第五章 失恋
第34話浅井との同盟
「それで、美濃攻略の段取りはできているの?」
「うーん、どうだろう。墨俣城ができても斎藤家は強いからなあ」
墨俣築城から四日後。
やっと言葉を交わせるようになった志乃と朝ご飯を食べていた。それまではご飯を作ってくれなかったから、久しぶりに食べる志乃の手料理は美味しかった。
「大殿は墨俣を拠点にまた次々と城を建てるつもりらしい。稲葉山城をぐるりと囲むように」
「へえ。城をねえ……」
「大殿が行雲さまと考えたらしい。なんでも付城というみたいだ」
白飯を一気にかきこむと「ごちそうさま」と言ってお盆に茶碗を乗せた。
「あら。もう行くの?」
「うん。城勤めで今日も米の支出の計算だよ」
「ふうん。頑張ってね。それと今日は遅くなる?」
「いいや。いつも通りに帰れるよ」
出仕の準備を志乃に手伝ってもらって、長屋を出て清洲城に向かうと、道中で小六と会った。
「おう兄弟。お前も出仕か?」
「ああ、小六の兄さん。あんたは兵の訓練を任されたんだっけ」
小六は「ああ。そうだ」と頷いた。そして隣を歩く。
「奥方、志乃さんと言ったか。仲直りできたのか?」
「うん。藤吉郎の言ったとおりにしたらなんとかね」
「しかし若いのに美人の奥さんをもらってるなんて羨ましい話だ」
「何を言っているんだ。あんただって奥さんどころか子供も居るじゃないか」
「松とせがれか。まあな。あいつらには苦労をかけた。藤吉郎さんに仕えられて幸運だったよ」
そんな会話をしつつ、清洲城に着くと僕たちは別れた。武官と文官で分かれているから同じ仕事をしたことはなかった。
「おお、雨竜さま。大殿がお呼びですぞ」
年貢米の計算をしていると、同僚から言われた。
「大殿が? なんだろう……ありがとうございます。行ってきます」
同僚に礼を言って僕は大殿が居るとされる評定の間に向かった。
向かっている間、すれ違う人々の視線を受ける。墨俣城を建ててから、畏怖もしくは羨望の目を向けられることが多くなった。城で炊きだされる昼飯の量も心なしか増えた気もする。
「雨竜雲之介、参りました」
評定の間の襖の前で言うと「おう。入れ」と大殿の声がした。僕は失礼しますと言って中に入る。
そこには大殿の他に藤吉郎も居た。何故か僕を哀れむような、この場に居たくなさそうな顔をしていた。
「最近の調子はどうだ?」
「調子、ですか? まあ、普通ですけど……」
「そうか。勘定方での働きが見事であると報告が入っている。これからも励めよ」
大殿が手放しに褒めるのは珍しい。僕は平伏して「ありがたき幸せ」と言った。
「あー、それでだ。木下藤吉郎を始めとする家臣団に命令を下すのだが」
大殿はなんだか言いにくそうな感じを醸し出している。そして藤吉郎に目線を送った。
「猿。お前から言え」
「……拙者が言うのですか?」
「命令だ」
藤吉郎はふうっと息を吐いて、そして僕に言った。
「墨俣築城で美濃攻略の足がかりができたことは知っているな」
「うん。まあ知っているけど」
「それでな。北近江の浅井家と同盟を結ぶことになった」
僕は頭の中で地図を思い浮かべた。北近江は尾張の北西に位置しているはずだ。つまり美濃を挟み撃ちにできる。
「ああ。それは凄いな」
「だろう。でもな、その条件が、その……」
僕はここで嫌な予感がした。
そしてそれは的中することになる。
「大殿、わしにはとても……」
「……よく聞け、雲之介」
大殿は息を吐き、覚悟を決めたように言う。
「市を浅井家当主、浅井長政に嫁がせることにした」
足元が崩れたような感覚を覚えた。
「い、今、なんと……?」
聞きたくないことなのに、訊き返してしまった。
「言葉どおりだ。市を輿入れさせる」
「…………」
「もう決まったことだ。お前が何を言おうと変えられない」
僕は「そう、ですか……」と呟くことしかできなかった。
「雲之介、お前は市と親しかったな」
「……はい」
「輿入れの護衛を猿に任せる。お前を含めた家臣団で、北近江の小谷城まで市を連れて行け」
「…………」
言葉が出なかった。
「分かったのか? 分からんのか?」
そう促されて、僕はなんとか答えた。
「……藤吉郎が了承したことなら、僕が拒む理由も道理もございません」
「……そうか」
大殿は立ち上がり僕に近づいた。
そして耳元で囁く。
「お前が市を好いていたことは知っていた」
「……はい」
「だがお前は別の女と婚約した。それは市を諦めたと見なして良かったんだな?」
「……はい」
大殿は僕から離れて、慈悲もなく、容赦もない声で言う。
「もしも市に未練があったのなら、ここで斬り捨てるつもりだった」
「…………」
「何故なら、市もお前のことを好いていたからだ」
涙が出そうになるのを、グッと堪える。
拳を強く握り締めた。
「下手な考えを起こすなよ。俺はお前を殺したくない。猿も同様だ」
「…………」
「……許せ」
大殿は言い残して、その場を去ってしまった。
「雲之介……」
藤吉郎が立ち上がり、僕の肩に手をかけた。
「藤吉郎が、志乃との婚約を薦めたのは、僕を守るためだったのか?」
何故か頭の回転が速くなっていた。
藤吉郎は黙って頷いた。
「輿入れは五日後になる。それまで仕事は休んでいい」
そして藤吉郎は言う。
「おぬしにとって、何が大切なのか。それを深く見つめ直す時間を過ごせ」
それから長屋に帰るまでの記憶はない。
気がついたら、長屋の前に立っていた。
「あら。今日は早かったのね」
中に入ると志乃が家事をしていた。
そしてにっこりと微笑んで僕を出迎えてくれた。
「今日はメザシが安かったから……どうしたの?」
「えっ? どうしたって……」
「なんだか、悲しそうよ?」
僕は、志乃の心配そうな顔を見て、自分が薄汚い気がした。
「本当に、どうしたの――」
志乃の言葉は、途中で止まった。
僕が抱きしめたからだ。
「……雲之介?」
「しばらく、こうしていたいんだ」
それだけしか、言えなかった。
それ以上言ってしまうと泣きそうだったから。
志乃は黙って抱きしめ返してくれた。
何も聞かずに、優しく包み込んでくれたんだ。
それが、ありがたかった。
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