第35話

 家のなかに一歩足を踏み入れた瞬間、玄関のインテリアと微かに漂う芳香で女性が独り暮らしであることを感じ取った。

 通された部屋は十四帖ほどのリビングだった。良壱と清架はベージュ色の革製ソファに腰を降ろした。そのとき良壱は、清架を連れて来たことを正解だった思った。だいたいかかって来る電話というのは年配の人からのが多い。この女性のようにまだ若い部類に入る人からはなかったから、いつものように自分ひとりで訪ねていたらあたふたしていたに違いない。

「あまりおいしくないですけど、どうぞ」

 依頼人の女性は、お盆のコーヒーカップをリビングのテーブルに置いた。

「すいません」

 早く話をすませて帰りたかった良壱だが、暖かそうな湯気の立ち昇る褐色の飲み物には勝てなかった。

 向かいのソファに坐った女性は、良壱たちと同じようにコーヒーカップを手にしながら、

「ごめんなさいね、このあと予定が入ってるものだから、無理をいって」

「いえ、私どもは仕事ですから、そんなお気をお遣いにならないでください」

 カップを置いた清架が笑顔を見せながら女性にいった。

「ちょっと他所からお宅のことを聞いたのよ。それでお願いしたいことがあってね」

「はい、どのようなことでしょう?」清架が訊ねる。

「お願いしたいのは、うちのモモちゃんのことなんです」

「モモちゃんですか?」

 良壱は清架にまかせる腹づもりなのか、さっきからひと言も口を開いてない。

「そうです。あそこにあるのがモモちゃんの写真なのよ」

 女性が指差すほうに視線を移すと、サイドボードの上にいくつもフォトスタンドが立てられてあった。そこにはあどけない瞳でカメラを見詰める、真っ白なマルチーズが写されていた。

「はあはあ、あれは相田さんの愛犬なんですね? 何て可愛らしいんでしょう」

 どうやら女性同士となると、警戒という壁が自然消滅してしまうのだろうか。

「モモちゃんはね、八年間目のなかに入れても痛くないくらい可愛がってたんだけど、十日ほど前に突然亡くなってしまったの。もともと心臓が丈夫じゃなかったから余計に可哀そうで……」

 女性はテーブルの端にあった箱からティッシュを引き抜くと、溢れる両目の涙を押えながら話をつづけた。

「モモちゃんは私が外から戻ると、いつも玄関先まで迎に来るのに、その日は姿を見せないのでおかしいなと思いながらリビングに行くと、このシャギーの上で眠るようにして亡くなっていたの」

「そうなんですか。それはお寂しいですね」

 女性同士の遣り取りを横で聞いてた良壱は、ふと嫌な思いが脳裏を過ぎった。

「それで、お宅にお願いしたいのは、これなんです」

 女性は席を立つと、部屋の隅から白い箱を手にして戻って来た。

「これは……」

 箱を覗き込んだ清架がいいかけて女性の顔を見る。

「これはモモちゃんに着せようと思って買ったドレスです」

 ピンクに赤いリボンのついたのと、紺地に白の水玉をあしらった二着の小さなドレスを広げて見せた。

「わあッ、可愛いい。すごく可愛いです」

 清架は、仕事を忘れてしまっているのではないかと疑いたくなるくらいテンションが上がっている。良壱は左腕で清架を突っついて促す。

「どうしてもモモちゃんにこれを着てもらいたくて、それでお宅にお願いしようと思ったんです。だめでしょうか?」

 女性は胸のところで祈るように指を組んで懇願した。

「大丈夫です。ぜひ引き受けさせて頂きます。ねえ」

 清架は、隣りで黙ってコーヒーを口にしながら話を聞いている良壱に同意を求める。

「ああ、ぜひ」

 良壱は渋々返事をする。

「よかった。もし断わられでもしたらどうしようかと思ってました。それと……」

 そういいながら女性はふたたび席を離れてキッチンのほうに向かった。

「どうすんだよォ、これまでペットに会いに行くなんてやったことないぜ」

 良壱は清架の耳もとで囁くようにいった。

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