第15話

 ――

 良壱が着いた場所は、この前と違って山水画に出て来るような山々が見える崖の上だった。見上げると鈍色の雲が一面を被い、遥かな山は深い緑が絹布で覆われていた。

 見回すと、花畑にあったのと同じベンチが大きな杉の木の下に置かれてあった。足もとを確認するかのようにゆっくりと歩を進めベンチまで行くと、手にしたダンボール箱を抱えてそっとベンチに坐った。目を瞑って時を待つ。しばらくしてそっと目を開けると、果たしてベンチの反対端に、萌黄色の着物に白の帯を締め、臙脂色帯締めをした美しい女性が坐っていた。良壱は遠慮がちに声をかける。

「あのう……」

「そうです、私が吉野の家内でございます」

 女性は全部話す前に自己紹介をした。

「じつは、吉野さんから奥さんへと、これを預かって来たんです」

 ダンボールの箱から桐箱を取り出して奥さんに渡す。中身を知っている良壱は、早く開けてみて欲しかった。この品物ばかりは絶対に喜んでもらえる自身があった、自分がプレゼントするわけでもないのに。

「何でしょう?」

 奥さんは怪訝そうな顔で桐箱を眺めている。

「何でも赤珊瑚の帯留めだそうで……」

 どこまで話したらいいのか判断できない良壱は困った顔でいう。

「赤珊瑚の帯留め?」

 またしても怪訝そうな顔をして、今度は良壱の顔を見る。

「は、はい」

「あら、素敵な帯留めだこと」

 奥さんは蓋を開けて赤い色を見たとたん、目を細めながら手に取った。

「とても素敵なプレゼントだと思います」

「ええ。これを主人が私に?」

「そうです。間違いなく奥さんにです」

 良壱は高価な依頼品を渡すことができたからか、何度も頷いて奥さんの横顔を見た。

「こんな高価なものを……」

 奥さんはそういいながら帯留めを箱に戻した。そしてつづける。

「主人は元気にしていたでしょうか? 先に私がこちらに来てしまったので、ずいぶん心配していたんです」

「ええ、とてもお元気そうでしたよ」

 良壱は一回、それも一時間足らずしか吉野の顔を見てないが、ここはビジネス会話でかわすことにしたようだ。

「それはよかったです。あの人はもともと躰の丈夫なほうじゃなかったんですよ。いまでは歳もとって昔のようにはいかなくなったんですけど、お酒は浴びるように飲むし、タバコだって一日に六、七十本吸うものだから、あるとき医者に死の宣告を受けたくらいなんです。

 でも人間ってわからないものですね。そんな病気のデパートのような主人が生き残って、神経質なくらい躰に気遣っていた私がガンで先に死んでしまうんですから」

 奥さんは手にあったハンカチでそっと目頭を押えた。

「残念なことです」

 良壱は独身なので夫婦の生活というものがまったくわからなかったが、ふたりの話を照合する限りでは、その言葉が最適だと思った。

「……こんなことを初対面のあなたに話すのはお門違いなんでしょうけど、あの人には苦労をかけさせられました。好きになってしまった自分のせいなんでしょけど、それにしてもあの世界に足を踏み入れてしまったことは、世間知らず以外の何ものでもありません。

 他の人は知りませんが、あの人に関していうと、女道楽が烈しくて何度も女房の私が仲裁に入ったことがあります。私だって普通の女ですから、人並みに嫉妬もしますよ。でも組長の女房という手前若い衆の前でめそめそ泣いてなんかいられません。泣くのは夜になってからで、布団のなかで横を向いてさめざめと泣いたことが幾夜もありました。

 あるときから私は考え方を変えました。おそらく私が文句をいったら、あの人の性格からして、間違いなく離縁されるに違いないと思いました。そこで、これだけ女の人に好かれるのは、主人に魅力があるからだ。現にこの私だってそこに惚れていままで一緒に暮らしてきたじゃないの。私の目に狂いはなかったわ……と」

 奥さんは、これまでの生活をひとつひとつ回顧するように話した。

「なるほど」

 良壱は奥さんの寛大さにつくづく感心するのだった。

「そんな主人が、死んだ私にこんな高価な帯留めをプレゼントしてくれるなんて、やはり私の択んだだけのことはあるわ。でも、人間って悲しいものね。もう一度主人と一緒に暮らしたいと思っても、かなえられないんですから……」

 大粒の涙を流す横顔を見て、良壱はもらい泣きするのだった。

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