幕間 元は背伸び、今は思い出①『君の瞳に乾杯』
十一月中旬、都内某所。
とある高級ホテルの最上階にて。
「それじゃあ、先輩」
「ああ」
淡い照明に照らされたテーブルの上を、シャンパンの入ったグラスがゆらりと揺れる。
「二十九歳の誕生日を祝って……乾杯」
「乾杯」
そして二つの杯はカチンと子気味のいい音を奏でた。
「ごめんなさい、色々と仕事あったせいで随分と遅くなっちゃって。
お詫びも兼ねて今日はドンドン飲み食いしちゃって下さい」
「お詫びも何も、なあ……」
英人はグラスを置きつつ、ホール内を見渡す。
さすが高級ホテルのレストランだけあって、中の客もウェイターも上品さと優雅さで満ち溢れている。
英人自身も一応はめかしこんで来たものの、場違い感は否めなかった。
「別にここまでしなくてもよかったんだぞ、
それにほら、女優がこんな目立つ場所で男相手に飲み食いしてていいのか? スキャンダルとかまずいだろ」
「まあそこらの飲食店ならそうでしょうけど、ここはホテルのレストランですからね。
予約も必要ですし、スタッフやお客さんもそれなりの人物なので信用できます。
それにそもそもがドル売りしているワケじゃないですし。この歳でスキャンダルになってもダメージはないですよ。
むしろバッチ来いってくらい」
そう言って
どうやらいらぬ心配だったようだ。だが来たら来たで困るだろ、と英人は同時に思う。
「と言うか先輩だってもう二十九歳なんですから、誕生日のお祝いもそれなりの物になって当然でしょう? 遠慮なんかしないで下さい。
あの頃と違って、私たちはもういい大人なんですから」
「そういやお前も二十八だったな」
「……本当、デリカシーの無い人ですね……」
ジト目で英人を睨みながら、楓乃はシャンパングラスを
因みに今日の彼女の服装は背中が少しあいたグレーのパーティドレスだ。
事実、その魅力に中てられたのか客もウェイターもチラチラと彼女の姿を盗み見ていた。
「ああ、女相手に歳の話はタブーだったか。悪い悪い」
「……いいえ? 女というのはある程度のレベルを超えると、歳をとる毎にむしろ綺麗になっていくんです。
知りませんでした、先輩?」
楓乃はクスリと笑い、テーブルの上で腕を組み下からの覗き込むようにして英人の顔を見つめる。
媚びるような仕草だが、不思議といやらしさは感じない。
だがどんな男も虜にしてしまいそうな美しさが、そこにはあった。
英人は昔を懐かしむような面持ちで、その姿を見る。
「……そうだな。確かに高校の時と比べて途轍もなく綺麗になった。
おかげで最初見た時は全然気づけなかったわ」
そして自然と出た言葉は、傍から聞けば苦笑いすら浮かべてしまいそうな歯の浮くような台詞だった。
「……え、は、はいどうも……」
しかしそれでもこの美女に対してはかなりの効果があったらしい。
白い頬を朱く染めながら、体をギクシャクと動かす。
ドラマや映画の撮影、ひいてはプライベートなどでも同じようなことを何回も言われてきたが、こうも違うとは。
身体の内から、嬉しさと恥ずかしさが止めどなく溢れ出てくる――こればかりは自慢の演技でも隠せなかった。
「……もう酔ったのか?」
「も、もしかしたらそうかも」
楓乃は苦笑いをしながら火照る頬を軽く揉む。
どうやら日本を代表する女優
――――――
「お待たせしました。
鴨とフォアグラのテリーヌ、オレンジジュレ添えで御座います」
「どうも」
「あ、美味しそう」
乾杯から数分、テーブルには前菜が置かれた。
まず目を引くのは、雪原のような白い丸皿。
そしてその上を
「すごいな……見た目だけでもう旨そうだ。
ナイフを入れるのが惜しくなる」
「ふふ、それも醍醐味ですよ。
ちょっともったいないけど早速頂きましょう」
そして二人はテリーヌにそっとナイフを入れ、瑞々しい弾力に震えるその一切れを口に運んだ。
瞬間、凝縮されていた旨味と脂が、さらりと舌の上で溶けだした。
「……!」
その心地いいまでの衝撃に英人は思わず目を見開いた。
おそらくは鴨肉とフォアグラのバランスがいいのだろう。
とかく肉の脂とはくどさとしつこさをを感じるものであるが、これにはそれが全くない。
さらにはそこに鴨肉特有の歯ごたえ、そして僅かに残る野性味が至高のアクセントとして加わるのだ。
そして最後に鼻を抜ける
「うん……美味し」
口内に広がる幸福に、楓乃は頬を
来てよかった――ただの一品だけでもそう思わせるだけの力を持った前菜であった。
これなら、次に来るであろう主菜たちへの期待感も高まろうというもの。
「そういえば先輩、ナイフとフォークを持つ姿が意外と様になってますね。
何かそういうのとは無縁な人だと思ってました」
「……その物言いでよく人のデリカシー云々が言えたな。
まあ別に、たまたま慣れる機会があったというだけさ」
細かい部分の差異こそあれど、異世界とこちらの世界におけるおおよそのテーブルマナーは同じだ。
異世界の食事も主にナイフとフォークを使うので、自然とマナーも似たものになっていったのだろう。
そして英人もあちらの世界ではそれなりの有名人。
王族や貴族といった有力者と会食する機会はそれなりにあったため、テーブルマナーも身に付いたのだ。
むしろこの高級感溢れる雰囲気はどこか懐かしさすら覚える程だった。
そう、その時には彼らもいて――
「先輩?」
「ん、ああ悪い。酒……いや雰囲気に酔ったか。
お前は大丈夫そうだな」
「これでも主演女優賞まで取った女優ですから。
こういう食事は慣れ切っているんです」
楓乃は得意げに笑い、再びグラスを
「なるほど」
「……でも、こうしてると感慨深いですよね。
図書準備室に籠ってずーっと本ばかり読んでいた高校生ふたりが、今こうして高級フレンチを食べてるだなんて」
「十年以上経ってるからなあ……変わって当然ではある。
しかしここまでとは当時の俺らも思わなかっただろうよ」
「当時、かぁ……」
楓乃は窓へと振り向き、眼下に広がる都会の灯りを見つめる。
方角的にはもしかしたら自身の母校である翠星高校もどこかにあるかもしれない。
「そう言えば、あの頃はなに食べてましたっけ?」
「ラーメン」
その即答ぶりに、楓乃はズッコケるように右肩を落とす。
「いや確かにそうかもしれませんけど、身も蓋もない……。
もっとなんかこう、あるでしょ」
「んなこと言われてもな……」
うーん、と英人は考え込むが頭に浮かんでくるのはやはりラーメン。
まあ高校選男子のメシと言えば基本ラーメン辺りになるだろう。今でも食べてるし。
「全く……ほら先輩覚えてないんですか?
今と同じ時期に私がご飯をごちそうしたこと」
「……ああ、そう言えばそうだったな」
英人はテリーヌを口に運びながら、かつての記憶を思い返す。
彼女が言っているのは今から十一年前、英人が十八歳になった時の誕生日だ。
「思い出しましたか?」
「ああ。
確か、あの時は――」
――――――
――――
――
「全く信じられない!
まさか自分の誕生日を忘れるなんて!」
十一年前、秋の放課後。
翠星高校二年生の桜木楓乃は、眉間に皺を寄せながら英人の横を歩いていた。
彼女の手には英人が間違ってプレゼントしてしまった本革製の栞が握られている。
「だから悪かったって。すっかり忘れてたんだよ。
まあ返されても困るし、そっちの誕生日プレゼントの前借りってことでもらっといてくれ」
「はぁ……」
楓乃は大きくため息をつく。
陰気な雰囲気を纏っているせいかどこか抜けた感じのある人だとは思っていたが、まさかここまでとは。
偶然出会い、密かに想うようになってからはや数ヶ月。
もしかしたらダメ男に引っ掛かりやすいタイプなのでは、と楓乃は自身の趣味を今更ながらに心配した。
「んで、これからどこ行くんだよ?
とりあえずついて来いって言われたからハロウィン会抜け出して来たけど……何かあんのか?」
「もちろん、誕生日プレゼントです。
物忘れの激しい先輩と違って、私はしっかり人の誕生日を覚えてますから。
ま、ハロウィン会があったから」
「間違いとは言え仮にもプレゼントをあげた筈なのに、何故こうも言われなきゃならないんだ……」
英人はげんなりとした表情をしながら前方を見上げる。
既に歩き始めてからおよそ十分、住宅街を抜けて周囲の景色は車通りやら店やらの賑わいが強くなってきていた。
元々翠星高校付近は地価も高く、さらには付近の私鉄が開発していることもあってかなりおしゃれな街づくりとなりつつある。
駅の周囲も繁華街と言うよりは、綺麗なカフェやらレストランやバーが立ち並ぶハイソな空間だ。
「ほら先輩、こっちですよ」
楓乃は軽快に歩きながら英人を先導する。
どうやら、何度か行ったことのある場所のようだ。
そしてさらに歩いて二、三分後。
「ここです、先輩」
とあるレストランの前で、楓乃は立ち止まった。
看板にはイタリア語と思われる文字で「ラ・ステッラヴェルデ」と書かれている。
店頭に出ている黒板にはパスタやピッツァといったメニューが散見される辺り、どうやらイタリアンの店のようだ。
「え、マジでここ?」
おそらく、というより間違いなくここであるが、念のため英人はもう一度尋ねる。
遠目から店内を見る限り、客層は主婦や家族もいるが、特に二、三十代辺りのカップルがメインのようだ。
まるで地中海の空気をそのまま持ってきたかのような洒落た雰囲気がデートには打ってつけなのだろう。
つまりどう考えても、制服姿の二人が入るにはそぐわない店だった。
「はい、もちろん。
今回私が用意した誕生日プレゼントは、ここでの食事です!」
楓乃は宣言するように腰に手を当て、慣れない笑みを浮かべる。
だけどやはり緊張していたのか、その手は小さく震えていた。
英人はその明らかに無理をしている姿を見ながら、
――すまん、もうサイ〇リヤでよくね?
と、ひとり心の中で呟くのであった。
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