第38話
事務所のドアを開けて照明を点けると、いきなりバタやんが甲高い声で、
「クサイ、クサイ」
と悲鳴のような声で捲くし立てる。
「ごめんね、バタやん。いまラーメン食べてきたの」
清架は宥めるようにいいながら、就寝用の黒い布をケージにかけてやる。
「清架、風呂に入って先に休んだらいい」
玄関のドアをロックした良壱はデスクに坐りながらいった。
「うん」
清架は、これから良壱のすることがわかっているので、短く返事をして二階への階段を静かに昇っていった。
ひとり事務所に残った良壱は、瞑目してこれからのことを考えた。やはりはじめての試みとなるペットとの面会が不安でならない。ひとつ慰めとしてあるのは、この仕事をはじめたときのことを考えると、すべてが未経験のことだった。それにもかかわらずいまこれだけ依頼をこなしてきたというわずかな自身が救いだった。
「初心に戻れ」という言葉が脳裏に浮かんだ良壱は、小さなダンボール箱を手にすると、ゆっくり小部屋のドアを開けた。
手探りでLEDスタンドのスイッチを入れる。わずかな灯りだが狭いスペースだけに眩いほど明るくなる。小さなデスクにダンボール箱を置き、しばらく正対したあとスタンドを消した。そして強く瞑目して神経を集中させる。
すると、いつものように闇と光が錯綜した景色のなかに吸い込まれて行った。
ゆっくりと目を開けると、そこはこれまで依頼では一度も訪れたことのない、一面菜の花のような愛らしくて黄色い花が咲き誇った花畑で、その向こうには潺々(せんせん)と流れる小川がSの字を描いている。空はどこまでも透きとおるほど青かった。
そこにも木製のベンチが一基置いてある。良壱は膝ほど黄色い花を押し分けるようにしずしずと近づいて行った。どうしたらいいのか見当のつかない良壱は、ベンチに腰を降ろしてあたりを見回す。そこはただ黄色い花がそよ風に揺れているだけだった。
「モモちゃん、モモちゃん」
とりあえず二回犬の名前を呼んでみる。しばらく待ったが何の変化もない。この方法では接触することができないのかもしれない、と不安な気持のままもう一度名前を呼んでみた。やはりまったく気配というものを感じなかった。諦めて他の方法をと思い、膝に載せてたダンボール箱をベンチに置いたときだった。カサッと乾いた音が聞こえた。良壱は反射的に音のしたほうに目を向ける。すると、花の間から小さな犬の顔が見えた。ほっとしてベンチから立ち上がろうとしたとき、その犬が写真と違うことに気づいた。小首を傾げながらもう一度しげしげと犬の顔をそして姿を見た。
毛の色はチョコレートブラウンで、足が短く、そして鼻の長いミニチュアダックスだった。マルチーズのモモちゃんとは別の犬だ。
良壱はどうしたものか思案しながらとりあえずダックスに近づく。ダックスは円らな黒い瞳で何かいいたげに良壱を見上げる。驚かせないようにゆっくりと犬に近づくと、そっと頭を撫でてやった。大人しい犬だった。耳のあたりを撫でていたとき、赤い革製の首輪が触れた。何気なく首輪に目をやったとき、油性ペンで名前が書いてあるのを見つけた。
ダックスを手前に引き寄せてその文字を読んでみると、そこには「桃」と漢字で書かれてあった。それを見た良壱はそこでようやく納得することができた。つまり「モモ」と「桃」の違いだったのだ。ただ名前を呼んだだけなので、犬にしてみれば自分の名前に反応しただけのことだった。
良壱はダックスの背中を撫でながらもう一度名前を呼ぶ。今度はこの方法で姿を現してくれる自信があった。
ややあって、黄色い花が左右に大きく揺れたとたん、今度は写真と同じ白いマルチーズが首を傾げた格好で姿を現した。
「モモちゃん」
良壱は手のひらを差し出しながら名前を呼んだ。モモちゃんは烈しく尻尾を振りながら近づいて来た。はじめて見る人間への警戒心を解くために姿勢を低くして高い声で名前を連呼する。ところがモモちゃんはトコトコと良壱に近づき、指し出している右手の匂いを嗅いだあと、ペロペロと小さな舌で舐めはじめたのです。人懐こい犬だなとモモちゃんのするがままにさせていると、指先だけでなく手のひらから手の甲まで満遍なく舐め回した。
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