血命戦争⑫『鏡の中のワタシ』

「はあ……、つい遅くなっちゃった」


 夜の街並みの中、東城とうじょう瑛里華えりかは足早に自宅へと向かっていた。


 時刻は既に10時過ぎ。

 昨日に引き続き、ひいらぎ和香のどかのお見舞いを終えた帰りである。

 しかもそこからカフェで期末試験の勉強をしていたので、ついついこんな時間になってしまった。


 和香の入院生活はおよそ二日になるが、症状自体は軽い貧血らしく明日には退院できるとのことらしい。


 しかし、問題はもう一つある――それは、和香の幼馴染である新藤しんどう幹也みきやのことだ。


 なにせ本人は依然として行方不明。しかも昨日訪問した自宅は血まみれの状態ときた。

 どう考えても、なんらかの事件に巻き込まれてしまっていることは明白である。


 それに第一発見者のあの男が「急用ができた」とか言って逃げたお陰で、自分が警察への対応を引き受ける羽目になった。

 ちなみに丸一日経った今日も、その男は大学に姿を現さないままだ。


「まったくストーカー事件の時といい、今回といい、ホント肝心な時にいなくなっちゃうんだから……!」


 本当に、思い返すだけでも腹立たしい。


 あの男と会ってから、何する時もずっとイライラしっぱなしだ。

 必死に築き上げてきた好感度がこのままだとアイツのせいで崩壊しかねない。

 それに、イライラの原因はもう一つあった。


 瑛里華は鞄から愛用の手鏡を取り出す。

 母のお下がりではあるが、うるしの枠で覆われたしっかりとした作りのものだ。


 鏡を覗けば、そこにはもちろん自分の姿が映る。

 しかしそれはあくまで自分をかたどった虚像であって、


《いやーしかし昨日は災難だったな、『私』よ》


 そこに映っていたのは、『私』ではなかった。




「そいつ」が鏡に映るようになったのは、四月の下旬辺りだった。

 ストーカー事件が一段落した頃だ。


 その頃からこの手鏡に映る私は――ひとりでに喋るようになったのだ。


「そいつ」が言うには、自身は東城瑛里華という人格が持っている潜在能力を100%発揮できるアバターのようなものらしい。

 つまりは思考、記憶、処理、計算といった能力がフルに解放された私自身ということになる。


 だから、「そいつ」自分のことを『私』と呼ぶ。口調は似ても似つかないが。

 そして事あるごとに色々アドバイスやら忠告やらしてくるのだ。

 しかも潜在能力がフルに発揮された人格と言うだけあって、その助言もそれなりに役立つというのが余計に腹立たしい。


「アンタも、その災難の一つみたいなものなんだけどね」


《確かに『私』は災難みたいな性格をしているが……そんなに自分自身を罵倒してどうする?》


「……私はアンタだけを罵倒したつもりなんだけど」


《でも私は『私』、これは紛れもない事実だ。『私』がいくら否定しようとな》


「ああもう私私うっさいわね! 話がややこしくて仕方ない!」


 瑛里華は怒りに任せ、手鏡をブンブンと振りまわした。

 もしこれがそこらで買った安物なら、とうに地面に叩きつけて割っていたところだ。


《無駄無駄。

 鏡の中の空間にそんな物理的干渉が通じると思っているのかい?

 ……そもそも私がそう結論付けている以上、『私』にもそれが分かっているはずだと思うが》


「気分の問題よ……ホント、何もかも見透かされているみたいで腹立つ」


《見透かすもなにも、元は同じ人格だからなぁ》


「だったらその腹立つ口調をやめなさい!」


 瑛里華はジト目で鏡を睨む。


《えぇー? 元は同じ人格である以上、キャラの差別化は必要じゃないか?

 それに、そっくりそのまま自分自身と話す方がアレだと私は思うんだが》


「それは私も同意するけど、その口調はなんだか気に入らないの。

 すぐにやめて」


《それは……この口調が八坂やさか英人ひでとと少し似てるからかい?》


「……なんで今、アイツの名前が出るのよ」


すると「そいつ」は待ってましたとばかりにはしゃぎだした。


《そりゃーもう、私はあの人に恋をしているからな!

 少しくらい、口調を真似てみたくもなる》


「そいつ」は鏡の中でニヤリと憎たらしく笑う。


「何アンタ……あんなのが好みなの?」


《はぐらかさないでくれ……これは『私』の好みでもあるだろ?

 素直になれないと、一生彼氏いない歴=年齢のままだぞ?》


「べ、別に、今の私は引く手あまただし。

 いつでも彼氏くらい作れるし」


「そいつ」が言うだけあって、それは瑛里華にとって図星であった。


 なにせ自分の周りにはいわゆる「リア充」の知り合い、つまりは彼氏彼女持ちの比率が高いのだ。

 その気になる対象が中々見つからなかったとはいえ、さすがの瑛里華も少し焦る。


《それ、完全に無駄に高いプライドのせいで行き遅れるパターンじゃないか……。

 容姿で言い訳できない分、普通の独身女より悲惨だぞ》


「い、今は女性が自立して活躍する社会だし。

 私はのし上がる必要があるから、恋愛する暇なんてないだけだから……」


 苦し紛れに瑛里華は答えるが、その目は「そいつ」に合わせない。


《重症だなぁ……》


「そもそも、なんでアンタがアイツのことを好きになるのよ?

 同じ人格だってんなら私を見捨てたこと、知ってるでしょ?」


《だから、それもいつも説明しているじゃないか。

 あの人は『私』を見捨てたのではなく、助けたのだと》


 出来の悪い生徒を諭すように、「そいつ」はやれやれと溜息をついた。


「嘘。私そんなの覚えてないし。

 ストーカーはいきなり気絶してくれたから良かったものの……お陰でこっちは命の危機よ」


《だが、『私は』はそれがおかしいと勘づいているはずだ。

 そんな運よく事が運ぶはずないと……ね》


「でも実際そうなったんだから、そうなんでしょ?

 私は運がよかったの」


《ま、確かにたまたま英人さんが助けに来てくれたのは幸運と言えるのかもしれないな》


「……口が減らないわね。

 それにアイツをそう呼ぶのはお願いだからやめて。背筋がムズムズする」


《それはお断り。この方が恋する乙女感が出るからね。

 恋に臆病な『私』の代わりに、私は目一杯恋愛を楽しむのさ♪》


 そう言うと「そいつ」は鏡の中で小躍りを始めた。


 なんだろう、いつも以上に腹立つ。


「というか、アイツが私を助けたという根拠は何?

 私がそれを覚えていないんだから、もちろんアンタも覚えてないんでしょ?」


「確かに『私』は覚えていないだろうが……私は覚えている。

 なにせ私は『私』の思考・記憶・精神の潜在能力を100%発揮した存在だからな!

 つまり、なんらかの影響で蓋をされた記憶も思い出すことができる!」


 フフン、と「そいつ」はドヤ顔を見せる。


「何、つまりアンタはこう言いたいわけ?

 『私は記憶を操作されている』って」


《「誰が」「どうして」までは分からないけどな。

 少なくとも書き換えられているのは確かだ。まるで英人さんの存在を抹消するようにね》


「なんでアイツの存在を消す必要があるのよ?」


《おそらく……英人さんが持つ不思議な「力」について、隠したいんじゃないかな?

 実際何か魔法みたいな不思議な力を使っていたし。

 世間に素性を隠しながら人を助ける……うんうん、ありがちだがカッコいいじゃないか!

 これは惚れる! ああ……英人さん、大好きだ!》


 言いながら、「そいつ」は「キャー恥ずかしー!」と頬に両手をあてて悶え始めた。

 自分と同じ姿をした者が、決して自分がしないような仕草を見せるというのはなんともむず痒い。


「カッコいいかはともかく、にわかには信じがたいわね……」


《だが、これは君の脳が判断した『事実』だ。それだけは分かっていてくれよ?》


「はいはい分かったわよ……あれ?」


 お前はお母さんか、と瑛里華が心の中でツッコむと、視界に気になるものは映った。

 それは通学ルートの途上にある、いつもの公園。


《おや……こんな時間にブランコ遊びかな?》


 瑛里華と視覚を共有している「そいつ」も、同様のものを目にする。

 暗くてよく見えないが、そこにはブランコにぽつんと座る一人の男性がいた。


(誰だろう、でも……)


 いくら不自然な光景とは言っても、女一人でわざわざ首を突っ込む理由はない。普通ならスルーして終わりだ。

 しかしあのシルエットには――微かに見覚えがあるような気がした。


《ああそうだ。その可能性がある以上、『私』は行った方がいい》


「そいつ」は直接脳に語りかける。

 少し癪だが、同じ人格である以上考えていることは同じらしい。


 期待と不安を共に持ちながら、瑛里華はそのシルエットに近づいていった。



「……!」


 真夜中とはいえ、さすがに向かってくる姿に気付いたのだろう。

 そのシルエットは焦ったように立ち上がり、走り去ろうとする。


「待って!」


 瑛里華は声を張り上げ、その男性を引き留める。


 そして――


新藤しんどう幹也みきやくんよね!?」


「!? あなたは……?」


 そのシルエットの名前を言い当てた。

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