第36話

「だってしょうがないでしょ。あの人あんなにモモちゃんにドレスを着せたがってるんだから。心配しなくても良壱ならできるって。これまで何十件とこなしてるんだから、もっと自信を持ってよ」

「ったく無責任なんだから」

 ぷいと横を向いたそのとき、女性がキッチンから戻って来た。

「ついでにこれも一緒に届けて頂きたいわ」女性がテーブルの上に置いたものは、チキンのジャーキーが入ったビニール袋だった。

「これモモちゃんが大好きだったの。三、四年前のことだったかしら、夕方近くになってモモちゃんと散歩に出かけたときのこと、突然モモちゃんの首輪が外れてしまって、自由になったモモちゃんは私のほうを振り返ることもなくまっしぐらに走りだしてしまったんです。いくら小形犬というでも、とうてい私がかなうスピードじゃなかったわ。何度もモモちゃんの名前を呼んでも一度走りだしてしまったものは停めることができなかった。そのうちあたりは段々暗くなるし、どうしたらいいのか途方に暮れていたとき、お散歩バッグのなかにジャーキーが入ってるのを思い出したんです。袋から出したジャーキーを小さくちぎって、道路に等間隔に置いてみたんです。頼りはこれしかなかったんです。

 どうでしょう、三十分ほど公園のベンチで待っていたでしょうか、これ以上はと諦めかけたとき、ふいにモモちゃんがジャーキーを拾いながら姿を見せたんです。そのとき私はモモちゃんを抱きしめて大泣きしてしまいました。あのとき以来一度もこのジャーキーを切らしたことがないんですよ。それがあったもんだから、ジャーキーを置いておけばひょっとしてモモちゃんが帰ってくるかもと思ったんです。バカですよね、ほほほ」

 女性は引き受けてもらえることに安堵したのか、来たときとはずいぶん違った表情になって話した。

「そうだったんですか。でも戻って来てくれてよかったですね。一度自由を味わってしまうとなかなか戻らないって聞きますから。モモちゃんは余程このジャーキーが好きだったんですね。じゃあモモちゃんの大好物も一緒にお届けします」

「よろしくね」

 女性は目を細めて何度も頭を下げた。

 その後もモモちゃんとのエピソードを散々聞かされた良壱たちは、モモちゃんの写真を一枚預かって相田家を辞去した。


「バタやん、ただいま。いま帰ったわ」

 事務所に戻った清架は、真っ先にバタやんのケージに駆け寄り声をかけた。

「オカエリ。オカエリ」

 バタやんはケージの端ににじり寄ると、覗き込むような格好になって返す。

「俺には悪たれ口をたたくけど、どういうわけか清架にはいい子ぶるんだよな。ひょっとしてこいつはオスなんじゃないか」

 良壱はいま依頼された案件を整理しながらつぶやくようにいう。

「オスかメスかはわからないけど、この子はメッチャ頭がいいから、ただ餌をあげるだけじゃだめなのよ。ちゃんと優しく接してあげないとね」

「ふうん、そんなもんかね。ところで、清架は相田さんの依頼を気安く請け負ったけど、これまでペットの面会なんてしたことないから、どうなるか心配だ」

 良壱は強く目を瞑って頭を何度も左右に振った。

「大丈夫よ、良壱には桁外れの能力があるんだから」

 清架は屈託がないのか、それとも良壱の背中を押しているのか理解できない言い方をする。

「清架はいつもそうやって簡単に物事を考える。本当に特な性格だよな」

「うん、私はいつもプラス思考よ。だって、やれないやらないっていってたら何もはじまらないよ。そう思わない?」

「まあな」良壱は妙に納得してしまった。

 夕方の五時になろうとしたとき、

「ねえ、きょうの晩ごはん何食べる? 私なんか名古屋らしいものが食べたいわ」

 ケージの下に散らかったバタやんの食べ散らかしを掃き寄せながらいった。

「それはいいけど、家で心配してるんじゃないのか?」

 良壱は家出の娘でも諭すような口振りでいう。良壱は清架がここに来てからの数日、ずっとそのことが気になっている。

「大丈夫だって。私だってもう子供じゃないんだから。いつお嫁に行ってもおかしくない歳なんだからね。親だって煩わしい娘がいなくなって清々してるに違いないわ。そうじゃなかったらこっちに来るとき引き止めたはずよ。名古屋に行くっていったら何ていったと思う? 『気をつけてね』ってひと言いっただけ。そんなんで娘の心配なんてしてると思う?」

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