夏のせいにして⑤『偽・淑女協定』
「え、ええどうぞ……」
突然の来訪に面食らいながらも、
「……ありがと」
すると隣に
その手には皿や箸といった食器はなく、持っているのは「バナナオレ」と書かれた缶ジュースのみ。
度数低めの缶チューハイですらない、完全な未成年の飲み物。
なのに――
(すごく、綺麗で大人っぽい……)
瑛里華は美智子の横顔に一瞬釘付けになってしまった。
青い髪と澄んだ瞳は夜の海を背景にしてより一層映え、シャープな輪郭は高身長も相まって嫌が上にも大人な色気を感じさせる。
自身もどちらかと言えばキレイ系であるし、それに一応ミス早応という肩書もある。だがその年齢不相応の美貌を前に、瑛里華は自身の胸に宿った微かな敗北感を拭えなかった。
「えーと、
早応大学で二年生の」
そんな瑛里華の横で、美智子がゆっくりと口を開いた。
「え、ええ」
「一応、自己紹介しておくね。
私は
よろしくね」
「よ、よろしく……」
瑛里華は小さく頭を下げた。
「それで前に会った時から少し気になっていたんだけど、瑛里華さんって先生とはどういう関係なの?」
その質問に、瑛里華はドキリとした。
正直な話、自分でもその疑問はあった。
「あの人と私はいったいどういう関係なのか?」と。
敵? 嫌いな相手? 知り合い? 友人? 腐れ縁?
次々とそんな言葉が頭に浮かぶが、どれもが正しくない気がする。
こんな時、部屋に置いてきた『そいつ』はどう答えるのだろう?
でも、今は私が答えなければいけない。
というより、彼女相手に「それ」を誤魔化しては、絶対にいけない気がする。
「……分からない」
だからこそ、瑛里華は正直に答えた。
「……そっか。
私はね、知ってるとは思うけど先生と生徒の関係なんだ。まあ相手は家庭教師なんだけど。
だから瑛里華さんとは違って、すぐに答えられちゃう関係」
美智子は少し横を向き、瑛里華の表情をその目に捉えた。
ルーズウェーブの髪に隠れてはいるが、瑛里華には分かった。
それは強い意志を持った女の瞳だと。
思わず、気後れしそうになる。
「でも私は、もっと踏み込みたいと思ってる。
だって私――」
「あ……」
待って、と言いそうになる口を瑛里華は必死に結んだ。
その言葉を遮るだけの意思と強さが、今の彼女にはなかった。
それに、自分はそれを聞かなければならないとも感じたのだ。
「先生のことが、好きだから」
嗚呼、聞いてしまった。
その一言は、今にも潮騒にかき消されてしまいそうな、小さなもの。
しかし瑛里華にとっては、鐘の音色のように重く深く心に響き渡るものであった。
「はは……直接告らなくても、結構恥ずかしいもんだね」
美智子は頬を染めて俯く。
それは大人の女性からは離れた、なんとも可愛らしい乙女の姿。
だがむしろそちらの表情の方が、より大きい敗北感を瑛里華に与えた。
「そ、そう……まあなんとなく気付いてたけど。
さっきのプールの件だってそうだし」
瑛里華は焦る表情を隠すように、その艶のある黒髪を指先でいじる。
「う、やっぱり女の人から見れば分かっちゃうんだね……。
それで瑛里華さんは? 先生のことどう思っているの?」
「私が? あの人を?」
「うん。教えてほしいかな」
美智子は手すりにうつ伏せになり、下から瑛里華の表情を見上げた。
期待と不安が薄っすら入り混じったような、そんな瞳だ。
「それも……分からない。
ごめんね、こんな答えばっかりで」
瑛里華は小さく俯く。
嘘ではなく、本当にわからなかった。
「……嫌いなの?」
「嫌いじゃない……と思う」
「じゃあ好きだったり? 私みたいに」
「分からない……というより、なんでそんなことを聞くの?
あの人と仲が悪かった私の話なんて、聞いてもしょうがないでしょう?」
瑛里華は美智子に向き直る。
「うーん、どうだろ……ライバルとかそういうんじゃなくて、ただ確認したかったんだと思うんだよね。
だって、同じ人を好きになるなんてすごいじゃん! しかも、あんな変な人をだよ?
私が言うのもなんだけど」
「変、ね……。まあ確かにそうだけど」
今までのことを思い返しながら、瑛里華は答える。
色々あったが、確かに八坂英人を一言で表すならば「変」かもしれない。
「だから周りからは嫌われるよりも好かれていてほしいかなー、なんて。
だってせっかく初めて好きになった人なんだし! その方がいいもん!」
「でもライバルが増えるのはやっぱり良くないんじゃない?」
「うーん、それはやっぱり気になるところだけど……まあ別にいいかな。
最後は先生が決めることだもん」
美智子は海を眺め、苦笑する。
その横顔を見ながら、瑛里華は思わず溜息をついた。
(……羨ましい、なあ)
こんなにも美しく、誰かを好きになれる人が和香たちの他にもいたなんて。
未だ「好き」を掴み切れていない自分は、果たしてこうなれるであろうか。
「でも、私だっていつか……」
「ん? 瑛里華さん?」
「ああごめんなさい、今のはただの独り言。
でもすごいよ。私だったら嫉妬しまくっちゃうかも」
「私も本来は嫉妬しちゃうんだろうけど、何故か先生相手だとそういうのが弱くなっちゃうんだよねー。
なんだろ、変人だからかなぁ…………でもまあいっか! これが惚れた弱みってやつなんだろうし!」
美智子はがばっと手すりから起き上がり、瑛里華に手を差し出した。
「というわけでこれからもよろしく、瑛里華さん」
「へ?」
「同じ男に振り回されてる仲間ってことで」
美智子は再びニッコリと笑みを浮かべる。
つまりは、淑女協定ということらしい。
「……そうね。あの人のおかげで私の日常はもうハチャメチャ」
瑛里華はその手を優しく握った。
指の長い、綺麗な手だった。
「ですよねー。なんかあの人といると事件が絶えなそうな感じ」
「確かに」
「……ふふっ」
「……ははっ」
手を握ったまま、二人は思わず吹き出した。
この握手が示すのは、いわゆる普通の淑女協定ではない。
あえて説明を加えるとするなら、それはこれまで通りいこう、そして好きにやろうという同意。期限はもちろん、あの世にも奇妙な男が誰かを選ぶまで。
それが分かったからこそ、二人は笑ったのだ。
「……そうだ。
せっかくだし、ひとつ言っておかないと」
「ん、何?」
美智子が尋ねると、瑛里華は小さく咳ばらいをし、
「取り消すわ、あの人を『軟弱男』って言ったこと」
「……うん!」
その言葉に、美智子は微笑みながら深く頷く。
そこには嫉妬とか怒りとか、後ろ暗い感情は欠片もない。
「……ありがとう」
気付けば瑛里華の心も目の前の潮騒と同じく、穏やかなものとなっていた。
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