九.父と娘


 夕飯は煮込みハンバーグと野菜スープだった。

 実はお肉が大好きなルティリスの尻尾が、心境を反映して嬉しそうに揺れている。それを見るリトも楽しげな表情だ。


 その頃までにはロッシェもだいぶ回復したのか、口にしたリトの料理に感想を言える余裕も出てきたらしい。言葉少なながらも交わされる二人の会話は穏やかで、ルティリスはなんとなく安心する。

 食事の後、ロッシェはまた片付けのために席を立ち、リトはルティリスにミルクセーキを作ってくれた。今度は何も壊れることなく無事に片付き、明日の準備があるからとリトも早々に去ってしまったので、ルティリスもロッシェと共に部屋へと戻った。


 ベッドを椅子がわりにして座り掛けられた手錠を調べているロッシェは、何か思い詰めているようで元気がない。

 ここに連れてこられて丸一日が経過し、段々と口数が減ってきているのは気のせいではないはずだ。その理由について予測できない訳ではなかったが、どう切り出していいか解らずルティリスはしばらく黙って彼の様子を眺めていた。

 穏やかな沈黙を終わらせたのは、ロッシェの側。


「眠いかい? ルティリス」


 自分に向けられた紺碧こんぺきの双眸に、なぜか胸が高鳴る。ルティリスは彼の問いに首を振ってから、口を開いた。


「眠くはないです。ロッシェさん、元気ないなぁって」

「ああごめん。心配掛けたね」


 ロッシェは自嘲じちょう気味に笑ったものの、すぐに視線を落として思考に沈んでしまった。途切れてしまった会話に一抹いちまつの寂しさを覚えつつ、ルティリスは何を話そうかと考える。

 そういえば、気になっていたけど聞きそびれていたことがあった。


「あの、わたし、気になってたんです。……ルベルさんって、どなたなんですか?」


 ずっと心に引っ掛かっていた疑問を、そっと尋ねてみる。初めの夜、大怪我にうなされて呟いていた名前が、確かそんなだった。聞いていいのか解らなかったが、彼がずっと気にしていることに気づかぬ振りをし続けるのは、辛い。


「……どこで、その名前を?」


 ロッシェが驚いたように目を瞠る。ルティリスはためらいつつも、素直に答えた。


「ロッシェさんがうわごとで、呼んでいたんです。もしかしたら、待ち合わせ相手の方なのかなって思って」


 ロッシェは一度瞬きし、それから小さく笑って視線を泳がせた。


「そっか。ルベルはね、…………僕の、娘なんだ」


 ゆっくりと息を吐き出しながら、彼が答える。目を伏せ、思い出しているのだろうか。柔らかくて優しい笑みがその顔に浮かんでいた。


「娘さん、お一人で待ってたんですか」

「ううん。保護者の先生が一緒だから、大丈夫」


 奥さんか恋人なのだろうと、勝手に思っていた。けれど、出会ってすぐから感じた父親らしさを思い出せば、違和感はない。


「でも、娘さん心配してますよね」


 なんたって待ち合わせの場所に父が来なかったばかりか、二晩続けて戻ってこないのだ。どれだけ心を痛めているかと想像すると、ルティリスの胸も痛む気がする。

 けれどロッシェはその言葉に、目を開いて笑みを消す。


「二度目なんだ」


 首を傾げて見るルティリスに視線を合わせようとはせず、ロッシェは沈痛な表情でぽつぽつと言葉を続ける。


「僕は酷い父親でさ。一度、娘を捨てたんだ。二度と帰らないつもりで、家を出て。……でも娘はさ、そんな僕を迎えに来てくれたんだ」


 彼が何を恐れているのか、漠然と理解した。どんな事情の元でそういうことがあったのかは解らないが、そして今戻れないのもやむを得ない状況ではあるが、それを伝えるすべがない、ということ。それが娘の目にどう映るのか。

 何と言葉を掛けて良いか解らなかった。だからルティリスは耳をまっすぐ立て、一言も聞き漏らさないようにと意識を集中する。


「僕の妻は娘が小さい頃に死んじゃって、ルベルは一人娘なんだ。僕みたいに駄目な父親を大事にしてくれてさ。だから――、」


 ふいと言葉が途切れ、ロッシェがルティリスを見た。紺碧の双眸に不思議な強さを宿し、言った。


「僕の荷物の中から、スケッチブックを取ってくれないかな。ルティリス」

「あ、はい」


 弾かれるように立ち上がり、隅に置いてあるバッグの中から言われた物を探す。それほど大きくない厚紙の束を探り出し、引き抜いてベッドの方へと持って行った。


「ありがとう」


 彼はそれを受け取り、スケッチブックを開いて挟んであるペンを引き抜くと、カリカリとなにかを描き始めた。


「ロッシェさん、絵を描くんですね」

「うん」


 しんとした部屋の空気を、ペンが紙面をこする音が震わせる。その音に紛れさすように、ロッシェが独白みたいな言葉を落としてゆく。


「目もとは多分、母親似かな。……まだ十歳なのに、結構背が伸びちゃって。……僕似なのかな。もう十年もしたら、美人さんになると思う。……大好きなんだ」


 くるりとスケッチブックを返して、手渡される。そこに描かれた似顔絵に、ルティリスは思わず感嘆の声を上げた。


「すごい! ロッシェさん、上手ですねっ」


 瞳の大きな、ツインテールの少女だ。見比べてみれば、なるほどロッシェによく似ているように思う。

 キラキラと感動の瞳を向けるルティリスに、ロッシェは曖昧あいまいな笑みを返した。その表情はなんだか痛々しくて、彼の不安の強さを感じ取る。


「ロッシェさん、……明日リトさんに事情話してみませんか?」

「うん、彼なら恐らく理解してくれるだろうね」


 でもさ、と呟く。


「僕は娘を、巻き込みたくないんだ」

「……そうですね」


 全部の事情を話さず、今の状況を説明するのは難しいことだ。自由になれないということは戻れないということだし、それで一層の心配を掛けてしまうことも、ロッシェは危惧きぐしているのだと思う。

 だから彼はずっと一人で、思い悩んでいたのだろう。それを思って、ルティリスは胸が締めつけられるみたいに切なくなった。何と言葉をかけて良いか解らず、ただ隣で耳を傾けるしかできない。

 ぱたり、と彼がスケッチブックを閉じた。ベッド横の机にそれを置いて布団の中に潜り込むと、笑んだ表情でルティリスに問い掛ける。


「とにかくも、明日のことは明日考えるよ。ルティリス、一緒に寝るかい?」

「はいっ」


 もっと気の利いたことを言ってあげたかったけど。慰めも保証も、根拠がなければ空回りするだけで、今自分にできることは何もない。

 朝になって何かが変わるわけもないだろうが、明日のことを考えれば休めるときに休んでおいた方が、絶対いいだろうから。




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