新宿異能大戦➉『海を越え山を越え』
十二月十七日、午後7時。
東京都新宿 茅ヶ崎ビル。
その最上階にて。
「……明日の予定は?」
「午前10時から役員会。
そして午後2時からは雑誌のインタビューが一件入っております」
一組の男女が、磨かれたタイルの廊下を足早に歩いていた。
この摩天楼の主、
「なるほど、では多少は余裕がありそうか」
「空いたお時間は、溜まった案件の決裁に充てていただければと。
既に各部署から催促の連絡がかなり来ておりますので……」
秘書は手帳を見ながら困ったような表情を浮かべた。
茅ヶ崎HDクラスの巨大企業ともなると、社長まで上がって来る案件量も尋常ではない。毎日が戦場であると言っていい。
十然は疲れたように息を吐きながら、
「分かっている。部下に怒られる訳にもいかんからな。
とりあえず特に期日の近いものを数件、ピックアップしてくれ。今日はそれだけ見ておく」
「かしこまりました。
すぐにメールでお送りします」
「うむ……それとあの件については、どうかね?」
ふと十然は足を止めて、尋ねる。
すると秘書は静かに手帳を閉じ、
「証拠となるものは、既に取り揃えております。
後はいつ公表するかです」
「……そうか、分かった。ご苦労」
「それでは」
報告を終えて下がる秘書をしばし見送り、十然は社長室の扉を開ける。
「――やぁ社長、今日もお仕事お疲れ様。
一杯やる?」
「生憎だが、まだ少しだけ残っている。
なんなら手伝うかね?」
社長椅子には、
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
『――頼む、離婚は思いとどまってくれ!
この通りだ! もし私に問題があったのならすぐに直すと誓う!
だからどうか、頼む!』
いつ思い出しても、そうだった。
脳裏に蘇る父の姿は、いつだって哀れな程にその額を地面にこすりつけていた。
『……そういう卑屈な所が、嫌だったの。
行くわよ、巽』
『待ってくれ! 行かないでくれ!
本当にこの通りだ、今からでもやり直そう! 精一杯頑張るから!
だから、』
『待ってくれえぇぇぇぇ!』
そして俺はそんな親父が、吐き気がするほど嫌いだった。
――――――
――――
――
十二月十七日、午後8時。
神奈川県川崎市。
「はぁ……、くそっ」
駅からほど近くの繁華街の路地で、
「新宿にいてもしょうがねぇから、こっちまで出てきたが……これからどうすっかな……」
舎弟たちの造反よりおよそ一日。
組の幹部は全員死亡し、『異能者』と化した舎弟たちも逮捕。残りの組員も殺されるか離散するかしてしまった。
つまり、いま組で残っているのは巽ひとりだけの状況だ。
「
いや、それより……」
呟きながら、巽は昨夜の光景を思い返した。
自身が追い詰められている中、唐突に現れた男――
最近話題になっていたこともあって、巽もその名前自体は知っていた。
「何でアイツが、親父のこと知ってんだよ……!」
側溝に唾を吐き捨てながら、巽は苛立ちの表情を浮かべた。
彼の父である
なにせ母親が巽を連れて創二の元を去ったのは十年以上前、彼がまだ小学生だった頃の話だ。
正直、最初から父に対してあまりいい印象はなかった。それどころか見下してすらいた。
太ってて、禿げていて、冴えない無能な中間管理職サラリーマン、それが巽の記憶に残っている創二の姿。仕事に励むわけでもなく、趣味に打ち込むわけでもなく、それでいて家族としっかりコミュニケーションを取れるタイプでもない。
母とは見合いで結婚したというが、関係は最初から良くはなく、自分が生まれ成長していくにつれさらにそれは冷え込んだ。そしてリストラを機にとうとう母は愛想を尽かし、離婚して自分と共に家を出たのだ。
その後一、二年は会う機会もあったが、何を話したかは覚えていない。ただ退屈な時間だったことは記憶している。
それからしばらくすると行方すら分からなくなり、その後死亡が確認されたと聞いた。今はどこかの共同墓地に入れられているという。
運にすら見放されたしがないサラリーマン――それが、巽が創二に抱く率直な感想だった。
「どう考えても、ずっと年下の知り合いがいるような感じじゃなかったよな……?」
少し考えてみるが、答えは出ない。
「……さっさと今日の寝床探すか」
巽は首を振って視線を前に戻す。
季節も冬である以上、ふた晩続けての野宿は本気で野垂れ死にしかねない。凍える体をさすりながら、巽は川崎の路地を急ぐのだった。
「――お、あったあった。
意外と覚えているもんだな。」
それから数分、巽はとある雑居ビルを見上げた。
金柳組は、川崎周辺をシマとする仁和会系の三次団体である。巽の属する
そう考えながら、巽は薄汚れた階段を足早に上っていく。
「榎田組の山北だ。
すまねぇ、今日だけ厄介になる――」
そのまま二つノックをし、巽は入り口のドアを開ける。
「ぞ……」
だがその先では、想像を絶する光景が広がっていた。
「あ、え……は……?
血……死体……?」
目を白黒とさせながら、巽は部屋の惨状を茫然と見つめる。
これでも職業柄、血の類は見慣れてきたつもりだった。しかし目の前にあったそれらは、巽の許容量を遥かに超えていた。
それは部屋一面を覆う
そして、思わず吐き出してしまいそうになるほどに濃密な血の匂い。
さらに床や机には新鮮な肉の塊が、まるで消化不良の吐しゃ物のように無造作に散らばっている。
おそらくは、あまりにも一方的な殺戮の現場――意識を朦朧とさせながらも、巽はかろうじて室内の景色をそう理解した。
「……ああ? 何だてめぇは」
そして部屋の中央に立つ男が、その犯人であろうことも。
「あ、あ……」
「……んん? よく見たらお前、有馬が言ってたヤマキタという奴か。
ハッ、いいねぇ。ラッキーラッキー」
振り向いてニヤリと笑うその男は、血のような赤毛をしていた。顔の感じから見ても、おそらくはどこかの外人なのだろう。
だが、今はそんなことどうでもいい。
ひとつ確実なのは、このままでは自分も殺されるということだ。
「ぐうっ……!」
巽は急いで部屋を出、一心不乱に走った。
目的地などない。ただあの外国人から一メートルでも離れるために、駆け続ける。
(クソクソクソクソクソ!
何なんだよ一体! どうなってんだよ!)
巽の脳内は絶えず逡巡を繰り返すが、悪夢のような状況が醒めることはない。
(逃げる! 絶対に逃げ切ってやる!)
それどころか走るほどに状況は悪くなっていき、
「――はい、これで追いかけっこは終了だ。
つか、何逃げてんだよ。俺に余計な手ぇ煩わせやがって、ええ?」
「くぅ……っ!」
結局はいとも簡単に、男に追いつかれてしまった。
後ろは行き止まり、膝もあまりの恐怖で震えてしまっている。つまり、完全な詰みである。
「……三分だ。テメェは三分間、この俺の時間を浪費させた。
だから俺は今から三十分間、お前をいたぶる。
文句はねぇよな? 言ったら殺す……!」
怒りの形相で無茶苦茶な理論を言いながら、男が一歩一歩距離を近づいてくる。
おそらく自分は、ここで殺されるのだろう――巽の中では諦観の念を浮かぶと同時に、煮えたぎるような悔しさが込み上げてきた。
(クソ、クソクソ……! 俺にも力があれば、こんな思いはせずに済んだのに。
力さえあれば……!)
だがそれも叶わぬ願いか、と目を瞑ろうとした時。
「――海を超え、山を超え、ようやく会えたな『サン・ミラグロ』よ」
「……ああ、誰だ?」
男のさらに後ろから、まるで歌うように高らかな声が聞こえてきた。
巽は閉じかけた目を見開く。
「ギレスブイグ=フォン=シュトルム。
見ての通り、英雄の生まれ変わりさ。ハッ、ハハハハハハハハハ!」
そこには燃え盛るような金髪をした男が、立っていた。
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