第72話包囲網

 敗れたといっても織田家の主要な将が討ち死にしたわけではない。大殿たちは秀吉が居る横山城に兵をまとめて戻ってきた。

 しかし犠牲も多かった。三万八千の軍が一万五千ほどに減ってしまったのだ。

 織田家には油断も慢心もなかった。加えて朝倉家の軍がそこまで強いとは思えない。

 やはり一向宗という巨大な敵のせいだろう。越前に集まった彼らは六万とも八万とも言われている。そこには加賀の一向宗も含まれている。


「大殿は奥で休んでおられる。あまりみだりに近づくな」


 部屋に一歩も通さないという険しい顔の柴田さまが食事を持ってきた僕に告げる。


「せめて湯漬けだけでも――」

「……大殿は一人になりたいとおっしゃった」


 疲れているのだろう。久政さまの死、長政さまの行方不明、武田と本願寺の挙兵、そして敗北。まいらないほうがおかしいくらいだ。

 僕は食事を下げて秀吉の元へ向かう。


「雲之介。大殿と会えたか?」


 評定の間には秀吉と前田さま、そして半兵衛さんの三人がちょうど三角形のように向かい合っていた。僕は半兵衛さんと前田さまの間に座った。


「いや、会えなかったよ」

「そうか……早く元気を取り戻してほしいが」


 秀吉の言葉に「一晩休んだら立ち直られるだろうよ」と前田さまが明るく言った。空元気だと皆分かったけど、指摘しなかった。


「前田殿。織田家は何ゆえ、負けたのだ?」

「侮っていた。真柄直隆や山崎吉家などの猛将や知将が居ても、三万を超える軍勢ならば倒せると思っていたが、まさか一向宗と手を結ぶとは考えていなかった」


 半兵衛さんは「そうね。まさかの事態だわ」と言葉を紡ぐ。


「まるで日の本中が織田家の敵になったような感覚よ」

「まさしく。もし大殿が撤退を選ばなければ、全滅していただろう」


 腕組みをする前田さま。流石大殿と言うべきか、それともその大殿を追い詰めた一向宗が凄いのか。判断がつかない。


「……前々から考えていたことがある」


 秀吉は小さい声で僕たちに話しかけた。


「なによ。将来の夢とかじゃないでしょうね」

「真面目な話だ。今回の一連の出来事、誰かが裏で糸を引いている者――黒幕がいるかもしれん」


 裏で糸を引く? 黒幕? どういう意味だろうか?


「秀吉。それは本願寺のことではないのか?」

「前田殿。本願寺は確かに凄まじいが、ここまで鮮やかに包囲網を作ることができるだろうか?」


 包囲網……言われてみれば、この状況はまさにそれだ。

 四方八方に織田家の敵が大勢居る――


「じゃあ誰がこの包囲網とやらを作った? 誰が中心なんだ?」

「……雲之介。公方さまが浅井家から使者を出すように言ったのだったな」


 不意の問い。だけど何故か頭が早く働いて、秀吉が言いたいことが伝わった。


「……その提案をしたのは、僕だ。疑うのなら僕だけにしろ」

「だが決定したのは、公方さまだ。使者を出せるのもな」

「……雲之介ちゃんの味方をするわ。公方さまに包囲網を作る理由はないわよ」


 半兵衛さんの援護は心強かったけど、秀吉は首を振った。


「理由はないだろうが、できる立場にはある――」

「やめてくれよ! どうして義昭さんを疑うんだ!」


 思わず立ち上がろうとするのを、半兵衛さんが膝を抑えて止めた。


「秀吉ちゃん。根拠はあるの?」

「無い。それにわしも公方さまがそのようなお方ではないと思う。しかしならば誰ができる?」


 秀吉の言っていることは滅茶苦茶だった。だから反論した。


「織田家のおかげで十五代将軍になれた義昭さんが、どうして織田家を滅ぼす手立てをする? 何の得があるんだ? 大殿は別に義昭さんを排斥しようなどと考えてはいない!」

「そうだ。そこが問題なのだ」


 秀吉は顎に手を置いて、真面目に考え出した。


「時勢の見えぬ人ではない。恩を仇で返す悪人でもない。だが立場を利用すれば、できないことはない……」

「いい加減に――」


 怒鳴ろうとしてまたしても半兵衛さんに止められる。


「はい落ち着いて。熱くならないの」

「でも半兵衛さん――」

「秀吉ちゃんは理屈で、あなたは感情で考えているから、ややこしいのよ」


 すると前田さまが「ならば天才軍師殿はどう考える?」と訊ねてきた。


「そうねえ。公方さまは直接はやっていないけど、何らかの形で関わっているのかもね」

「……半兵衛さんまで、疑うんですか!」


 よってたかって、義昭さんを疑うなんて!


「違うわよ。利用されているかもしれないって言いたいの。公方さまの名前を騙って、本願寺や武田、朝倉と手を結ばせているのかも」

「そんなこと――できるのか?」

「可能よ。あたしには何通りかの策が浮かんだわ」


 半兵衛さんは「そこでこういうのはどうかしら」と声を潜めた。


「雲之介ちゃん。京に行って公方さまのことを探ってくれない?」

「……どうして僕がそんなことを」

「だって黒幕じゃないと思っているんでしょう? だったら潔白を証明するために調べてよ」


 秀吉も「そうだな。してくれるか雲之介」と頼んできた。


「わしだって疑いたくはない。しかし確証が欲しい。信じる根拠が欲しい」

「…………」

「頼む。おぬししかできぬことなのだ」


 頭を深く下げる秀吉の姿を見て、ふうっと溜息を吐く。


「分かったよ。僕だって義昭さんが疑われるのは嫌だから」


 後になって乗せられたことに気づいたけど、このときは潔白を証明して秀吉の鼻を明かしてやることしか考えていなかった。


 それが後悔に変わるのは、とても早かった――


 大殿に挨拶できぬまま、僕は京に向かった。

 到着すると一先ず志乃のところへ行く。会えるときに会っておかないと次の再会がいつになるか分からないからだ。

 屋敷の門を叩く。正午過ぎだから、居るはずだけど……


「はいどなた――雲之介!」


 出てきたのは志乃だった。以前とほとんど変わりない姿。でも少しだけ痩せているような気がする。


「ただいま。元気かな?」

「どうしたの! 木下さまのところで働いているんじゃないの?」

「ちょっと義昭さんに用があってね。晴太郎とかすみは?」

「ちょうどお昼寝中よ。顔を見ていく?」


 僕はもちろん頷いた。

 奥の部屋ですやすや寝ている僕たちの子。

 晴太郎とかすみはとても大きくなっていた。子どもの成長は早いなと実感する。

 寝ているのを邪魔しないように、そっと頭を撫でる。


「それで、公方さまにはどんな用なの?」

「うん? ああ、ご機嫌伺いさ」


 僕は志乃に向き合ってにっこりと微笑んだ。


「何笑っているの?」

「いや。なんか安心するなあって」

「変なの」


 志乃が僕の手を握ってきた。


「雲之介、無理だけはしないでね」

「……気をつけるよ」


 志乃と少しだけ話した後、僕は二条城に足を運んだ。

 城内に通されて、評定の間に向かうと、一覚さんと話している義昭さんが居た。


「おお、雲之介! 久しいな!」


 嬉しそうに歓迎する義昭さん。僕は確信する。黒幕だったら織田家の人間が来てもこんなに喜ばない。


「北近江の情勢は大変だと伺っていますが。大丈夫ですか?」


 一覚さんの気遣いに僕は「ええ。なんとか」と答えて座る。


「信長殿から言伝を預かっているのか?」

「そういうわけでも……」

「うん? では何故?」


 怪訝そうな表情をする義昭さん。

 さてどうしようか……


「ああ。そういえば細川さまが――」


 一覚さんが何かを言おうとしたときだった。

 襖ががらりと開いた。


「うん? おお、与一郎――」


 振り返ろうとする――


「これは好都合。手間が省けた」


 どかっと身体中を衝撃が襲った。

 一瞬で意識が失った。




 気がついたら牢屋だった。正面は格子状に木の柱で覆われていた。床は冷たい岩。壁も岩だった。


「な、なんだ? ここは……」


 窓が無い。でも近くに松明があるから明るい。どうやら地下牢みたいだ。


「おおい! 誰か居ないのか!」


 返事はない。どうやら僕一人のようだ。

 一体ここはどこなのか。誰がこんなことをしたのか。一緒に居た義昭さんと一覚さんは無事なのか。

 いろいろなことが頭を巡る。

 僕はどうなるんだろうか?


 しばらくしてコツコツとこちらに誰かが近づく音がする。

 そして目の前に立つ。


「あ、あなたは――」


 そこに居たのは、予想外の人。


「お久しぶりですね。雲之介殿」


 ――明智十兵衛光秀だった。

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