第70話渦巻く思惑

 一寸先も見えない闇――包囲している一向宗の陣所にはかがり火が焚いてあるが、夜を照らすほどではない。織田の援軍が来るという噂は広まっているはずなのに、どうして警戒していないんだろうか。


「そりゃあ武田家対策でここには来れないとタカをくくっているのよ」


 僕の疑問に半兵衛さんは答えた。


「ということは本願寺と武田家はつながっているってわけね。あーあ、嫌だわあ」

「……確か顕如と信玄の正室は姉妹だったと聞いたことがある」

「あら。詳しいわね。足利家での生活は無駄じゃなかったってこと?」


 僕は「無駄なことなんて、この世にはないよ」と呟いた。


「それより本当に上手くいくかな」

「あたしが考えた策よ? 上首尾に終わるに決まっているわ」

「だと良いけど。しかしなんで夜明け前なんだ? 日が昇ったら――」


 半兵衛さんは咳を一つした。


「人間、夜明け前が一番油断するのよ。それに明けたら明けたで策は成るし」

「まだ何か隠しているのか? 案外秘密主義なんだな」

「当たり前よ。軍師は人を信用してはいけないの。ただひたすら自分の才覚を信じるだけ」


 そう言って半兵衛さんは立ち上がり、兵に指示を飛ばす。


「さあ松明を点けなさい。大山崎油座から大量に取り寄せたから、遠慮なく使ってちょうだい!」


 兵士は火打ち石で松明に火を点けて、その火を他の者にも分け与える。

 どんどん松明の数が多くなり、やがて三万に達する。

 小谷城の隣に位置する大嶽山に密かに登った僕たち。包囲している一向宗にはどう見えているのだろうか? おそらくだけど大軍が山からなだれ込んでくるように思えるだろう。


「見て雲之介ちゃん! 一向宗たちは慌てふためいているわよ!」

「まあそうだろうな。観音寺の僧兵たちが内応しているし、秀長さんや正勝が四千の兵で暴れまくっている」


 まさに混乱の極みだ。このまま包囲を打ち破れば、小谷城を救うことができる。

 それにしても松明で人数を誤魔化すだなんて、よく考えたものだ。


「そういえば観音寺にもう一つの流言を広めるように、ちゃんと頼んだかしら?」

「ああ。機会を見計らって、湖北十ヶ寺の寺院が攻められたと騒いでくれる手はずになっている」


 次第に白みだしてきた。一向衆たちは逃げる者と踏みとどまって戦う者に分かれている。しかし圧倒的に前者が多かった。


「死を恐れない軍隊、一向宗ね? でも闇夜の恐怖には耐えられなかったわけね」


 そう言ってくすくす笑い出す半兵衛さん。


「さっきまで隣で寝ていた人間が、殺されることはかなりの恐怖だわ。死ぬことで極楽浄土に行けるかもしれないけど、目の前の現実はいとも容易く理想を粉砕するのよ」


 そして、半兵衛さんは采配を振るった。


「あたしたちも出るわよ! 大声を上げなさい!」


 一千の兵が山を下り、敗走している一向宗に襲い掛かる。冷静に見れば攻めてくる僕らの兵の少なさに気づくだろうけど、恐慌状態にある彼らには理解できないだろう。

 それとこれは予想外だったけど、この様子を見た小谷城から城兵が打って出たんだ。

 僕と半兵衛さんの軍、秀長さんと正勝の軍、そして小谷城の軍が三方から攻めてきてはいくら数に勝る一向宗でも立て直せなかった。


 夜が明けたときには、戦は終わっていた。


「なんか上手く行きすぎな感じがするな」


 半兵衛さんにそう言うと「馬鹿なことは言わないで」と怒られた。


「上手く行くように策を練って、準備して、みんなが頑張ったから、成果が出たのよ。偶然なんかじゃないわ」

「そういうものなのか?」

「そうよ。古今東西、策なしに勝てた試しはないわ。あなたが大好きな史記にもあるでしょう?」


 数え切れないほどの例が史記には載っているけど、ここまで上手くはまったのは前代未聞だと思う。


「もしかすると、織田家で一番恐ろしいのは、半兵衛さんじゃないか?」

「うん? 今頃気づいたの? まあだからあたしは陪臣になることを選んだのよ」


 半兵衛さんは苦笑いをした。それはまるで完璧な軍師の唯一の欠点を嘲笑っているようだった。


「あたしは賢すぎるのよ。愚かさが足りない。その点、秀吉ちゃんは良い意味で愚かさがあるわ。愛嬌と言ってもいいわね」

「賢すぎることと愚かさが足りないことは、どう影響するんだ?」

「出世に影響するのよ。もしあなたが大殿だとして、あたしに数万の兵を預ける?」


 そんなことはできない。たとえば五万の兵があれば、半兵衛さんはあっという間に織田家どころか徳川家や浅井家を滅ぼしてしまうだろう。


「その顔だと想像がついたようね。そう。あたしは危険すぎるのよ」


 物憂げな表情で戦場を見渡す半兵衛さん。

 彼が作った地獄の間。

 彼が築いた死体の山。


「でもね。秀吉ちゃんはこんなあたしを信頼してくれる。命を懸けるのに相応しい主君だわ」

「うん。同感だね」

「……雲之介ちゃん。もしも直臣の誘いが来ているなら、受けなさいよ」


 唐突に誰にも言っていないことをずばりと言い当てる半兵衛さん。


「……言っている意味が分からないな」

「あら。誤魔化すことを覚えたのかしら? まあいいわ。あなたは賢さも愚かさもある。そして何より優しさがある。秀吉ちゃんだけじゃなくて、大殿の助けにもなれるわ」


 咳を交えながら、半兵衛さんは続けた。


「別に秀吉ちゃんに遠慮することないわよ。それに直臣になれば未亡人のお市さまを嫁にできるかもしれないわ」

「そんなことは考えない。僕には志乃が居るし、長政さまも生きているに違いない」

「そうかしら? これだけ日数が経っているのに、どこに居るのかしらね」


 僕は長政さまが生きていることを信じているけど、それは希望であって、お市さまのように確信を得ているわけではない。お市さまにしたって、確信ではなく、妄執なのかもしれない。


 それでも不思議と、死んでいると諦める気にはならなかった。


「ま、いいけどね。よく考えてちょうだい。多分秀長ちゃんも正勝ちゃんも賛成すると思うわよ」

「あはは。それはそうだろうね」

「秀吉ちゃんは惜しむかもしれないわ」

「それも想像がつくな」


 これで会話が打ち切られた。秀吉からの伝令が来たからだ。その後も戦後処理で忙しくなった。

 直臣のこと。長政さまのこと。お市さまのこと。

 悩みは尽きないけど、僕の中では答えは決まっていた。

 だからもう――迷わない。


 小谷城に篭もっていたのは雨森弥兵衛と呼ばれる重臣だった。亡くなった海北さんと赤尾さんと並んで『海赤雨の三将』と評されていたほどの武将らしい。


「助かり申した。礼を言わせてくれ」

「なんの。困ったときはお互い様ですから」


 小谷城に招かれた僕たちは疲れているだろう雨森さんに頭を下げられた。それに対して秀吉は気楽に返す。


「小谷城が落ちなかったのは、雨森殿のおかげですな」

「いえ。わしはそれほど……しかしこれからどうするおつもりか?」


 すぐさま次の目標について話す雨森さん。すると秀吉は「湖北十ヶ寺を一つ潰しに行きます」と応じた。


「浅井家だけではなく、織田家にまで敵対した者たちを許すことは出来ませんな」

「まあそうですが。どうやって攻めるつもりですか? 未だにあやつらの兵は多い……」


 現状はだいぶ分が悪い。はたしてどうすれば……

 すると秀吉は「まあとりあえず宴会にしましょう!」と明るい声で言う。


「え、宴会ですか? こんな状況で?」

「こんな状況だからこそ、明るく元気に参りましょう。戦ってくれた兵士を労う意味も込めて」


 そして最後に雨森さんに言う。


「上に立つ者は常に余裕を持って、明るくしないと誰も着いて行かないですぞ」

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