第14話 有為の奥山越えて辿り着いた香り

その翌々日。浩市は覚えていた。キョウコが店に出勤することを。そしてその日に訪れる約束をしていることを。

いつものように身支度をして家を出た。今日あたりはまだ仕事もさほど込み入ってはいない。夕方には会社を出られそうだ。あとはヒデちゃんやベンさんに捕まらないことだけに注意を払えばよかった。

運よく誰にも捕まらずに会社を出た浩市は、予定よりも早く店の前に到着していた。今日はキョウコのホントの名前を教えてもらえることになっている。

やがて開店の時間が訪れて、いつものボーイのお兄さんが現れる。

「今日のご指名は?」

「キョウコさんをお願いします。」

何だか久しぶりのやり取りのような気がした。

そしていつものシートで待っていると、いつもの様に現れるキョウコ。

「いらっしゃい。やっぱり来たのね。」

「来てって言ったのはあなたですよ。」

「そうね。この間のことは忘れた?」

「何のことですか?今日はキョウコさんのホントの名前を教えてもらうために来たんですけど。」

「うふふ。お利口さんね。でもね、私のホントの名前を聞いてどうするの?」

「秘密の共有者として、キョウコさんの尻尾を握っておきたいだけ。なんていうのはウソで、もっとキョウコさんのことを知りたいと思ってるからですよ。」

「二人の秘密って何だったかしら?まあいいわ。私のホントの名前は優香。優しい香りって書くのよ。」

その名前を聞いて驚愕する浩市。字こそ違えど、韻は同じであることに一瞬心臓が止まりかけたと言っても過言ではない。キョウコはその驚き様に眉をひそめた。

「どうしたの?そんなに珍しい名前だった?」

「いや、ボクの初恋の人と同じ名前だったからビックリしただけです。」

「そう。でもお店の中では、その名前は封印しておいてね。」

「ということは、またお店の外で会ってくれるってことですよね。」

「お茶だけならね。」

「それでもいいです。もう想いは果たせましたから。これ以上のことは望んではいけないのでしょう。より罪を深く背負わないためにも。」

「いい子ね。」

「じゃあ今日はいつもの通り・・・。」

と言ってキョウコの腰に手を回し、その体を手繰り寄せた。しかし、今までとは違い、どことなくぎこちない仕草だった。

やがてこの日の時間が終わろうとする時、キョウコが浩市の耳元でそっと囁く。

「そろそろこのお店も辞めようかと思ってるの。コウちゃんもこれ以上罪を重ねたくないみたいだし。」

「どういう意味ですか?」

「・・・・・。内緒よ。さあ、また来てね。」

「本当に辞める時は教えてくださいね。見送りに来ますから。」

「・・・・・。そうね。」

そして浩市はキョウコに見送られて店を出る。

「ありがとう。」

「また来ます。」

それが二人の最後の会話となってしまうとは気付かない浩市だった。


翌日、昨晩の会話に不安を覚えた浩市は、キョウコにメールを入れる。

《昨日は何だか変でしたよ。大丈夫ですか。今度の土曜日あたり、あの喫茶店で会えませんか。お昼ごろでいかがでしょう。なんならランチも一緒にどうでしょう。》

しかし、何時間たっても返事は返ってこなかった。

少しおかしいと感じた浩市はその週の金曜日に『ライムライト』へ足を運ぶ。この日はミキもいるため、一応彼女を指名して店内に入った。

「コウちゃん、随分とお久しぶりじゃない。聞いてたわよ、キョウコさんを直接指名できたんでしょ。だからずっとキョウコさんのところへ行ってたんでしょ?」

「そうだよ。ボクがキョウコさんのことを好きだったのはキミも知ってたでしょ。」

「そうね。そう言われればそうだわ。」

「それで、今日もキョウコさんは来てるの?」

「ううん、今日は来てないわ。なんで来てないかも聞いてないけど。」

「あとでさ、ちょっと聞いておいてくれないかな。一昨日の会話が何だか心配だったから。」

「なになに?何か訳有りなの?コウちゃんもしかしてキョウコさんに手を出した?」

「まさか。でも、そろそろ辞めたいみたいな事を言ってたから気になってね。」

「それじゃあ、もしかしたら飛んじゃったのかもしれないわね。このお店、そんなに簡単に辞めさせてくれないもの。」

「メールを送っても返事くれないし。」

「じゃあ振られたんじゃない。何か気に触るようなこと言った覚えない?」

「ボクは無いつもりなんだけどな。」

一昨日の寂しげな表情が思い出される。しかし、その原因がよくわかっていない。夫婦仲が上手くいってないことは聞いた。しかし、それは今に始まったことではない。なのに、どうして今のタイミングなのだろう。やっぱり関係を持ってしまったことが原因なのか。しかし、自分だけが積極的に求めたわけじゃない。いけない関係とは知りながら、あの瞬間にキョウコもそれを求めたはずだ。浩市はどうしてよいのかわからなかった。

この日もミキは別のテーブルに呼ばれていく。そしてヘルプの嬢がやってくるのである。シノブ嬢だった。浩市の顔を見るなりため息を吐いた。

「あなた、キョウコに何をしたの?私も昨日から連絡が取れないんだけど。一昨日、何があったの?」

「ボクもわからずに困っています。」

「もしかしてデートとかした?正直に言いなさい。」

しばらくシノブ嬢の表情を読み取ろうとしていた浩市だったが、キョウコと仲の良い彼女にはウソを吐いても仕方がないと思い、今までの経緯を話した。


「そう。関係を持ったことはお互いに大人なんだから、あなた一人のせいじゃない。だけど、キョウコはあなたとの関係を持ったことに余程の罪悪感があったのかしら。それとも、もっと頼りたかったのかしら。キョウコの旦那は酷いヤツだもんね。」

「シノブさんは会ったことがあるんですか、その旦那さんに。」

「ないわよ。でもずっと聞いてたからね。でも心配なのよ、どっかへ行っちゃったとか、旦那に酷い目にあわされてないかとか。そのうち連絡が取れたら、あなたにも連絡するように伝えておいてあげるから。」

そう言ってシノブ嬢はまたぞろ別のテーブルへと移って行った。同じタイミングでミキも戻って来る訳だが、先ほど以上に新しい情報が得られる事もなく、店のスタッフも連絡が取れなくて困っているということだった。

店を出てから何気なく神田明神へと足を運んでいた。もしかしたら、またそこで偶然会えるかもしれない、などと淡い期待を抱きながら。

しかし、夜の神田明神に参拝客はなく、もちろんキョウコの姿もそこにはなかった。

浩市の背中には、冬の冷たい風だけが強く吹き付けていた。


もちろん浩市はその翌日、送ったメールの内容に従い、昼前から例の喫茶店でキョウコが来るのを待っていた。

しかし、一時間、二時間経ってもキョウコが現れる気配はなく、胸の中に寂しさを沈めたまま諦めるしかなかった。



やがてキョウコが姿を消してからひと月が経とうとしていた。

あれから二、三度『ライムライト』に訪れてみたが、キョウコの行方は一切が解らず終いだった。そしてしばらくは『ライムライト』に運ぶ足が遠のくのである。

そろそろそんなことも忘れかけていた頃、会社でヒデちゃんに呼び止められた。

「コウさん、アヤちゃんから預ったものがあるんですが。」

そう言って渡されたのは白い無地の封筒だった。宛名は浩市様、差出人の住所はなく、友香とだけ書かれていた。

「何ですかこれ?まさか友香っていうのはアヤちゃんの本名で、彼女と何かあったとかじゃないでしょうね。」

「違うよ。でも何だろうね。後で見ておくよ。」

浩市はいち早く中身を見たかったのだが、ヒデちゃんには知られたくないので、封筒だけ受け取ると、その場を立ち去った。

その足でトイレに駆け込み、個室となった部屋の中で封筒を開く。そこにはキョウコからの最後の伝言が書かれていた。


 浩市さんへ

  これ以上私に関わるとあなたの罪はさらに重くなり、あなたをより一層不幸にし

 てしまうこととなるでしょう。

 それは私の罪でもあります。

 その内に言ってはならない言葉を言ってしまいそうなので、そっとお別れします。

 さようなら                  優香



浩市は自分の心を見透かされていたような気がして、自らの罪の意識を自覚する。年末年始にかけて直美との夫婦関係は、ほぼ完全に修復されていたと言っても良かった。それだけに、キョウコとの逢瀬をどう考えていくか迷っているところでもあった。最も罪深きは自分であると認めざるをえなかった瞬間である。すでに優香はいない。彼女の匂いはおろか声すらも聞かせてもらえない。浩市は自らの行動の浅はかさを反省すると同時に、素直に謝りたい気持ちで一杯だった。


しかし、それは遅すぎたのである。



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