一.極秘任務と旅の道連れ
法治制度は人ではなく国家を守るためのものだ、と昔聞いたことがある。
無実と無罪は同義ではなく、無実であるとの証明ができなければ
視界の端に映る光景を見るともなしに見ながら、彼の脳裏に思い浮かんだのはそんなことだった。
「わたしは、何もしてません」
息を詰めるような細い声がきっぱり無実を主張する。聞いている限り、三度目だ。
「でもねぇお嬢さん。火のない所に煙は立たぬというし、アンタみたいに……なんというか、外見が特徴的な娘さんなら、勘違いって線も薄いだろうし、ねぇ」
口ひげを蓄えた、その割に若そうに見える事務員が、ため息混じりに呟いた。手元のペンで
彼の言う『外見が特徴的な娘さん』は彼の向かいの椅子に足をきっちりと揃えて座り、視線をうつむけて口元を引き結んでいる。
濃い金の髪の間から突き出す鮮やかな金毛の獣耳が、悲しげに下を向いている。つり目がちなオレンジの両眼を泣き出しそうに瞬かせ、机の上を見つめていた。
椅子の後ろからはみ出して時折動くふさふさの尾からすると、彼女は
「……わたしは、ただ帝都に向かおうとしていただけです。誰かに恨まれるようなことをした覚えも、法に触れるようなことをした覚えも、ありません」
「しかし向こうは、アンタ指名で襲ってきたというじゃないか、ルティリスさん。日中の商店街で人通りも多かったし、そんな中派手に乱闘とかされると、……物損だけで怪我人がなかったからまだ良かったものの、困るんだよねぇ」
先程から要領を得ない事務員の話を総合して推測するに、どうやらルティリスという名前の彼女は街道にて何者かに襲われたらしい。それも、顔を隠した複数名に。
見たところ目立った外傷はなさそうなので、彼女自身はある程度腕に覚えがあるのだろう。だが、たった一人で複数を相手にした技量を不審に思われたのと、店先の商品に多少の被害が出てしまったことで、通報され
「困ると言われても、……ならどうしたらいいんですか」
「ひとまず、お嬢さんの現住所と、ご両親の名前を教えてもらえるかね? 身元の保証が取れれば、こちらとしてもあまり事を荒立てたくもないし」
ルティリスがうつむけていた顔を跳ね上げ、当惑した表情で事務員を見つめ、――そして口を開こうとしてまたつぐんでしまった、その様子を見かねて。
「いい加減にしたまえよ。襲撃者を確保し損ねたのは君らの失態だろう?」
結局黙っておれず、彼は口を挟んでしまう。事務員の困惑気な目と少女のすがるような目が同時に向けられ、答えたのは事務員だった。
「それは確かに仰る通りで。しかし……その、身分証を持っていないとなると、いろいろと面倒なんですよねぇ」
「だからって、その聴取の仕方はないだろう。彼女は被害者なんだから護衛をつけてあげて、再襲撃されたら一網打尽にすればいいさ」
「そのためにも、身分証が必要なんですよねぇ」
水掛け論になりそうな予感を覚えて、彼は――ロッシェは一時口をつぐむ。両眼を伏せ数刻
「解った。じゃあ僕が彼女を護衛のついでに聴取して、ついでのついでに身分証を発行してもらってきてあげよう。どうだい、助かるだろう?」
「……はぁ」
台詞内容の割に冷めた顔のロッシェと煮え切らない事務員の反応に、話に置いてけぼりの少女は所在なさげに尾を揺らす。さらに数刻の沈黙が流れ、やにわにロッシェが立ち上がり言った。
「彼女の身柄は僕が引き受ける。保証や賠償が必要なら僕宛に送ってくれて構わないし、襲撃事件の解決に関しても出来る限り善処しよう。……これで、オッケーかい?」
「はぁ、まあ、そう言うことなら……ライヴァン帝国のレジオーラ家宛、で宜しいのですね」
つった眉を寄せ、
「少々不本意だけどね、面倒だからいいよそれで」
「ご協力ありがとうございます」
「あ、あのっ、そんな迷惑を掛けるわけには、」
急展開に茫然としていたルティリスが不意に我を取り戻し、声を上げる。ロッシェは視線を彼女に向け、口元だけで笑った。
「それなら、お嬢さん。素直に僕と一緒に来てくれるかな。ここで押し問答して貴重な時間を浪費できるほど、僕は暇じゃあないからさ」
それは柔らかい口調とは裏腹な凄みのある笑顔で、ルティリスは思わず弾かれるように立ち上がった。彼が早速入り口の方へ歩き出してしまったので、彼女も事務員に一礼してから慌ててその後を追い掛ける。
調書を記入する事務員がああとかううとか唸っている声が聞こえて、迷惑を掛けてしまったという思いに心が重くなったが、だからといってどうすれば良かったのか、今はどんなに考えても解らなかった。
そういえば、昼食を
彼は
背は高く姿勢もいい。短く切られた髪は藍がかった白で、少し癖があるようだ。細いつり目にすっきりとした顔立ちは、同じ部族の大人たちを思わせた。もしくは狼とか。
昼食を奢ってもらえたり、濡れ衣着せられそうになっているところを助けてもらえたり、今日は良く親切を受ける日だ。
何を真剣に考えているのか、眉間にしわを刻んだまま黙々と歩き続けていたロッシェが、不意に立ち止まりルティリスを見る。紺碧の双眸は射抜くような鋭さを持っていて、思わず彼女は姿勢を正した。
「ご
「……ほーちこっか、ですか?」
いきなり難しい単語が飛び出した。意味をとらえきれず聞き返したが、気にしなくていいよと流される。
「僕はロッシェ。君の名前はルティリス、で間違いないかい?」
「はい。ロッシェさん、助けてくださってありがとうございました」
もっと怒っているのかと思ったが、そう言うわけではなかったようだ。胸中で安堵の息を吐きながら、改めてルティリスは彼に深く頭を下げる。
彼は両手を腰に当てて彼女が顔を上げるのを待ってから、どういたしまして、と言って笑った。
「たまたま旧知を訪ねに来ていてね、帰ろうとしていた所に君らの声が。君は帝都に行きたいんだっけ?」
「はい、大切な用事があるんです」
頷くルティリスを見る双眸がわずか、細められる。
「極秘任務かい? もしかして、それで狙われたとか」
「え」
完全に想定外の事を問われて返事に
「任務内容は言えないなら、聞かないけど。その様子だと可能性は高そうだね」
誰にも話してはいけないと言われたことを思い出し、ルティリスは無意識に胸元を手で押さえた。大切なモノだから、
「ふぅん、成程ね。でも、首から提げるってのはセオリー過ぎてバレバレだよって、その人は教えてくれなかったのかい」
「ふぇっ、どうして知ってるんですか!?」
心境をずばり言い当てられて思わずロッシェを凝視すれば、彼は軽く眉を上げ、それから口元だけで薄く笑って言った。
「見れば解るさ」
「……そんな、どうしようっ」
まさか、出会って一時間と経たない相手に見抜かれてしまうとは。そんな自分の不甲斐なさとどうしていいか解らない混乱とが頭の中でぐるぐる渦を巻き、ルティリスはしゅんと
その前に立ってロッシェは大きな溜め息を吐き出す。
「だから、言ったろう。僕が君を護衛しつつ、帝都まで送り届けてあげるよ」
「でも、ご迷惑じゃないですか?」
「僕もその近くで人と会う約束をしているから、ついでにね」
ついでと言うには大仕事に思えることを事もなげに言ってのけ、彼は首を傾けてルティリスを見る。どうだい、とその瞳が問うていた。
「ありがとうございます。とても、助かります」
「オッケー。じゃあ、とりあえずどうしようかな。君、野宿は平気かい?」
村ではよく、天気のいい日は戸外で寝たり森で昼寝をしたりしていた。村やユヴィラの森ほど安全ではないにしろ、別に野宿は苦手ではない。
「はい、わたしキツネなので、慣れてます」
「じゃあ、それで。また襲撃があるとして、宿で騒動になると厄介だからね」
さり気なく告げられた危惧に再び不安が
応じてぺたりと下がった尾と耳が
「心配しなくていいよ。大丈夫、僕が護ってあげるからさ」
ロッシェはルティリスの
「君が撃退できる程度の相手なら、問題ないよ。こう見えて僕、結構強いんだ」
ロッシェのその台詞は誇張などでなく、真実だった。野宿のため入った夜の森、彼はそれを最悪の形で
〝極秘任務〟の内容を問い
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