの娘だ」

「じゃあ、山科さまが――」


 僕の祖父ですかと言いかけて、手のひらを向けられることで、止められる。


「言わないでくれ。わしが君の――そんな資格はない」


 山科さまの言葉は僕の胸を締め付けた。隣に居る志乃の顔は強張っている。


「親の贔屓目もあるだろうが、巴は美しい娘だった。君によく似ていた。いや、君は父親にも似ている……」

「父親――どのような人だったんですか?」


 山科さまは「君には伝えたくないことだが」と前置きして、膝に置かれた手をぎゅっと握った。


「最低の男だ。語るのもおぞましいほどの、唾棄すべき男だ」

「…………」


 名も知らぬ父親を罵倒されても傷つきはしなかった。だけど虚しさを覚えていた。


「そういえば、志乃さんから聞いたが、君は優しい性格なのだな」


 山科さまが唐突に訊ねた。


「ええ。よく言われます」

「巴もそうだった。優しい娘で、わしが勤めで悩んでいたときも励ましてくれるような子だった。笑顔が素敵で、日輪もしくは観音さまのようだった」


 先ほどから――過去を語るような口調なのが気にかかった。


「巴が十六のときだった」


 空気が変わった――あるいは乾いた。


「巴が外出していたとき、その男と出会った。なんでも巴が侍女と一緒に橋を渡っていたとき、子どもが川で溺れていたのを見つけたらしい。当然、巴と侍女では助けられん。しかしそのとき、川に飛び込んで助けたのが、その男――良秀だったという」

「その良秀という人が――」

「いや。おそらく偽名だろう。調べた結果、それしか分からなかった」


 偽名を用いて、巴さん――母とはどうしても呼べない――に近づいたのか。


「良秀は仕官を求めて京にやってきた素浪人と名乗っていた。巴は我が家の下男として働くのはどうかと提案したようだ。わしも実際に会って話してみたら、意外と教養があってな。気に入ってしまったよ。今思えば、過ちだったが」


 次第に心臓が破裂するくらいに高鳴ってきた。

 怖い。なんとなく予想できるのが、怖い。


「良秀はとても良く働いてくれた。朝から晩まで、熱心に。仕事の合間に巴と話すことが多かった。次第に巴は良秀に惹かれていった。良秀のやつも満更ではなかったようだ」


 山科さまは大きな溜息を吐いた。後悔しているのだろう。何故か分かってしまった。


「男女の関係になるのは早かった。わしは気づかなかったよ。その頃、朝廷での仕事が忙しく、各地を転々としていたから。だから――巴に良秀との子ができて、その子が産まれたと知らされたのは、全て終わってからだった」


 全てが終わってから?

 何が終わったんだろう?


「良秀は巴にこう言ったらしい。『身分が違う俺たちが一緒になるには金が必要だ。巴さん、ご主人さまが集めた献金のありかを教えてくれ。何、全部は持ち出さない。後で返せば許してくれる』とな」


 隣に居る志乃が「まさか――」と息を飲んだ。


「巴はありかを教えてしまった。しかもそれだけではない……」


 目の前の老人は、怒りを込めた目で宙を睨む。

 そうしないと、涙が溢れるとでも言わんばかりに。


「駆け落ちするため、約束の場所に来た巴の目の前には良秀と――複数の下衆な男たちが居た」

「……嘘でしょ?」


 思わず出た、志乃の驚きの声。

 僕は何も言えなかった。不意に戦場で悲しいことをさせられた女たちを思い出す。


「三人目からは、覚えていないと……その様子を良秀は笑って見ていたと……」

「もうやめて! もう、分かったから……」


 志乃の制止が遠くに聞こえる。

 あまりの衝撃で言葉を失う。呼吸が荒くなるのを感じた。


「私、そんなこと、聞いていなかったわよ! 良秀が、雲之介を捨てたとしか――」

「嘘は言っていない。だが君たちには知っておいてほしかった」


 山科さまは僕を哀れむように見つめた。

 全身の震えをなんとか静めるのに必死だった僕は――


「そうして産まれたのは、君だったんだ」


 頭痛が激しくなる。意識が飛びそうになるほどの激痛。


「雲之介! もういいわ! もう十分――」

「い、いや、まだ聞く……」


 やっと、言えた。声に出して、言えた。


「無理しないで! 顔色が悪いわよ!」

「いいんだ。続けて、ください……」


 山科さまは「分かった。続けよう」と言って、深呼吸した。


「心身ともに傷ついた巴は、君を放そうとせずに、この屋敷の離れで暮らすようになった」


 この屋敷で、僕は育った?

 まったく思い出せない。


「君はずっと一言も話さない母親と四六時中居た。だからだろう、五才まで何も話せなかった。君の幼名の猿丸は、そこから名付けられた」

「…………」

「六才になった君は少しずつ言葉を覚え始めた。尋常ではない速度で。そんな君をわしは嫌うようになった。しかしそれでも殺そうとは思わなかった。半分は巴の血が流れているのだから。けれども――」


 次の言葉で、僕の記憶の断片が、明るみになる。


「ある日、巴は君を水瓶に沈めて殺そうとした」


『可哀想な子。そして罪悪の子……』


 哀れむ女の人の声。


『この子は、生まれてはいけない子』


 そのとおりだと、自分でも思う。


『せめていっそう、この手で……』


 頭を押さえつけられる。


『この手で、殺したい』


 呼吸ができない――


「雲之介……?」


 現実に引き戻される。

 志乃だった。


「君、大丈夫か?」


 山科さままで、僕のことを慮っている。


「大丈夫です……」

「……そうか」


 山科さまは悲劇を語り出す。


「そのときは死なずに済んだが、いつ巴が君を再び殺めようとするのか、分からなかった。だから部下に命じた。君を殺すようにと」


 志乃は「な、なんで、そんなことができるのよ……」と震える声で山科さまを非難した。


「く、雲之介は、あなたの――」

「わしには愛情がなかった。それどころか清々する気分だった」

「この――最低!」


 志乃が立ち上がろうとしたのを――手を引っ張って止める。


「雲之介!?」

「まだ、終わっていないから……」


 頭がズキズキと痛む。視界が揺れる。気分が優れない……


「部下は岩で君の頭を割ったと報告した。わしはこれでようやく、重荷が無くなったと思った。しかし――」


 山科さまは、目を伏せてしまう。


「巴が首をくくって死ぬとは思わなかった」

「――えっ?」


 志乃が間の抜けた声を出した。

 頭の痛みが酷くなる。


「君を殺したと話すと、巴は狂ったように笑い出して、狂ったように泣き出した――その三日後に死んだ」


 そこまで語ったとき。

 山科さまの目から、涙が流れ出た。


「わしは、君と娘を殺してしまった。たとえ君が生きていたとしても、罪は無くならない」


 山科さまは、僕に向かって、訴え出した。


「わしは、悪人だ。おそらく地獄に落ちるだろう。許してくれとは言わない。慈悲も乞わない。だが――裁いてほしい」

「裁く――」

「死ねと言われたら死のう。どのような責め苦でも甘んじて受けよう。頼む。わしを――」

「都合の良いこと、言ってんじゃないわよ!」


 志乃は僕の手を払って、山科さまの胸ぐらを掴んだ。


「ふざけないでよ! 楽になれると思ってるの!? しかも雲之介に、重荷を背負わそうとしないで!」

「…………」

「あんたは卑怯よ! 最低の卑怯者よ! そんなにつらいなら、さっさと首くくって死ねばいい! 巴さんが死んだときにでも、死ねば良かったのよ!」


 僕は脇に置いた刀を握る。

 そして立ち上がった。


「この――っ! く、雲之介! 何をする気なの!?」


 鞘を捨てた。山科さましか、見えなかった。


「だ、駄目よ! 雲之介――」


 志乃を無視して、僕は――


「うわあああああああああああああああああああ!」


 雄叫びを上げて――

 刀を、山科さまの足元に、突き刺した。


「……殺さないのか?」


 全員の呼吸が、荒い。


「……殺さない」


 僕は、山科さまに――言う。


「僕は――あなたを、殺さない」

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