5-6 それが貴女の願いだから


「えっ? あ、あぁコレ」


 一瞬、心臓が冷えた。努めて冷静を装いつつ顔を上げる。あざとは、左脚の大腿だいたい上部にある傷痕きずあとのことだとすぐに分かった。


「あ、いや。言いたくないなら聞かないから言わないでくれ」


 焦ったようなリンドの声に彼女の気遣いがにじむ。アルエスは、とぷんと湯中にあごまで沈んで、視線を上向けた。


「ボクのお父さんは人間フェルヴァーで……、ボク、小さい頃は人間フェルヴァーの国で育ったんだー……」


 この世界の民は種族ごとに寿命の長さが異なる。ゆえに創世主は、愛し合う者が伴侶と同じ種族に変化できる取り決めを設けた。しかし中には、種族変化を望まぬ者もいる。アルエスの父はそうだった。

 鱗族シェルクの成長速度は遅い。人間フェルヴァーの五倍の時間をかけて成長する。父が寿命を終えるまで、母は父と一緒に人間フェルヴァーの国――陸上で生活することを選んだ。当然、産まれたばかりのアルエスも共に。

 アルエスが今のルベルくらいの時に父は亡くなり、母は娘を連れて鱗族シェルクの国へ戻ることにした。しかし、そこで直面したのは、辛い現実。


「小さい頃に陸で育ったからかな、ボク、……脚を鱗族シェルクの尾に変えるコトが出来なくって」


 ひどい差別や迫害があったわけでは、ない。それでも、鱗族シェルクの社会でやはりそれは異端だった。記憶の奥に押し込めて隠した、見えない心の傷跡。


「半端モノのボクを、お母さんはいつも守ってくれたケド。ボクはそれが辛くて、……こんな脚、切り落としてしまおうって思ったことが、あったの」


 黙って真剣に聞いていたリンドが、息を飲んだのが分かる。

 自分ごときの腕力では当然ながら無理だった。母が見つけて助けてくれなかったら、失血のショックで死んでいたかもしれない、そんな苦い想い出。母の癒し魔法をもってしても、傷痕は完全には消えなかった。――それで良かったと思う。

 本当に痛かったのは開いた傷ではなく、涙を流して自分を抱きしめる母の姿だった。自分の軽はずみな行動で母を傷つけたのが辛くて、もう二度とこんな愚かなことを繰り返すまいと、心に誓った。


「今でもまだ、ボクは完全な鱗族シェルクの姿になることができないんだけど。でも自分を傷つけるのは、ボクを愛してくれたお母さんやお父さん、仲間たちの気持ちを無にするコトになるから」


 今届かないモノを嘆いて、立ちすくむのは嫌だ。


「ボクは、生きて、たくさんのコトを学んで、ヒトを愛して、……いつか絶対、立派な鱗族シェルクになってキレイな魚の尾に変える仕方を思い出すの」


 えへ、と笑ったアルエスのまなじりから、ひと欠片の涙が落ちて真珠に変わり、湯中に沈んでいった。リンドの目にも、涙がいっぱいに溜まっている。


「アルエスは、強いのだな」

「そんなことないよっ、……きっとみんな、同じだよ」


 うずくまって泣いていても、過去は変わらないし欲しいモノが落ちてくるわけじゃない。

 きっと――、

 ルベルも同じなんだなと、不意に思った。





 照れたり暴れたり泣いたりいたせいで、すっかりのぼせて出てきたら、待ち構えていた女官たちにタオルでぐるぐる巻きにされ、抵抗する間もなく鏡台の前に連れて行かれた。

 細工物を造るみたいに滑らかな指の動きが自分の髪を結い上げてゆくのを、なんだか茫然ぼうぜんとアルエスは見ていた。ぼーっとしていたら今度は、顔にいろいろ塗られて化粧をされた。

 手際の良さに自分の顔ながら見入ってしまい、はたと気づけば鏡の中には見たことのない淑女しゅくじょが。


「うふ、アルエス様は肌も白くてお綺麗で、旅しているようには思えませんわね」


 女官は妙に嬉しそうだ。


「えぇ……でもっ、お化粧して着飾っても、中身まで変わるワケじゃないですしっ」


 気恥ずかしさから意味のないことを口走ったら、くすくすと笑われた。


「あら、中身なんて女の子は誰でも、そんなものですわよ」


 さらっと流されて、どうもこうもない。鏡に映っているのは自分の顔なのに、自分の心臓に良くないとはどうしたものか。


「他国来賓らいひんの訪れるパーティでお披露目ひろめするわけではありませんし。作法さほうなど気になさらず、普段のままで楽しんでくださいませね」


 ふんわりとしたシフォン生地の淡いアクアブルーのミディアムドレスを着せられ、胸もとや腰回りを少しだけ直された。緊張も照れも峠を通り越し、ドキドキは相変わらずだったが、じんわり染みてきたのは嬉しさに似た感情。


「わぁ……、素敵なドレス」


 なんだかもう、くらくらする。

 綺麗に髪を結ってもらって、宝石とお化粧で飾られて。

 こんな素敵なドレスを着せてもらって。


「女の子なのですもの。そういう機会に恵まれたなら、遠慮せずめいっぱいお洒落しゃれをしてもバチは当たりませんでしょう?」


 言われた言葉が嬉しくて、アルエスは頷いた。鏡の前でくるりと回ってみたら、ドレスのすそが花びらみたいにふわりとひるがえる。


「へへっ、ありがとうございますっ」

「礼ほどの事など何も。これくらい大したことではありませんもの。ですからどうぞ、リンド様と仲良くしてくださいませね」


 柔らかな慈しみの込められた言葉だった。アルエスは、心から頷く。


「はい、ボクこそ仲良くさせてくださいっ」


 リンドのまっすぐさを、今は心から愛おしいと思っている。そのリンドを育んだティスティルいう国も。自分はきっと、好きになれると思った。




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