第14話

 いまから思うと、まあお互いに若かったから、怖いもの知らずだったんでしょう。だがそんなことをいつまでも隠しておけるはずもなく、あるとき思い切って正直に話したんです。そのときの私は、大きな声で人にいえるような仕事でもないですから、もし家内が別れるといい出したらそれはそれで仕方のないことだと腹を括ってました。でも家内のいった言葉は私が想像していたのとはまったく違ってました。家内は『どこまでもついて行く』といってくれたんです。恥ずかしい話、私は家内の前で涙を滲ませました。それまでそんなこと一度もなかったのに。

 以来家内を正式な妻として籍を入れ、ふたりで生活をするようになったのですが、残念なことに子供を授かることはありませんでした。男というものは愚かなもので、あれだけ私を信じてついて来てくれた女房がいながら、他の女に目が行くんです。そしてその女が飽きたらまた別の女へと。家内はおそらくそのことを知っていたに違いありません。でも私にはひと言もいわなかった」

 吉野は滔々と奥さんとの馴れ初めを話したあと、胸のなかが晴れたのか、袂からタバコの箱を取り出した。すかさず黒服が横からライターで火を点ける。吉野は目を瞑りながら深く煙を吸い込んだ。そしてゆっくりと吐き出した。良壱はただその光景をソファの端に坐って黙って見ていた。

 吉野は、ガラスの灰皿にタバコを圧し付けると、

「まあ、本当なら私のほうが先にあの世に行くところなのだろうけど、運が強かったんだろうね。いまだにこうして元気にしている。ひょっとしてこれは自分の人生を悔悟するように神様が試練を与えたのかもしれない。

 家内が死んでから気がついたんだが、あいつには苦労ばかりかけて何もしてやることができなかった。それでせめてもの罪滅ぼしの意味でこれを届けてやって欲しいんです」

 吉野はそういって桐箱の蓋をして良壱のほうへ押し出した。

「わかりました。ではここに必要なことをご記入ください」

 良壱はいつもどおり吉野の前に書類を差し出していった。

 吉野は、メガネケースから縁なしの老眼鏡を取り出すと、書類に目をとおし、良壱が渡したボールペンで名前と住所それに品名を読めないような達筆で記した。

「ありがとうございます。では一両日中にお届けいたします」

 良壱は赤珊瑚の入った箱と奥さんの写真を書類カバンにしまうと、丁寧にお辞儀をして吉野邸をあとにした。

 良壱はようやく開放されたという安堵から、軽トラックのなかで何度も深呼吸をし、少しでの早くこの仕事から手を離したいと思った。

「リョウイチ、オカエリ」

 いつもならバタやんの声に苛立ってケージを蹴飛ばしたくなる良壱だが、なぜかきょうに限ってはダミ声ながらほっとするのだった。


 いつもの定食屋でビールを飲みながらトンカツ定食で夕食をすませた良壱は、わずかな事務整理を片づけてからおもむろに二階に上がった。畳に大の字になり、目を瞑ると自然ときょうあったことが思い出された。

 いま思い出しても、あの応接間のじわじわとにじり寄って来る独特の空気に馴染むことはできない。それと、吉野という人物からは人を寄せ付けない特別な何かを感じ取った。できればあの家に行くのはこれっきりにしたいと思った。

 良壱はがばっと身を起こすと、足音を立てて階下に降りた。そしてあの桐箱の入ったダンボール箱を手もとに引き寄せ、中身を確認したあと静かに例の小部屋のドアを開けた。

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