第71話労咳

 宴会を行なうのなら、僕の出番だ。北近江の町ではなく、京の商人のツテを利用して、酒や食事の手配をしたのだ。その中の一人、足利家の御用商人の角倉は「織田家に恩を売っておいたほうが得ですね」と笑っていた。

 家臣だけではなく、兵士たちにも振舞った。篭城戦で粗末な食事しかしてなかった兵士たちは大層喜んだ。

 どんちゃん騒ぎしている兵士に負けないくらい、秀吉と正勝は大いに場を盛り上げた。

秀吉は自身のことをネタにして笑いを取ったりして、正勝は山賊時代の武勇伝を語っている。


「兄者はこれが目的だったのか」


 一息ついた僕に秀長さんは盃を勧めた。ゆっくり飲みながら「どういうことですか?」と訊ねた。


「このまま戦っても篭城戦で士気が下がっているから長くは戦えないだろう。でもこうして英気を養うことでなんとか次の戦も戦える」

「……次の戦、ですか」


 秀長さんは「多分湖北十ヶ寺だろうね」と酒をぐびりと呑んだ。


「この北近江から一向宗の勢力を追い出さないと。まあ観音寺のように協力的な寺院も居るから、何とかこなせるかもね」

「……戦は嫌ですね」


 正直な感想だった。戦なんてしたくない。交渉して手を結んだり従わせたりすれば良いだけの話だと心のどこかでは思っていた。

 それでもまとまらないときは、戦うしかない。多くの犠牲を伴っても、言葉が通じない場合もあるのだから。


「そういえば我らが天才軍師さまはどこに居るんだい?」

「半兵衛さんなら一人で策を練っていますよ。後で酒を届けに行きます」

「流石だね。常日頃から軍師であるんだな」


 秀長さんは「武田家のことは知っているかい?」と話題を変えた。


「ええ。織田家と徳川家の連合軍を打ち破ったとか」

「うん。だけど遠江の高天神城に篭もって進軍を止めたらしい。もうすぐ秋だから、一旦兵を下げるのかもしれない」


 織田家と違って武田家は農兵が中心だ。いや織田家がおかしいのかもしれない。


「大殿は岐阜に戻るようだから、あと少しすれば援軍に駆けつけてくれる。そうすれば北近江は……」

「……織田家に併呑されると? そんな馬鹿な。長政さまは――」

「本当に生きていると思うかい? 雲之介くん」


 信じたいけど、可能性は低い。

 お市さまのように一心に信じられるわけでもない。

 それでも、生きていてほしい。


「……意地悪なことを言ったね。ごめん」


 秀長さんは謝って、近くに置いてあった酒瓶を僕に手渡す。


「半兵衛に持って行ってあげてくれ。いろいろ吞んだけど、これが一番美味しかった」


 酒瓶を手に取る。伊丹の酒だった。

 秀長さんは秀吉の元へ向かって、一緒になってはしゃぎ出した。

 やっぱり兄弟なんだなとぼんやり思った。


「半兵衛さん。お酒持ってきましたよ」


 半兵衛さんにあてがわれた部屋。僕は「入りますよ」と断ってから中に入る。


 半兵衛さんが、倒れていた。


「――っ! 半兵衛さん!」


 急いで駆けつけて、半兵衛さんの身体を起こす。口元から黒い血が垂れている。外傷は――


「平気よ……騒がないで……」


 いつもよりも顔色の悪い半兵衛さんは息も絶え絶えに答えた。

 良かった。生きている。


「どうしたんだ! もしや誰かに――」

「違うわ……病のせいよ……」


 半兵衛さんはかすかに微笑んだ。

 まるで全てを諦めているかのような笑み。


「労咳なのよ。あたしは」


 労咳――肺の病だ。医術の心得のない僕でも知っているほどの大病。


「三十半ばまで生きられたら良いけど、これだともっと早いかもね」

「そ、そんな――」


 そういえば、勧誘したときに病のことを言っていた。

 でも労咳だとは思わなかった。


「このことは誰にも言ってはいけないわ」


 口元を紙切れで拭きながら、半兵衛さんは僕に口止めをする。


「しょ、症状が重くなる前に――」

「何言っているのよ。労咳は治らないわ。進行を遅らすのが精一杯よ」

「遅らすだけでも十分だろう!」


 半兵衛さんは首を横にゆっくりと振った。


「こんな楽しいときに、休んでなんか居られないわ」

「楽しいとき……?」


 戦がまた始まろうとしてるのに、楽しいのか?

 この人の頭の中は、戦しかないのか?

 だけどそれは違っていた。


「だって、雲之介ちゃんたちと、一緒に居たいもの」

「半兵衛さん……」


 半兵衛さんは上体を起こそうとする。僕も手を貸して支えてあげた。


「可愛らしい雲之介ちゃんが居て、仕え応えのある秀吉ちゃんが居て、真面目な秀長ちゃんが居て、男気のある正勝ちゃんが居て。みんなが居てくれるから、楽しいのよ。友達、いや家族のようね。こんなに楽しいのは、産まれて初めてよ」

「僕たちが、家族……」


 僕の手を取って、半兵衛さんは、力強く訴える。


「お願いだから、誰にも言わないで。後生だから」


 半兵衛さんのことを思えば、養生してもらうべきだろう。身体を休めてもらえば、労咳と言っても寿命が伸びるかもしれない。

 でも――


「分かった。誰にも言わない」


 応じてしまったのは、優しさなんかじゃない。

 僕の弱さだった。

 半兵衛さんに負けてしまったんだ。


「……ありがとう。雲之介ちゃんは優しいわね」


 そんなんじゃない。半兵衛さんが居なくなったら、秀吉は戦で勝てなくなる。そういう打算もあったんだ。


「半兵衛さん……」


 何かを言いかけたとき。部屋の障子が開いた。


「おー、兄弟何を――」


 正勝とその後ろには秀長さん。

 僕と半兵衛さんは顔を近づけている。しかも身体を支えている。

 誰も何も言わない。

 だけど、同じ思いだった。


「……邪魔したな」

「待て。正勝の兄さん。誤解している」

「……衆道は悪いことじゃないけど。やっぱり俺は農民なんだな」

「秀長さん。そんな目で見ないでください」

「そうよ。何見てるのよ。雲之介ちゃん、続きをしましょう」

「調子に乗るな」


 なんとか誤解を解いて、宴会に戻って。

 その日は酒を吞み続けた。

 たまには吞みたくなる日もある。


 大殿が三万の兵を率いて小谷城に来たのは、それから四日後のことだった。

 小谷城に居る秀吉の軍は三千だから、総勢三万三千となる。


「猿。よくやった」


 大殿はその言葉とともにその場で黄金を秀吉に手渡した。


「お前は湖北十ヶ寺並びに北近江の敵対勢力を攻めよ。俺たちは朝倉家を攻める」

「かしこまりました」


 小谷城の評定の間で、大殿は秀吉に命令を下した。この場には僕たち以外に柴田さまと前田さま、佐々さまが居た。


「武田家は強い。一度ぶつかって思い知らされた。信玄が死ぬまで待つしかない」


 まあそれしかないだろう。徳川家がそれまで持てばいいけど。

 武田信玄は甲斐に兵を戻したらしい。秀長さんの言ったとおりだ。

 ならば農閑期には攻めてくる可能性が高い。


「本願寺、武田、朝倉……一つずつ潰すしかない。松永に援軍を寄越すように命じたが……」

「あの悪人、よもや裏切りはしないでしょうな」


 秀吉の言葉に大殿は「それはないだろう」と答えた。


「この時点で裏切っても俺は殺せない。裏切るなら武田が攻めてくるときだ」


 そして大殿は「長政の行方は分からないのか」と話題を変えた。


「浅井家の存続の危機だと言うのに……よもや死んだか?」

「兵たちに命じて探してはおりますが」

「できることなら、生きてほしいが」


 大殿は「では朝倉討伐に向かう」と宣言した。


「公方さまから討伐令も出してもらった。大義名分はこちらにある……」

「それでは、わしも湖北十ヶ寺対策を練ります」


 大殿はしばし小谷城で休んだ後、松永の援軍が来たと同時に出陣した。

 松永は八千の兵を率いていた。総勢三万八千の兵ならば、朝倉を一気に滅ぼせるかもしれない。そう確信した。


 でもそれは大きく捻じ曲がることになる。


 数日後、湖北十ヶ寺の一つ、福勝寺と交渉していたときに、傷だらけの伝令が僕たちに告げた。




「我が軍、朝倉家と一向宗の連合軍に、敗れました!」

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