第15話 エピローグは九重に匂いぬるかな
手紙を受け取ってから、しばらくやりきれない気持ちに襲われた浩市は、自らを責めるために酒の力を借りるしかなかった。
誰に相談することもできず、誰にも打ち明けられず、ただ酒を浴びた。
思い出すキョウコの首筋から放たれていた優しい香り。
だからといって泥酔するわけにもいかなかった。自らの罪を今更直美に晒すわけにもいかず、いつもどおりの日常を装わなければならない。
帰宅すると直美は今まで以上に笑顔で迎えてくれるようになった。彼女のためにも秘密は封印されるべきであると思っていた。
しかし、浩市の葛藤を解消させてくれるほど打ち込める何かは必要だった。
あの封筒を受け取って以降、浩市はヒデちゃんのお誘いもベンさんとの食事会にも参加しなくなった。その分帰宅する時間は早い。
浩市は家事に打ち込んだ。直美の帰宅が早い日も遅い日も率先して家事を行った。部屋の掃除も晩御飯の支度も、今までの罪滅ぼしをしているかのように、自宅で過ごす時間を費やしていた。
「コウちゃん、どうしたの?みんなと飲みに行ったりしないの?」
直美が心配して声をかけるほどに。
「今までやりたい放題させてもらったし、もう一度直美との生活をしっかりと立て直そうかと思ってさ。」
「でもね、仕事仲間とのコミュニケーションは大事にしてね。仕事だってもらえなくなっちゃうよ。」
「大丈夫。編集長クラスへのお参りはちゃんとしてるから心配しないで。」
笑って答える浩市だった。
そんなある日のこと。
いつものように仕事が終わって、スーパーで買い物をしてから帰宅した浩市を直美が待ち受けていた。
「おかえり。」
「えっ?どうしたの早いじゃない。仕事は?」
「ちょっと体調悪くて早引きさせてもらったの。」
「大丈夫?病院に行く?」
浩市は時計と睨めっこしながらも荷物を置いて直美に話しかけていた。
「それよりもね、今日はコウちゃんに二つのニュースがあるの。良い方と悪い方とどっちを先に聞きたい?」
「そうだな、後で落ち込むのは嫌だから、先に悪い方を聞こうかな。」
「じゃあ、はい。」
そう言って渡されたのは一通のハガキだった。
裏側には簡潔に一言だけ記載されていた。
『今回応募いただきました作品は、本コンクールにおいて落選となりました。』
なんともあっけないものだ。とは思ったものの、浩市にとってはさほどショックなことでもなさそうだった。
浩市にはもう一つ、雪のアルバムがあった。帯広で撮った友香のスナップ写真と上野の夜の優香のスナップ写真である。それらは誰にも見せずに引き出しの奥底にしまい込んであった。その思い出があれば、今回のチャレンジには十分すぎるほどの結果が残っていた。もうそのアルバムを開くことはないかもしれないけれど・・・。
「ま、これは仕方ないさ。次の機会にチャレンジするよ。で、良い方は?」
「あのね。早引きして病院に行って来たの。婦人科よ。」
その言葉を聞いて一瞬固まる浩市。
「おめでたですって。しかも双子みたいよ。」
二人が受けていた治療やカウンセリングは、どうやら間違っていなかったようだ。最近の浩市の行動も、直美の体調や精神状態を高めていたのかもしれない。
「それはショッキングだな。なんて素晴らしいんだ。」
浩市は両手を広げて駆け寄る直美を受け止めた。
そしてあらん限りの想いで抱きしめる。
「今まで苦しかったね。ボクのことでも・・・。」
「いいのよ、コウちゃんのことは。私も配慮が足りなかったのよ。だから知らなくていいことは、教えないでね。それに、そんなこと何もないんでしょ?」
「うん、ないよ。これからもね。」
浩市は直美と口づけを交わし、もう一度を抱きしめた。
その拍子に直美の髪が浩市の鼻の前で揺れた。
途端に香る直美の匂い。
そして思い出す。
初めて直美を抱きしめた日のことを・・・。
「そういえば、この匂いだったな。ボクを虜にしたのは・・・。」
~いにしえの ならのみやこのやえざくら
けふここのへに にほひぬるかな~
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