第2話 青春にして已む
松下幸之助といえば、日本人ならおそらく誰もがその名を知っている経済人であるかと思います。
その彼が、座右の銘としていた言葉というのがあります。
『青春とは心の若さである
希望と信念にあふれ
勇気に満ちて
日に新たな活動を続ける限り
青春は永遠にその人のものである』
若い時に、これを読んで、さほどに心にも感じなかったのを覚えています。
青春は、さほどに美麗なものではない。
泥水の中を、バシャバシャともだえ苦しんでいるただそれだけのことだと、随分とひねくれて、格好をつけていた自分の青春を思い出してしまうのです。
成功者の戯れに付き合ってなどいられないと、あの言葉に、時に、反発さえもしていた自分もいたのです。
そりゃ、そうです。
「受験戦争」という言葉がなまなましく語られていた時代です。
大学に入るには、相当な勉強が必要でした。
いつも「金欠病」で、自分は一生、こんな生活を送り続けるかしらって、ちょっと先の未来にも、希望が持てなかった、そんな時代でもあったのです。
さらに、おきまりの失恋と、なに一つとして、思いのままにならない、そんな時代を、きっと、自分ばかりではなく、誰もが皆送っていたのではないかとも思っているのです。
でも、そうした中でも、一縷の望みだけは、心に留めていたことも思い出すのです。
自分にはきっと何か出来ることがある、それをするために、今があるんだと。
時には、愚かにも、夢見ごごちになって、未来を語っていた自分の若き日の姿もまた思い出すのです。
人生を、それなりに生きてきて、世間の表と裏もそれなりに知って、いくばくかの蓄えもできた、そんな今を迎えると、あの松下幸之助の言葉が、しっとりと私の心に染みわたってくるのです。
きっと、松下幸之助自身も、私と同じように、年を経るに従って、そのように思うようになったのではないかって、そんな風に思うのです。
あのような言葉は、ある程度、人生を経てからではないと出てこない言葉だと思うからです。
そもそも、この言葉、松下幸之助が自ら考え出した言葉ではありません。
サミュエル・ウルマンという詩人が、七十歳の時に書いた『青春』がそれで、それを聞けば、私の判断は間違いないことだと納得するのです。
『ときには 二十歳の青年よりも 六十歳の人に青春がある
年を重ねただけで人は老いない
理想を失う時に初めて老いる』
そんな一節が『青春』にはあります。
きっと、大成した幸之助はこの言葉に意を強くしたに違いないのです。
だって、このような私だって、この言葉に、自分を重ねることができるのですから。
心をどきっとさせるサミュエルの詩の言葉が、『青春』の詩句の最後の方にありました。
『精神が皮肉の雪におおわれ
悲嘆の氷に閉ざされるとき
二十歳であろうと人は老いる
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り
八十歳であろうと人は青春にして已む』
自分の二十歳の時代を、サミュエルは見事に言い当てているではないかって、そう思ったのです。
皮肉に満ちて、斜に構えてものを考え、真正面から挑戦することもせず、御託を並べて、屁理屈ばかり言っていた若き日の自分の姿です。
そうであれば、あの時、自分の心はすでに老いていたに違いないのだ。
そんなことに気がつくです。
でも、不思議なことに、年を経るごとに、私には希望をはるか遠くに見て、生きる力が満ちているのを感じるのです。
もはや、それこそ、年齢がいった証などと、私は皮肉など吐くこともありません。
そうではなくて、あの時代のみっともないことも、笑ってやり過ごしたことも、あれがあったから、今があるんだと、顔を上げることができるのです。
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