二.フェリオヴァード
月光の薄明かりと夜闇が溶けあう森の中、岩陰に息を殺して身を潜めながら、ルティリスは傍らのロッシェに身体を寄せる。枯れ葉を踏みしだく足音と湿り気のある焦げ臭さがすぐ傍まで近づいていた。
ロッシェの視線は、岩の向こうに釘付けになっている。うずくまった自分の頭よりも高い岩に阻まれ、その向こうに何がいるのかルティリスには見えないけれど。
不意にロッシェが身じろいだ。一瞬向けられた彼の瞳を見、ルティリスも直感的に立ち上がった。ぎらりと光る三日月型の剣が、いつの間にかロッシェの右手に握られている。
「川へ逃げろ」
指示は短く、切迫していた。同時に背中を押され、ルティリスはうなずいて身を翻す。一呼吸分遅らせてロッシェが自分を追うのを、足音で確かめる。密度を増す火の匂いと、強い翼が茂みを散らす音に心拍数が跳ね上がった。
背後でロッシェが舌打ちし、足を止めたのが解る。思わずスピードを緩めて振り返ってしまったルティリスは、飛び込んできた光景に
金鷲の頭と緋獅子の
『娘、その鍵を返せ』
獣が発した言葉は鼓膜ではなく脳裏に直接響いた。鋭い爪を
獣の目が、炎を映して鈍く輝く。そして、ゆるりと翼を持ち上げた。
ロッシェが再度舌打ちし、前身を低く構えた獣に斬りかかる。獣は前足で払うように剣を受け流し、跳躍してロッシェに飛びかかった。血の匂いが散り、獣の唸り声が闇を震わせる。
「ルティリス、鍵を渡すんだ」
喉を噛み裂かんと迫る
だってこの鍵は誰にも渡しちゃいけない大切なモノだと、そう言って託されたものなのだ。
「フェリオヴァード、僕に話させてくれ」
『邪魔だ、貴様が退け』
「ルティリス、早く!」
「ロッシェさん」
手を伸ばせば届く距離、自分を
彼の後ろ姿に大きな外傷は見当たらないが、生々しい血の匂いは自分からのものではない。最悪の予測が恐怖心に火を付け、首に下げた鍵へと無意識に手が動く。
「あれは、聖地の守護獣だよ。君が何を持っているのか僕は知らないけど、
張り詰めた声でロッシェが
「……でもこれ、預かり物なんです。大切なんです」
声に涙が混じり、不安と混乱に身体が震える。獣が姿勢を低くし翼を広げ、同時にロッシェが身を翻してルティリスの手を掴んだ。
「川へ……っぐ、」
矢じりが風を切るのと似た音がし、ロッシェが言葉に詰まって表情を歪める。が、それでも足は止めずルティリスを引っぱって走り出す。
それほど遠くはない、水が集まり流れる音の方へ、ルティリスもただ必死に走った。当然グリフォンも追ってくるが、振り返って距離を確認している余裕はない。
「ルティリス。その鍵は聖地に返すべきだと、僕は思うよ」
正論なのかもしれない。でも、うなずけない。彼が力ずくで鍵を取ろうとせず一緒に逃げてくれている事実に
ざあぁと木々がざわめき、熱風が通り過ぎる。ロッシェが急に立ち止まり、それに引っ張られてルティリスも足を止めた。茂みの向こうから聞こえる、激しい水流の音。長い腕が自分の肩を包むように抱き、血と炎の匂いが鼻をつく。
「伏せろッ」
不意に頭上に影が踊り、ロッシェが叫んでルティリスを抱き込んだ。勢いよく地面に押し倒されて思わず小さな悲鳴を上げる。自分の上に覆い被さっているのはロッシェの身体で、すぐ鼻先に鋭い爪を生やした獅子の足が見えた。
「離せ……っ」
苦しげなロッシェの声。そういえば、とルティリスは思い出す。
幼い頃から、父が繰り返し教え込んでくれた警告。鷲やフクロウという
『
地面にうつぶせルティリスを庇うように抱き込んだ体勢で押さえつけられて、身動きができないロッシェに獣が
「鍵は返す、それでいいだろう?」
ぷつ、と爪が布地を貫通する音が聞こえ、ルティリスを抱く腕が
『今さら命乞いか。虫のいい話だな』
「鍵は返す、だから見のがしてくれ……ッ、うあああ」
爪が更に深く食い込んだのだろうか。彼の悲鳴が耳に痛くて、それでも幻獣が恐ろしくて、ルティリスはロッシェの腕の中がたがた震えていた。
鍵を持っているのは自分で、彼は本当は何も知らず巻き込まれただけなのだ。けれど自分に矛先が向くのが怖くて、言い出すことが出来ない。
『娘も渡せ』
「駄目だ、っ、食べ……あうぁっ」
獣の前足が動き、布が裂ける音に悲鳴が重なる。余程痛みが激しいのかロッシェは逃れようと身じろぎするも、力では敵わず。身体に感じる圧迫感が増して、獣がさらに力を強めたのだと気づいた。
「頼む、死にたくない、ッ……ああああ」
『騒がしいぞ貴様。黙れ』
震える声で請うロッシェに獣はつまらなそうに応じ、前足を打ち下ろした。全身を庇われているルティリスは、獣に何をされているのか解らない。それでも、
今遭遇している現実に猛獣が獲物を引き裂く想像が重なり、そのすべてがただ怖くってルティリスの目に涙があふれた。
『
獣が唸るように言い放ち、うつぶしたロッシェの体に爪を引っかけて仰向けにひっくり返した。腕の中に抱きしめられていたルティリスはそのせいで、獣と真正面から向き合う形になってしまう。
『その首噛み切って、返して貰う』
怒りに燃えた鷲の瞳に睨み据えられ、ルティリスは声も出せずに身を固くした。途端にロッシェの手のひらがルティリスの目を覆い、彼女を胸に抱き込んだ。
「やめろ、……頼むから少し、時間をくれ」
『与える理由が無い』
ひゅ、と風を切り裂く音に自分の物ではない血の匂いが散る。ロッシェが息を詰めて悲鳴をかみ殺し、更に強く自分を抱きしめる。視界をふさがれていても迫る殺気が鼓動を乱し、いっそ意識を手放してしまえたらどんなに楽だろうと思った。
「僕を、なぶり殺す気か」
泣き出しそうに聞こえる声でロッシェが呟いた。腕を通して伝わってくるのは誰の震えだろう。自分か、それともロッシェなのか。
二度、三度と殴るように転がされ、視界が回り、耳に届くロッシェの呼吸が段々と弱くなっていく。やがてとうとう頭を抱く腕から力が失われ、不意に視界が開けて光景が目に飛び込んできた。
『貴様の血が、私を酔わせるのだ』
ぎらぎらと輝くきんいろの瞳。大きな前足をロッシェの肩に掛け覗き込む獣王は、獲物を前に血を求め
反射的に跳ね起きて振り返れば、両の前足をロッシェに掛けた獣王と目が合った。彼の左腕は力なく地面に投げ出され、右腕は引き裂かれた袖が血に染まっている。
『貴様らが逃げ隠れるから追跡に数ヶ月を要し、私は腹が減った』
数ヶ月、なんて話は濡れ衣だ。そう思いはするものの、ルティリスは声も出せず、ロッシェも力なく首を振るしかできない。苦しげに細めた彼の双眸には涙が滲んでいたが、それが恐怖からなのか痛みによるものなのかまでは解らなかった。
完全に抵抗をやめたロッシェに獣は興味をなくしたのだろう。今度は座り込むルティリスの方へ歩き寄り、前足で地面へ突き倒して鎖骨の辺りを押さえつけた。
『小娘が。一撃で死にたいか、それとも貴様も少しずつ引き裂いてやろうか』
「や、……あぁ、あうぅ」
肌に触れるか触れないかの位置に当てられた爪が恐ろしく、無我夢中で引き
「やだ、たすけ……っ」
何が間違っていたんだろう。始まりは何だったんだろう。何をしてしまって自分は、命を奪われるほどの大罪を犯してしまったんだろう。
心臓を鷲掴みされるような恐怖に震えながら固く目をつぶり、現実を遮断しようとした時――、唐突に、耳覚えのある声が彼女の意識をとらえた。
「そう言えば聖地の宝物庫を番している守護獣は、罪人を食べることが許されている……んだったっけ」
思わず目を開ける。涙でおぼろな視界、獣の後に影が立つ。
きら、と闇夜に音もなく銀月が
「ピィィ――――ッ!」
甲高い笛のような悲鳴が鼓膜をつんざく。獣が躍り上がるように跳躍し、胸の上から重みが失せた。立ち上がろうにも膝が笑い腰が砕け、思うようにいかない。
――と、ぐいと手を掴まれ引き起こされた。
「川へ走れ!」
「ロッシェさんっ」
泥と血でまだらな右手に握られた、
「翼を切り落とした。今のうちに早く、川へ飛び込め」
ぐ、と背中を押され無我夢中で走り出す。背後で聞こえる
「……っ」
けれど、その流れを見た途端ルティリスの足は
「ルティリス!」
足音が響き、ロッシェが駆けて来る。崖端で震える少女を見、激しい流れを確認しても、彼は迷わなかった。右手の剣を放り捨て、ルティリスを抱えて渓流へと身を躍らせた。
ルティリスは思わず固く目をつぶる。身体を包むロッシェの腕以外まったく
精霊たちは絶対に僕を水の中で死なせはしない。
だから大丈夫だよ。
と。
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