楔
きし あきら
楔
糸の好いひとが彼岸へと渡ったのは、息も
形式的な弔事をやり過ごすにつけ、糸はおのれの肉体が、いまだかたちを
糸のようすを見かねた母や諸々の人間たちは、数ヶ月を経ぬうちから新しい縁談をすすめるようになった。ともかくこのままでは危ういので、糸を此岸へと
その頃から糸は目を
季節が一巡するかせぬかのうちに、彼女の心身は相反するおのれの激情によってすり減らされた。そうして以前とは決定的に違ってきた。いまでは縁談よりも療養が多く案内され、
それら外界の流れと、糸の感ずる流れとはまったく噛みあうことがなかった。彼女は朝夜はおろか、おのれがいつ目覚め、いつ眠っているのかすら記憶できなくなった。ただここにまとめられた血肉によって
母の嘆く声を聞いたかもしれなかった。ほかの人間が、恩知らずと吐いたのを聞いたかもしれなかった。糸がおのれの思考を取り戻そうとするときに必ず思い出されるそれらのことが、もろもろをいっそう耐えがたくした。おのれと愛しいひととのあいだに起こった別離が、押しつけがましい感情や思惑やの屑籠として扱われているという考えが頭から離れなくなった。
あるとき、暗い
糸は夜具のうえで息をのんだ。それはかつて愛しい手が戯れによこした、
それは糸にとっては、おのれのなかに残っていたわずかな記憶が外界に結晶したものと言ってよかった。けれども細った指で
湧きあがる震えとともに見開かれた目が部屋に落ちる明かりをようやくたどりだした。引かれかけた窓布の隙間から夜が淡く差しこんでいた。
彼女は体じゅうが
外は暗く、そして
糸は窓辺を離れ、
過ぎる墓地も気にはかからなかった。肉体がくずれほぐれて土へ
歩くべき道はこれまでを生きた場所から遠く離れ、どこまでも続いた。そこに愛しいひととの思い出はなかったが、糸は至極の満足を覚えた。ふたりで新しい旅路に立ったのだという気さえした。いまや、なにものも関われぬ正真の想いが、なにごともないところから果てなく
楔 きし あきら @hypast
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます