番外編『ねこのきもち』 後編
大学を出てから数十分、英人は
結局ここまでの移動中、二人はまともに話せていない。
電車の中でも美智子はただ俯き、英人もそれを横目で眺めているだけだった。
腕時計を見る。
美智子が部屋に入ってから、十分ほど経っただろうか。
暇だし今日授業でやる部分の確認でもするかな、と鞄の中の参考書を手に取ろうとした時。
「先生、もう入っていいよ」と中から声が聞こえてきたので、早速ドアを開けて中に入る。
すると、すぐ前には美智子が立っていた。
服装は半袖のシャツにジーンズとかなりラフな格好だ。
以前は無駄に露出度の高い格好をしていたこともあったので、英人にとってはこちらの方が安心できる。
なんだか気まずい雰囲気になってしまっているが、授業に入ってしまえばなんとかなるだろう。
「んじゃ、今日も始めるか」
「その前に……何か忘れていること、ない?」
早速机に向かおうとするが、美智子がずいっと詰め寄って前を
「う~んなんだったっけ?」と惚けられれば良かったが、完全記憶能力で『そのこと』を完全に覚えている関係上、そうもいかない。
そう――英人は
「……やっぱりやんの? 膝枕」
「あ、当たり前じゃん」
美智子は少しだけ頬を染めてながらパタパタとベッドの方へと走り、上に座った。
「ほら、先生もこっち来なよ」
ベッドをぽんぽんと叩いて英人を誘う。
英人は誘われるままに、すぐ隣に座った。
「はいはい……よっと。ほら、これでいいか?」
キングサイズのベッドにアラサー男と女子高生が並んで座る。
普通ならこれだけで警察の御厄介になれそうだが、今回はそれどころか膝枕までするのだ。今更ながらどうしてこうなった。
「それじゃ……いくね」
美智子は少しの間黙っていたが、覚悟が決まったのかゆっくりと体を横に倒し、英人の
女が男に膝枕をする、ならまだしも今回はその逆のパターンなので英人もなんだか新鮮な気持ちだ。
膝に美智子の体重が少しずつ掛かっていく。
大して重いわけではないのだが、なんとなくズシリと来るものがある。
数秒後、両者どことなくぎこちない形になってしまったが、とりあえず「膝枕」の形にはなった。
「……とりあえずはこれでいいのか?」
間が持たないので、英人は美智子に話しかけた。
「うんまあ……とりあえずはこれで大丈夫かな」
「しかし今更だけど、なんで俺がお前に膝枕するんだよ? まあ逆なのもアレだけど」
「たまには甘えたいのー。
先生は年上なんだし、そこは有効活用しないと」
「なんじゃそりゃ」
あれこれ話しているうちに余裕が出てきたのか、美智子は英人の膝をさすり始める。
「ふーん、意外と筋肉あるじゃん。先生って結構鍛えている感じ?」
「まあ、人並みには……ってか、あんまし摩るな。くすぐったいだろ」
「まーいいじゃんいいじゃん。
硬くて枕としてはイマイチだけど、そこは許すとしましょー」
そう言って太腿に頬ずりし始める美智子。
以前、英人は彼女の性格を「猫のようだ」と評したが、今は外見や仕草も猫そのものだ。
だからなのだろうか――英人は無意識に、彼女の横顔を優しく撫でてしまった。
「ひゃっ」
美智子の体が、ピクリと跳ねる。
「あ、悪い。何かつい触っちまった」
「……」
美智子は膝枕された状態のまま、少し震えている。
……やべえ、マズったか?
「み、美智子さん?」
「……いいよ」
「え?」
「もっと触っても……大丈夫」
そう話す横顔は、耳まで赤い。
予想外の反応に英人は少々戸惑ったが――
「……ああ。分かった」
また優しく、猫を撫でた。
青く澄んだ髪の流れに沿って、頭から耳、そして頬を手の平でなぞる。
上気した頬の温かさが手に伝わり、首筋から立ち上る薔薇の香りが周囲を包む。
美智子の横顔を見つめながら、規則正しく手を動かしていく。
「……えへへ」
「加減はこんなもんでいいか?」
「うん。
……前から思ってたけど、先生の手って結構ゴツゴツしてるんだね」
「嫌か?」
「ううん。今はこういう手の方がいいかも。なんだか『男の人』って感じがするし」
「……そうか」
そのまましばらく間、撫で続けた。
撫で続けてからどれくらい経っただろうか。
窓から差し込む光からして、おそらくそこまでではないだろう。
でも二人の周りだけは、心なしか時間がゆっくりと流れているようだった。
「ねぇ先生」
窓から漏れる日光を横目に美智子を撫でていたら、ふいに美智子が口を開いた。
「ん? なんだ?」
「さっきの……大学で会った人が言ってたことってホント? 襲われているのに見捨てたってやつ」
英人からは美智子の横顔しか見えない。
――どんな思いで、彼女は質問してきたのだろうか?
英人は言葉を選ぼうとしたが、すぐに諦めた。
「……ノーコメントで」
「じゃあやっぱり、あの人のことも助けてあげたんだね。私の時みたいに」
その言葉に英人は少しドキリとした。
完全に誤魔化しきれるとも思ってなかったが、ここまで踏み込んでくるとは。
普段はややのんびりした所がある少女だというのに、こういう時に限って核心を突いてくる。
とはいえ自ら認めるわけにもいかないので、英人はとりあえず沈黙を維持した。
「誤解を解こうとか、考えないの?」
「……」
「ふーん。話さないんだ……」
美智子は顔だけ手前に起こして英人を睨む。
少し考え込んだ後、意を決したよう勢いよく膝から起き上がった。
「よし決めた! 私、先生に話してもらえるような女になる!」
美智子はベッドに座る英人の前に立ち、高らかに宣言する。
「お、おう……」
突然の宣言に、英人は思わずあっけにとられた。
だがそんな状況などお構いなしに、やる気満々の顔がずいっと近づいてくる。
「だから今までよりもっともっと、勉強を教えてね!」
おそらく彼女の中で何かのスイッチが入ったのだろう。
正直言って、面食らった。
でもやる気があるというのなら――家庭教師として、応えよう。
英人は彼女の顔を見つめ返し、
「ああ。任せとけ」
力強く返事をした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
後日、美智子は
今日は中間テストの最終日。
一週間に及ぶテストがようやく終わり、周りの女子生徒たちは解放ムードである。
「うーん……っと」
そんな光景を横目に見ながら、美智子は一つ伸びをした。
この一週間、いや前もって勉強をしていた期間を含めて実に三週間近く。
人生最大と言っていいほど勉強をした。
ようやく試験が終わった今、その達成感と疲労感が体を支配する。
「もっと勉強を教えて」宣言をして以降、あの先生も今までよりも本気を出して指導をしてきた。
まあ自分からお願いしたのだから当然と言えば当然なのだが。
正直、しんどいと思う時もあった。何度繰り返してもできなかった時は
でも、やり切った。なけなしの根性と気力を振り絞って。
廊下の窓から外を眺める。
青空の中に、自分の顔がうっすらと映っている。
少し、疲れた顔だ。
「……我ながら、よく頑張ったものですなあ」
そんなことをぽつりと零していると、前から担任の教師が通りかかった。
「あ、
「……ども」
美智子は少しだけ頭を下げて挨拶をする。
「中間試験、お疲れ様。今回はすごく頑張ったみたいね。
まだ採点途中だから詳しくは言えないけど、どの教科の先生も褒めていたわよ」
「あ、ありがとうございます!」
担任の言葉に、美智子の表情がパアッと明るくなる。
生まれてこの方、学業で褒められたことなんてほとんどなかった。
だからだろうか、こうして褒められた瞬間に胸が無性に熱くなってしまったのは。
先生と一緒に、頑張って良かった。
「でもここまで急上昇するなんて、何かきっかけでもあったの?」
「うん。最近は家庭教師の先生にも、勉強を教えてもらってるんだ」
誇らしげに答える。
「あら、そうだったの。それならずいぶんやり手の方みたいね」
担任の教師は口に手を添えて驚いている。お嬢様学校だからか、教師のリアクションも優雅だ。
……確かにあの先生の教え方は多分、上手だと思う。結果も出ているし。
でも元々勉強嫌いだった私がここまでやる気になったのは、なんでだろう?
先生のことが好きだから?
でもただ振り向かせたいのなら、別に勉強じゃなくてもいいはず。
それこそ腕に抱き着いたり膝枕してもらったり……まあ、あれはさすがに攻めすぎたかなと反省してる。めちゃくちゃ恥ずかしかったし。
じゃあ、なんでなんだろ――?
「? どうしたの美智子さん?」
美智子が気付くと、担任が目の前で手を振っていた。
どうやら不覚にも少しボーっとしてしまったらしい。
「あっ! えーとハイ! やり手の人なんです!」
「そう。これからもこの調子で頑張ってね。
勉強って面倒くさくて嫌なものかもしれないけど、やってみると面白くて好きになれる所も必ずあるから……それじゃあ、気を付けてね。さようなら」
「さよならー」
美智子は軽く手を振って担任との別れを済ませる。
しばらくの間、その去っていく背中をぼんやりと眺めていた。
「勉強が面白くて好きになる、かぁ」
それは少し前までの自分が聞いたらとても信じられないような言葉だが、今ならなんとなく合点がいく。
私は、勉強を好きになり始めている。
そして勉強を好きになろうとしている。
何故ならあの先生が、勉強を好きだから。
直接言っていたわけじゃないけれど、教える時の横顔を見れば嫌でも分かる。
私、あの人が好き。とっても。
だからあの人が好きな勉強も、好きになってみたいと思ったんだ。
――そっか、それが理由かぁ。
納得した瞬間、美智子の頬は熱くなる。
「……乙女か」
再び窓を覗く。
そこには恋する乙女の顔がはっきりと映っていた。
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