きし あきら

 糸の好いひとが彼岸へと渡ったのは、息もこおる日のことだった。狭いへやで石積みの暖炉が燃えていた。薪のはぜる音がひどく乾いて聞こえ、赤い炎が、もう動かぬひとの影をゆらした。

 形式的な弔事をやり過ごすにつけ、糸はおのれの肉体が、いまだかたちをとどめ、動き、続こうとしていることに不思議を感じた。彼女は立ちつくしたままの魂を、あの日、かのかたわらに置いてきてしまったに違いなかった。

 糸のようすを見かねた母や諸々の人間たちは、数ヶ月を経ぬうちから新しい縁談をすすめるようになった。ともかくこのままでは危ういので、糸を此岸へとめおくくさびが必要だと考えたらしかった。

 その頃から糸は目をらすようになった。喪失のためではなく怒りと反抗のために、夜具を掻きむしり獣のごとくえた。しかし束の間には、それらの押しつけがましさが人間の生来なのだと理解されることもないではなかった。そういうとき、糸の犬歯は微笑みのなかにひそめられ、すべてを許してやりたい気持ちがあふれるのだった。


 季節が一巡するかせぬかのうちに、彼女の心身は相反するおのれの激情によってすり減らされた。そうして以前とは決定的に違ってきた。いまでは縁談よりも療養が多く案内され、敬虔けいけんな祈りの言葉さえ戸口に届けられるのだった。

 それら外界の流れと、糸の感ずる流れとはまったく噛みあうことがなかった。彼女は朝夜はおろか、おのれがいつ目覚め、いつ眠っているのかすら記憶できなくなった。ただここにまとめられた血肉によってとどまる我のれるままにあった。

 母の嘆く声を聞いたかもしれなかった。ほかの人間が、恩知らずと吐いたのを聞いたかもしれなかった。糸がおのれの思考を取り戻そうとするときに必ず思い出されるそれらのことが、もろもろをいっそう耐えがたくした。おのれと愛しいひととのあいだに起こった別離が、押しつけがましい感情や思惑やの屑籠として扱われているという考えが頭から離れなくなった。


 あるとき、暗いへやで糸の目に映るものがあった。くたびれた布や破られた紙やの影でぼんやりとひかるのは、どこからか、なにかの明かりを吸っているのだった。見るともなしに見るうちに、それはたしかな輪郭を持ちはじめた。

 糸は夜具のうえで息をのんだ。それはかつて愛しい手が戯れによこした、うすい羽根の一枚だった。あああれはいつだったろうと無意識に伸ばした腕が鈍い痛みをくぐり、触れるに足りぬとわかれば今度こそ、彼女みずから半身をもたげた。

 それは糸にとっては、おのれのなかに残っていたわずかな記憶が外界に結晶したものと言ってよかった。けれども細った指でまみあげても、曖昧な過去のようにこぼれ去ったりはしなかった。かえって久しく触れたものの感覚が呼び水となり、あの日置きざりにした魂と、かの魂とが一緒に流れこんでさえくるようだった。

 湧きあがる震えとともに見開かれた目が部屋に落ちる明かりをようやくたどりだした。引かれかけた窓布の隙間から夜が淡く差しこんでいた。

 彼女は体じゅうがきしむのもかまわず窓辺にった。できうる限りひたいを硝子へと押しつけた。

 外は暗く、そしてまぶしかった。月の見えない代わりに星ぼしがさざめき、夜の青は草の青に落ちてひかっていた。そこに、あの日の寒さはじんもなかった。彼女はうち寄せる痛みの波にさらされながら、いまを思い出そうとした。あれからいくらの日が過ぎたのか、見果てぬ愛しいものを確かめずにはいられなくなった。


 糸は窓辺を離れ、へやを、そして灯りのない家を出た。母のすがたはなかった。つづく道にはだれもいなかった。それが彼女には清々しく受けとめられた。手にした羽根の一枚に、おぼつかない足もとが誘われ軽くなると、彼女は歩きはじめた。

 過ぎる墓地も気にはかからなかった。肉体がくずれほぐれて土へかえろうと取りすがったりはしない。糸はもう、おのれをめおくための肉のくさびなど必要としなかった。

 歩くべき道はこれまでを生きた場所から遠く離れ、どこまでも続いた。そこに愛しいひととの思い出はなかったが、糸は至極の満足を覚えた。ふたりで新しい旅路に立ったのだという気さえした。いまや、なにものも関われぬ正真の想いが、なにごともないところから果てなくすくいあげられてくるのだった。

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きし あきら @hypast

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