望んだのはだあれ?

孔雀 凌

幻想世界へ、あなたを誘います。一度足を踏み入れたら、戻れないかも知れませんよ。


水車のくも手の内側に入り込んだカラスが赤く目を光らせ、無力な囀りをこぼした。

その奥には歪度を極め、不気味な佇まいを放つ鉄製の門扉が俺を迎え入れ様としている。

ここを潜ると、二度と戻れない気がしていた。

昨夜、最愛の人を亡くした。

彼女は俺にとって、唯一の生き甲斐。

だから、決めたんだ。君のもとへ向かう、と。






「お兄さん。新入り?」

少し離れた位置から届く、舌足らずで無邪気な声がこの足元を鈍らせる。

「何だ。男の子か」

顔を確認しなければ、少女と認識してしまいそうな声色に惹かれて振り返ると、そこにはまだ変声期の訪れていない少年が無垢な笑顔で僕を見上げているじゃないか。

「ねえ、そっちじゃないよ。進むべきところが間違ってる」

少年は言う。

間違っているも何も、ここは川沿いに位置する本道が一本だけだし、他に枝分かれしている箇所なども見当たらない。

少年の言葉を振り切って歩もうとした時、湿った地面から奇妙な生き物の如く跳ね上がる泥が、俺の両足首を捕らえた。

イソギンチャクの様な動きを反復するそれは、血管を押しつぶすほどの圧迫を与えていた。

どうやら、絶対命令の様だ。






「この、水鏡を見て。今、一番、未練を感じている対象が映し出されるんだ」

淡く濁った水面に少年が右手を翳すと、反射鏡が姿を現した。

彼が語るには、後引く想いを断ち切らなければ次へ進めないのだと言う。

鏡に映ったのは、交通事故で命を失った俺の恋人の姿だ。






「綺麗な人だね。お兄さんの彼女?」

「ああ。でも、彼女は先にここへ辿り着いているはずだから。俺も急がないと」

だが、少年は水面上で曖昧に揺らぐ映像を見るようにと促して来る。

覗き込むと、彼女の事故現場から清拭、納棺へと場面は移り変わり、その先を見ていた俺は愕然と肩を落とした。

「驚いた? どう。未練を断ち切る覚悟は出来た?」

「うそだろ……。こんな……」

死んだと想っていたはずの彼女は、棺の中で奇跡的にも息を吹き返していた。

仰天するほどの真実を知らなかったのも当然だ。

俺はある行動を起こしていたから。






「実にタイミングが悪かったみたいだね。恋人が生き返るまえに、自殺しちゃうなんてさ。お兄さん」

少年が不可解な笑みを浮かべる。

俺は幼い身体の両肩を掴んだ。

「おまえ、冥土の案内人なんだろ!? 頼む! 俺をもとの世界へ戻してくれ!」

「望んだのは、お兄さんでしょ」

冷たくあしらう言葉が捕らえた獲物を離すまいとしている様で足が竦んだ。

ここへ来たいと、望んだのは自分。

その通りだ。

閑かに新来者を待ち構える鉄製の門扉が、混乱する意識をそそのかす。

奇妙な歯型をした門は巨大な口が裂けている様にも想えた。

だが、扉は一向に開く気配は感じられず、俺はわずかな望みを託す。






「まだ、門扉を潜っちゃいない。今なら引き返せるんだろ!?」

切願する想いも届かず、少年はきめの細かい皮膚の両指先で俺の頬を包み込み、誘導する。

「お兄さん、知ってる? この世界では何も食べなくても、生命を維持出来るんだよ。陶水さえ、あればね」

「とう……すい?」

飴色の液体を含むガラス瓶のコルク栓を外すと、少年はそれを俺の口元へと近付けた。

「望んだのは、だれ?」

耳際で囁く、幼い子供の呪文の様な言葉がやけに生温く、気だるい。

自身の意思とは裏腹に、本能が操られていくのを感じていた。

喉を通った陶水が感覚を麻痺させて、想う様に身体を動かせなければ、声もこぼせないんだ。

俺の様子を確認した少年が、同じ様に自分の喉奥に液体を通す。






川の向こう、牛飼童を先頭に、牛車に続く白装束を纏う人達が、こちらを目指して行列を作っている。

彼等は一体、何者なんだ。

目的があっての行動だろうか。

「黄泉の住人だよ。新参者歓迎の準備が整ったみたいだね」

ご満悦そうな表情で、少年が自身の腕を組む。

屋形に俺を積んで、生け贄にでもするつもりか。

「まさか? いくら何でも、新入りにそんな意地悪はしないよ」

俺は、彼女の元へは戻れないのか。

「そうだね。よく、分かってるじゃない」

陶水と呼ばれる液体の影響なのか、少年は俺の心が読めているみたいだ。

待ってくれ! 俺は、まだ行けない。

彼女一人を残して、行けないんだ!

「望んだのは」『だあれ?』






内側の構造が解る位に、グニャリと歪んだ少年の顔が目に焼き付く。

彼とは明らかに異なる声音が、その言葉を追うようにして響き渡った。誰だ。

「川の主様だよ。今宵は楽しい一時になりそうだね」

俺には頷くしか、選択の余地がない様だ。






水車のくも手の内側で退屈しのぎをしていたカラスが赤く目を光らせ、今、この瞬間、羽ばたこうとしている。

その奥には歪度を極め、不気味な佇まいを放つ鉄製の門扉が俺を迎え入れ様としていた。

固く閉ざされていた鉄製の門扉が大きく唸り、巨大な歯型は笑う。

不気味な音を引き摺りながら、戸車が動き始めた。

少年が会釈をして、俺を受け入れる。



「ようこそ、常世の国へ」









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