第35話愛せない

「そう。あのお市さまと雲之介が……」


 僕は向かい合って座りながら、全てを志乃に白状した。これ以上黙っているのは心苦しかったし、罪悪感が増してきたからだ。

 それに志乃には言わないといけない。


「それで、雲之介はどうしたいの?」


 ハッとして伏せていた顔を上げて志乃を見た。

 志乃の表情には怒りも悲しみもなかった。

 優しく微笑んでいて、まるで菩薩さまのようだった。


「どう、したいって……」

「あなたはお市さまと結ばれたいの?」


 どうして――そんなことが言えるんだろう。

 もしも僕とお市さまが結ばれてしまえば、志乃は――


「いや、それは――」

「本音を言って。嘘は言わないで。私に隠し事しないで」


 厳しい言葉だけど、責めている風ではなかった。


「あなたは私に言ってくれた。自分のために幸せになってほしいって」

「……確かに言ったよ」

「でも私のために雲之介が不幸になるのは嫌よ。そんなの幸せじゃないわ」


 そう言われてしまうと立つ瀬がない。

 しばらく黙ってしまった。すると志乃が溜息を吐いた。


「……あなたが本音を言わないのなら、私から言うわ」


 志乃は僕の目を見て、はっきりと言った。


「まだ私も弥助のことが忘れられないわ。おそらく一生、忘れることはないのよ」

「…………」

「それにあなたを心から愛せていない」


 少し悲しかったけど、それでも驚きはなかった。

 そうだろうなとぼんやりと思った。


「雲之介のことは好きよ。でもどうしても恨みは残ってしまう」

「……うん。それは仕方ないよ」

「だけど――ここでの生活は楽しいわ」


 志乃は優しげな表情を見せる。


「雲之介と過ごす毎日。穏やかな日々。お酒を吞んでやさぐれていた生活と比べたら雲泥の差よ」

「……それを聞けて良かったよ」

「ええ。何気ない平穏な日々が戦国乱世においては幸せかもしれないわね。だけど――」


 志乃の表情がすっと厳しいものになる。


「墨俣のことを黙っていたのは許せなかったわ」

「あっ……」

「もしもあなたが死んでしまったら――そう考えるだけで夜も眠れないわ」


 だからあんなに怒ってたんだ……

 幸せにすると言っておきながら、志乃に心配させるなんて、最低だ僕は。


「そう落ち込まないの。もうその件については許したわ」


 志乃は笑って言う。それから改まって僕に訊ねる。


「それで、お市さまとどうなりたいの?」

「どうなりたい……」

「結ばれたいの? それとも別の道を行くの?」


 僕は――逆に訊ねてしまう。


「志乃。もしも結ばれたいと言ったら、君はどうするつもりなんだ?」

「うん? ……考えてないわ。でも離縁して、実家に戻るかしら」


 あっさりと言う志乃に何も言えない。

 すると僕の手を握って、それから射抜くように、再び僕の目を見る。


「私は幸せになりたいけど、雲之介が不幸になるのは嫌よ」


 その言葉で、僕の気持ちが固まってしまった。

 やっぱり志乃のことは裏切れない。

 たとえお市さまを深く想っていても、曲げてはいけない道理がある。

 だから、僕は、お市さまを――愛せない。

 愛しては、いけない。


「……おいで。雲之介」


 僕の様子から志乃は察したようだった。

 正座のまま手招きしてくれた。

 僕は、甘えるように、志乃の膝の上に頭を置く。


「……気持ちは分からないでもないわ」

「……ごめん」

「……何に対して?」

「……いろんなことについて」


 自然と涙が溢れてきた。

 本当に僕は、自分勝手だった。

 志乃の気持ちも知らないで、自分だけ悩んでいた。

 本当に情けなくて、格好悪い。


「いいのよ。でもありがとう」


 頭を撫でてくれた志乃。


「私を選んでくれて、ありがとう。好きよ。雲之介」

「……こんな僕のことを好いてくれるのか?」

「ええ。どんなあなたでも、好いてあげるわ」

「……僕は最低だな」

「そうね。本当に最低ね。でも好きよ」


 僕は顔を上げて、志乃に言う。

 最低だと分かっているけど、言わないといけない。


「僕も志乃のことが好きだ」

「……そう。嬉しいわ」

「志乃、君に誓うよ。僕は君を必ず幸せにするって」


 そして今度は僕のほうから手を握った。


「絶対に裏切らないし、約束も守る。これも誓うよ」


 志乃は僕の言葉に何故か一瞬、傷ついたような顔をした。でもそれは一瞬のことだった。すぐに嬉しそうな顔になったから、気のせいだと思った。


「ええ。信じているわ。雲之介――」




 それから五日間、志乃と一緒に過ごした。

 清洲の町に遊びに行ったり、志乃の実家でくつろいだり、それから一緒に馬に乗って海を見に行った。

 日頃の家事は苦じゃないらしいけど、なるべく僕がやってあげた。

 志乃の笑顔は綺麗だった。守りたいと思うし宝物だと思った。

 これからもずっと居よう。

 そう思えるようになった。

 不思議だな、夫婦って。

 見ず知らずの他人同士だったのに。

 一方的に恨まれる立場だったのに。

 それがこうして――仲良く居られるんだから。


 楽しくも短い五日間が終わり、僕は藤吉郎の元に向かった。


「おっ。すっきりとしたようだな。志乃に諭されたか慰められたか分からんが、顔つきが良くなった」


 藤吉郎は全部お見通しだったようだ。

 藤吉郎と小一郎さん、そして小六は僕が来るのを清洲城の正門前で待っていた。

 三人とも事情を知っているので、僕を気遣ってくれる。


「悩みは取れたようだね。雲之介くん」


 優しい言葉をかけてくれる小一郎さん。


「まあ複雑だと思うがな、兄弟」


 ぶっきらぼうに肩に手を置いてくれた小六。


「ええ。もう大丈夫。北近江まででしたっけ?」

「ああ。佐和山城で浅井軍と合流する。俺たちはそこまでの護衛だね」


 小一郎さんが言ってくれた。

 僕は小六に訊ねた。


「護衛の人数は?」

「一千だな。侍女たちを含めない数だが」

「分かった。ありがとう」


 そんな会話をしていると清洲城の正門が開いた。

 一千の護衛の兵の中心に輿が見られた。傍には鈴蘭さんを始めとした見知った侍女たちが居た。

 あそこに、お市さまが居る――


「皆の者、行くぞ」


 藤吉郎に促されて、僕たちはお市さまの輿に向かう。

 藤吉郎は跪きながら、口上を述べる。


「織田家侍大将、木下藤吉郎が護衛仕ります」

「……よろしくお願いします」


 輿の窓が開いた。

 そこには、久しぶりに見た、一層美しくなったお市さまのお顔が見えた。

 そして跪いている僕を一瞥した。


「ふふふ。あなた様には、もう会えぬと思っておりましたが。まさかこのような場で会えるとは」


 お市さま……本当に美しく成長なされた。


「今日は晴天。空には雲一つないのに、何故か雨が降ってきますね」

「……恐れながら、今日は雨は――」


 そう言いかけた侍女の鈴蘭さん。しかしお市さまの顔を見て、言葉を止めた。


「左様にございますね。お顔に雨が付きました。失礼いたします」


 高価な布でお市さまの目元を拭く鈴蘭さん。


「……それでは、木下殿。よろしくお願いします」

「ははっ。承りました」


 こうして、一千の兵と僕たちは、北近江の佐和山城に向かう。


 他国の殿に嫁入りされるお市さまを見て、胸が締め付けられる。

 僕は耐えられるだろうか……

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