13.岩山の画廊
13-1 未明の襲撃
深い闇の底に落ちていた意識が、カチリという金属音を聞く。ふっと引き上げられるように覚醒し、薄く目を開けると、自分を抱き込む大きな手が見えた。
「……?」
声より吐息に近い囁きが、静かに、と耳をくすぐる。尋常ならざる雰囲気に、アルエスは瞳だけ動かして真上の
「しつこいハイエナさ。心配しなくていいよ」
彼は薄く笑ってそう言うと、アルエスを抱えたまま上体を起こした。上掛けに隠された右の手先に、剣の柄がちらりと覗く。
辺りは薄暗く、暖炉の火は消えていた。アルエスの耳には何も聞こえないが、氷月は無言でまっすぐ扉の方を見つめている。
「アルエス」
身体に回されていた左腕が離れ、ひやりとした空気が肌を撫でた。声を出して返事をしていいか解らず、アルエスは息を殺して氷月を見上げる。
彼は一瞬だけこちらを見、剣を持つ右手を上掛けから引き抜いた。
「属性相性から言えば、僕らは多少不利だ。だから、」
ガツン、と派手に何かが外れる音。
廊下に響いた悲鳴みたいな大声に、氷月はくすりと笑う。
「絶対に離れちゃ駄目だよ」
「てめぇ罠張りやがったな!」
背側にアルエスを庇うようにして、氷月はベッドに座ったまま踏み込んできた侵入者を見る。光量の少なさにはっきりとは見えないが、声の主は昼に自分を殺そうとした
「余所者が宿に泊まる時の常識さ。何の用件だい?」
彼らは、仕切りからこっちへ来ようとしない。氷月も、その場を動かない。
「その娘は俺の獲物だ、返せ」
「欲しければ、力尽くで奪ってみたまえよ。それがルールだろう?」
ぐ、と彼らが言葉に詰まった。不穏な空気が張りつめる中、氷月が剣を鞘から抜いて立ち上がる。
刀身が湾曲した細身の
「大方、夜陰に乗じ
氷月の口調は子どもに語りかけるように優しく穏やかなのに、アルエスは身震いが止まらない。姿勢よく立つ長身の背中に、今はきっちり束ねられた長い後ろ髪。
獣の尾のようなそれに、狼の姿を持つ
「う、煩ぇ! てめぇみたいな
「人の安眠を妨害しておいて、偉そうだなぁ君。無駄吠えしてないで帰りたまえよ。今なら、見逃してあげるからさ」
「人を
憤りをあらわに怒声を上げた男が、間髪入れずに
二人を捕らえようと床から湧いた影の手が、触れる直前で霧散した。
「……え?」
「な!?」
驚愕の声は期せずして、アルエスと
氷月だけが、悠然と笑う。
「あぁ、実はね。僕には魔法が効かないんだ」
意味が解らず、アルエスは茫然と氷月を見上げた。
「く、……ンな馬鹿な話があるかァっ!」
怒声に混じった鈍い金属音。誰かが剣を抜いたらしい。寒気がますますひどくなって、無意識に襟をかき合わせた。氷月は動じた様子もない。
「こっち来たら殺すよ?」
その一言が、向こうの動きを凍らせる。アルエスは恐る恐る、振り返る気配のない背中を見上げた。彼の中には憤りも高揚もなく、ただただ透明に冷えた殺意のみ。
――この身震いの正体は寒さではなく、戦慄だ。
怖い、と思った。
岩山の洞窟に入った時に感じたひどい寒さと、今の寒気はよく似ている。
精霊の同調。
精霊に愛された魂、――そんな知識が脳裏を過ぎった。
「離れるな」
低く、叱咤するような氷月の声にはっとした。自分は無意識に、彼の傍から後退しようとしていたらしい。息を飲んで見上げたら、彼は前を見たまま続けた。
「君にご執心のようだね。後の憂いを断つためには口を塞いだ方が楽なんだけど。こいつら、殺してもいいかい?」
「駄目、って言ってもいいんですか?」
仕切りの向こう、小声で言い合う気配がする。作戦会議か仲間割れか。いずれにしてもあちらは多勢、氷月だって、自身すら守れない者を庇いつつ戦うのは想像以上に難しいだろう。まして、手加減などしている余裕はないはずだ。
それでも怯える自分にそんなことを聞いてくるのは、彼の、気遣いだと解った。
「生かして戻せば、手勢増やしてまた来ると思うけど」
一息ついて、続けた言葉に笑いが混じる。
「君と、僕を殺しに、ね」
たぶん、きっと。自分は彼を巻き込んでしまったのだ。この島における力関係は解らないが、氷月は間違いなく強い。そして、彼を目障りに思っている者も多いのだろう。
宿に来た時から彼はこの襲撃を想定していたに違いない。
物わかりのよい子どものように全部を彼に任せれば、彼としては楽だろうと解る。ひとごろしが良くないとか、そんな道理で片付くことばかりじゃないことくらい、長く旅を続けてきたから解っている。
でも、アルエスは頷けなかった。
それが例え、自分と彼をますます追い込むことになるのだとしても。
「殺しちゃ、駄目っ」
哀願するような声になった気がした。この状況でそんな無茶を言ってはいけないと、頭では解っていた。でも、どうしても殺さないで欲しくて。
(だって、ルベルちゃんが)
「――伏せろ!」
唐突に振り向いた氷月が叫んだのと、いきなり後ろから首に指が絡みついたのとは、ほぼ同時。首筋に鈍い痛みが走り、耳をつんざくような絶叫が聴覚を直撃した。
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