第19話 ジュラル熱
山賊オーガヘッドとの戦いを終えた私たちは、あと5日ほどで都トキオに到着するところまで進んでいた。
(このまま行けば、順調に旅は終わるわ……)
そう思っていた私であるが、とんでもないアクシデントが静かに進行していたのだ。
事の発端は昨日立ち寄った小さな町セレンでの些細な出来事であった。不可解なことに、その町は昼間にも関わらず、人っ子一人歩いていなかった。
私は幌馬車の後ろからそっと顔を出し、好奇心を満たすために町の様子を見ていたのだが、ここは様子がおかしかった。なぜなら、時折、道に沿った建物の2階のカーテンが慌てて閉められるのを何度か目撃したからだ。
(何だか、不気味な感じがするわ)
町のメインストリートを馬車で移動中。交差点で停止したときに起こった。突然、ふらふらと痩せた男が近づいてきたのだ。
「旦那、助けてください……」
見上げる男の顔を見て、ガインのおっちゃんと御者のおじいさんは思わず固まった。私もそっと覗き見て、ぎょっと思った。
目が異様なほど充血して、皮膚がどす黒く変色していたからだ。どう見てもただごとではない健康状態である
「は、離せ!」
ズボンの裾をつかまれた御者のハンスさんは、手で払った。だが、その男は両手でハンスさんのズボンを握り、激しい咳をしたのだ。
「ゴホッ、ゴホッ……」
血混じりの激しい咳。ハンスさんもガインのおっちゃんも顔をしかめた。
「これで栄養のあるものでも食べろ」
根は優しいガインのおっちゃん。その痩せた男に銀貨1枚を握らせた。男は咳き込みながら、首を振ったが馬車は無視して先へ進む。
「何ですかね、あの症状……。疫病だと思いますけど」
ハンスさんが男に咳き込まれたズボンを手で払って、再び、馬の手綱を操る。ガインのおっちゃんは、首をかしげている。
「この町の様子からすると、何か嫌な疫病が流行っているに違いない。急いで町を出るぞ」
そういって振り返り、聞き耳を立てていた私に気が付いた。
「こら、ミコト。顔を出すんじゃない!」
私は慌てて顔を引っ込めた。
疫病……。この異世界でも病気はある。魔法はあっても医学は遅れているこの世界。病気の原因が細菌やウィルスのような目に見えない何かが人間の体に入って起こるとまでは考えられていたが、その予防法や治療法は一貫していない。
ケガや病気の症状は治癒魔法によって治るために、医学の発達が遅れているのだ。だが、治癒魔法は完全ではない。
抗生物質のように病気の根源を絶つわけでないから、よほど高度な魔法ではない限り、疫病には効果が薄かった。
この一見、些細な出来事のようであったが、私たち一向にとっては、大変な危機につながることになった。
次の町アーセナルでハンスさんが調子を崩したのだ。そしてガインのおっちゃんも体に異変をきたしたようだ。
「今日は、ここに泊まる。お前らも部屋を取ってやるから、宿屋で休め」
そうガインのおっちゃんは青白い顔でそう私らに命令した。借りた部屋はツインルームの5部屋。
ガインのおっちゃんと御者のハンスさんが同じ部屋。キャサリンとコレットが同室。私とジータが同室だ。
商人見習のライアンは一人で泊まるのは発病していないからだが、ガインのおっちゃんとハンスさんの看病をしていたら、その日の夜にはライアンも体調が悪いと言い始めた。
「これはジェラル熱ですな」
夕方、宿屋に呼ばれた医者はガインのおっちゃんとハンスさんの症状を観察し、いくつか問診をするとため息をつくようにそう診断した。
「ジェラル熱?」
熱にうなされながらも、ガインのおっちゃんはそう聞き返す。医者は消毒液を満たした洗面器で手を洗い、マスクと防護眼鏡で覆われた顔をちらりと部屋のドアに移した。
ドアには様子をうかがおうと私やジータ、キャサリン、コレットのお姉さん2人が耳をそばだている。
「ジェラル熱はこの付近の風土病です。原因は不明。ただ、このアーセナルの町とセレナの町の中間にあるジェラル山に立ち入った人間が罹患すると言い伝えられています」
そう医者は説明した。数日前、その山へ興味本位で入った冒険者の一人がこの病に罹り、セレナの町で流行が始まったらしい。
流行は旅人を通じてこのアーセナルの町にも飛び火しており、患者が日に日に増加しているとこの医者は話した。
「とにかく、この病気には特効薬はありません。対症療法で体の本来持つ力で回復を待つほかありません。抵抗力の強い大人なら致死率は低いですが、老人と子供は注意しないといけません。こちらの老人はそういった意味では、かなり危ないですよ」
隣で寝ているハンスさんは60過ぎの老人だ。高熱でうなされるどころか、意識を失っているようだ。
「回復魔法をかけてくれる神官はこの町にいますか……金ならどれだけかかってもいい」
そうガインのおっちゃんは尋ねたが、医者は首を振った。
「この病気の症状を抑えるには、レベル3以上の治癒魔法が必要です。都ならいざ知らず、この町の規模ではそんな高位な神官様はいらっしゃいません」
医者は効果があまり期待できない薬をテーブルに置いていく。熱さましと痛み止めの薬だ。
「これを2時間おきに服用して、安静にして寝ることです。生きるか死ぬかは神様にゆだねるしかありません」
そう言って医者は帰っていった。ガインのおっちゃんは、私たちに部屋から出ないように固く命じた。特に子供の私とジータは感染したら命が危ない。外部との接触を一切禁じた。
ジェラル熱の症状は、突然の高熱、全身の筋肉痛、咳による呼吸困難などの症状を引き起こし、患者を死に至らしめるというものだ。末期になると皮膚が黒ずんでくる。これは内出血が引き起こされた結果である。
この病気は 症状だけ見るとインフルエンザのようなものだが、病理学が遅れたこの世界では人々にとっては恐怖の病であった。
未知の病気……。
正直、私も怖い。異世界のわけの分からない病気が怖くないわけがない。そもそも、人類の歴史は病気との戦いの歴史でもあるのだ。
フランス人ルイ・パスツールによって発見された細菌による病気の発生メカニズム。ローベルとコッホによる炭疽菌や結核菌の発見、解明と人類は微生物との戦いを始め、ワクチンの発明、抗生物質の発見と病気を克服してきた。
しかし、次々と新しい病気は生まれ、その戦いは終わりが見えない。
「お客さん、正直、病気の方は困ります……」
宿屋の主人はそう苦情に来たが、病気を発症しているガインのおっちゃんに面と向かって言えない。それに町でも流行し始めているから、今更、どうしようのない。
ガインのおっちゃんはまだ症状の軽いライアンに命じて宿泊料の2倍の料金を提示すると、宿屋の主人はそれで渋々と納得して引き下がった。
「ミコト、ジータ……お前たちは部屋でじっとしていろ。絶対に外に出るんじゃないぞ。病気がうつると子供は危険だ」
そうガインのおっちゃんは苦しい呼吸をしながらも私たちを気遣う。これはおっちゃんの生来の優しさでもあるが、高額な値段で買った私らが死んでしまったら、大変な損失であることもある。
特に私は日本円で2000万円の逸材だ。死んでしまったらガインのおっちゃんは、破産してしまうかもしれない。
だが、病気が進行して苦しんでいるガインのおっちゃんやハンスさん、ライアンさんをほっとくわけにはいかない。はじめは年長のキャサリンやコレットが看病にあたっていたが、彼女たちも体調を崩すと、私らが何もしないわけにはいかなかった。
「ジータ、マスクをしっかりして、手洗いは頻繁にすること」
私はそうジータに説明して、一緒に看護を始めた。私の初歩の医学知識でも、病気の感染に関しては効果が高い。それでガインのおっちゃんたちが発病してから3日間、私とジータは宿屋が用意したおかゆや水を運んで飲ませたり、冷やしたタオルを頭に置いたりと看病を始めた。
しかし、その2日後、事態は深刻になる。
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