卯の花の咲く頃合い
中川 弘
第1話 卯の花が咲く頃合い
残念なことに、私の暮らすつくばの街では、ウツギなる樹木を滅多に見かけることがありません。
しかし、この樹木のことはよく知っているのです。
白い花がたくさん咲いて、それがあまりに見事なので、昔の文学作品がそれを作品に反映させてきたからです。
ウツギというのは、漢字で書きますと、「空木」と書きます。
茎が中空であることから、そう名付けられているのです。
ですから、ウツギの白い花は、ウツギの「う」の字をとって、『卯の花』と呼ばれるのです。
それゆえ、その花の咲く頃合いを、卯の花の咲く頃ということで、卯月と言うというのです。
卯の花や盆に奉捨をのせて出る
漱石先生が、若い時分、松山で教師をしていた時に作った句です。
友人子規に、批評を願い出たという作品でもあります。
四国は巡礼の盛んなる土地、卯の花の季節、お遍路さんに何かを与えるその姿を詠んだ一句です。
「奉捨」とは、「報謝」に通じる、漱石先生独特のあて字ということになります。
卯の花に兼房見ゆる白毛かな
これはあまりに有名な曽良の一句です。
十郎権守兼房、『義経記』に出てくる架空の侍です。
義経の北の方、久我大臣の姫の守役で、元はと言えば、久我大臣に仕えた侍です。義経とともに奥州に下る北の方に付き従います。
平泉高館で義経は、無念の最期を遂げることになります。
十郎兼房は、北の方とそのお子である亀鶴御前と生後七日の姫君を自害させ、さらに、義経の自害を見届けた上で、高舘に火をかけるのです。
燃える高館の館に、長崎太郎、次郎兄弟が攻め込んできます。
六十三歳、白髪の侍、兼房は大手を広げ、戦いを挑みます。
まずは、老人と見て、そこのけそこのけと歩んできた太郎に一太刀をあびせ、斬り倒します。
次郎はそれを見て、後ずさりします。
その次郎を掴み取って、小脇に抱え、もろとも、燃え盛る高館の館に飛び込んで、あっぱれなる最期を遂げる侍が、この兼房です。
忠義の臣に対する曽良の思い入れが伝わってきます。
現代の私たちも、そのことにとりわけ違和感を持たないのですから、主人のために一身を捧げる人のありようを顕彰することは、今にも通じるものだと思っているのです。
ですから、白髪の侍、兼房の逸話を、きっと、平泉の地に、満開に咲く卯の花を見て、曽良はイメージをしたのでしょう。
その卯の花が咲くのは、今の暦では、四月下旬から六月にかけての頃です。
旧暦と新暦では、幾分、時節に差があります。
私たち、日本人は、それを頭の中で咀嚼して、感覚的に受けとめているのです。
明治の時代、旧なるものをこれでもかって捨て去った先人の英断を思いつつ、それでも、先祖たちが大切にしてきた生活と季節感は、心に残したのです。
私たち日本人は、旧正月こそ派手に祝うことはしませんが、季節の折々の祝いは、どっかで、あらゆる形で行なってきているのです。
節分然り、七五三然り、七夕然り……
『卯月』と、かつて呼んでいた四月の初めの日の頃合いを、農民たちは、これを田植苗月などとも呼びました。
四月の末、五月の初め、つくばあたりでは田植えが始まります。
そのために、農民たちは、田んぼの耕しに忙しく働き、そして、そこに水が入ります。
そうすると、それまで無愛想であった冬の農地が、水をたたえ、筑波の峰をそこに宿すのです。
光景は、一転して、爽やかな皐月の頃合い、となるのです。
そして、田植えが終わり、暑さが増してくる頃、麦が実り、収穫が始まります。
それを、私たちは、秋でもないのに、このころの季節を「麦秋」などと呼びます。
この頃になると、昔の農民は、昨年収穫した米が心細くなります。
かめを覗き込んで、麦が実るまで、米を大切に使わなくてはいけないと案ずるのです。
ですから、彼らはこの頃を『乏月』などとも呼んだのです。
なんと、豊かな言語のありようではありませんか。
そんな言葉を心に宿しながら、卯月から皐月にかけての、日々を過ごしたいと思っているのです。
何よりも、今年は、平成から令和へと代変わりもした年です。
きらきら光る陽のもとで、季節の移ろいと、時代の移ろい、そして、歴史に刻まれたあれやこれやに思いを馳せることは無上の歓びではないかと、そんな風に思っているのです。
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