第4話 あなた


ちょっとした言い合いの場面に出くわしてしまいました。


根っからの野次馬根性が備わっている、自称江戸っ子の私ですから、なんだ、なんだと人の中に分け入っていきました。


結構なお年を召した方と、若い男性が言い合っています。


いや、つくばの駅でのことなんです。

あの改札のちょっと先に行ったところで、その二人がやり合っていたんです。


あなたとは何事かと、歳のいった男が若い男を見上げて言っていました。


若い男は、意外にも冷静です。

わたしはあなたの名前など知らない、それをあなたと言ってどこが悪い。それとも、おとうさんとかおじさんとか、あるいは、横柄で、無礼で、周りの迷惑も考えないご老人とでも言えばいいのですかって、ものの見事に返しているんです。


年を召したといっても、杖をつくとか、頭が禿げ上がっているとか、そんなんではないんです。

老人というにはちょっと早く、壮年というにはちょっといっている、そんな風な具合の男なんです。


ことの発端など、野次馬風情には関係などありません。


要は、この口喧嘩、どっちが勝つか、それが問題なのです。

見るところ、どうも、若い方に分がありそうです。


それを悟ったのか、周りを囲んでいた群集も一人抜け、二人抜けしていきます。


両名とも、なんで争っていたのか、そんなことすっかりと忘れて、売りことばに買いことばってな具合で、しかし、言葉少なにやりあっています。


でも、「あなた」って言葉、これが英語だったら、まず問題はない言葉であるはずだと、私、その側に立って思案をしていたのです。


もし、青年が「おまえ」とか、「このクソジジイ」なんてやっていたら、この歳をいった男に、野次馬連は気持ちを傾いていくはずだと推測したのです。


しかし、歳をいった男は、この「あなた」に怒りを示していました。


きっと、会社で、上司から、「きみね、幾つになったんだい。こんなこともわからないでは恥ずかしいよ」と言われていればいいものを、「あなた、いつまでこんなことをしているの?」って、若い上司に、あるいは、女性の上司に言われたのではないかと、あらぬ推測をしたりするのです。


「きみ」と「あなた」では、ニュアンスが異なります。


「君」は、目上の者が、目下の者に呼びかける言葉。幾分、親しみも感じられます。それに対して、「あなた」は、同輩の人同士で言い合う言葉。ときに、相手を見くびった感じも伴います。


いや、待てよ。


さほどに、私たちの日本語は、きみとあなたに、そのような区分をしていないぞ。

そんなことにも、気がつくのです。


でも、あの歳いった男、若い青年が、あなたと言って、自分と同輩のような、生意気な口をきくと、それで怒っていたにちがいないのです。

もし、若い男が、きみって言っていたら、怒りようはますます激しさを増していたと思っているのです。


貴様と俺とは同期の桜なんて、古い歌がありますが、貴様とは、あの当時は、明らかに敬意を込めた言い方だったんでしょう。

 だって、字そのものに「貴」の字がありますから。


しかし、「キサマー、テメェって奴は」なんて、書きますと、貴様は一挙にヤクザ言葉に変じるのですから不思議です。


いまね、記者会見をしているんですよ。

そこのあなた、おしゃべりをしているんだったら、出なさいよ。


それでも記者が出て行かないと、キサマデテイケって、そんな政治家がいましたが、これなどは、権力をかさにきた横柄な物言いであり、記者の仕掛けに乗って、有権者に在らぬ姿を見せてしまった、政治家としては体たらくな在り方だと思っているんです。


要は、日本語では、相手を呼ぶときは、気をつけなくてはいけないということです。


学校でも、男子にはくんと、女子にはさんと使い分けていました。

女子に、さおりくんなんて言うと、先生、私はこれでもおんなのこですからって、ツンとされてしまいます。

呼び捨てなどすれば、夕方、保護者から上司あてに電話がかかってきて、教師が注意を受ける羽目になってしまいます。


そもそも、「あなた」などということばは、「かなた」と同じ部類のことばであったはずです。


つまり、向こうにいる者に対して、あなたと用いていた言葉であるはずです。

それに、敬意を込めて、遠くに居られるそそこの方、もっと丁寧にいえば、あなたさまってな具合に、そう言っていたのです。


思い出しました。


総理大臣が、誰だったかもうすっかりと忘れてしまいましたが、これも記者に、あなたとはちがうんだと言ったあの場面。


きっと、このあなたには、質問した記者への蔑み、そして、総理大臣までやってという自身へのそこはかとない矜持が込められていたのではないかと。


当分、私、あなたと、だれかに言わないようにしようと思います。


でも、あなたって素敵などと言われても見たいと思っているのですから、いやになってしまいます。

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