第13話 そして彷徨う九重目の幻影
やがて日常の喧騒が始まる。
正月は挨拶回りに奔走される。フリーの契約カメラマンなら尚更のことだ。アッチのデスクにコッチのデスクへと全てのフロアに挨拶に出向かなければならない。
そして最後にはいつものヒデちゃんのデスクへと辿り着くのである。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」
「コチラこそよろしくです。ところでコウさん、今日の挨拶回りはもうおしまいですか?」
「ああ、ここが最後だよ。それでも半日かかったな。」
「じゃあ、このあと軽く新年会に行きましょう。さっきベンさんも見かけましたし。」
「そうだな。午後からも別に仕事があるわけじゃないし、いいかもね。」
そんな話をしているところにベンさんがやってきた。
「おうコウちゃん、明けましておめでとう。さっきヒデと話してたんだが、軽く飲みに行かないか?新年会もかねてさ。」
「いいけど、デスクごとに新年会があるんじゃないの?」
「だから、ウチのデスクの新年会に来てくれればいいんですよ。編集長にはもう話をしてありますから。」
「そういうことなら喜んで参加させてもらうよ。」
昼過ぎには殆どの社員が挨拶行事を終えて各自のデスクに戻ってきた。そして編集長の掛け声とともに新年会へと繰り出すのである。」
「この分だと軽くってわけにはいきそうにないな。」
「オレたちは途中で抜け出せばいいんだよ。」
「抜け出してどこへ行くんですか?」
「そんなもの昼キャバに決まってるじゃねえか。昼過ぎから開いてる店を見つけたから、そこへ行こうぜ。」
「もちろん、可愛い女の子がたくさんいるんでしょうね。」
とはヒデちゃんのセリフだったが、浩市はまたしても渋い表情にならざるを得ない。
正月に直美の涙を見たばかりである。
「もちろん、ボクは一緒に行く人数に入ってないよね。今日は編集長と一緒に帰るよ。」
「へへへ、今日は編集長も誘ってるんですよ。だったら一緒に行けるでしょ。」
「それならボクは新年会にも行かないよ。」
「ダメですよ。もう人数に入ってますから。今日は逃がしませんよ。」
「ところがどっこい逃げるんだなこれが。」
「北海道でよっぽど酷い目にあったんじゃねえか。おっそうだ、帯広の店の女の子と会ってよろしくやっちまったとか。」
浩市は一瞬言葉に詰まったが、直ぐに元の表情に戻す。
「ベンさんのストーリーはまた今度の機会に聞く事にしましょう。じゃ、お先に失礼しますよ。」
そう言って浩市はそれこそ逃げるようにその場を立ち去った。
とはいえ時間が余って手持ち無沙汰になった浩市は、目的もなく上野公園から神田明神に向かって歩いていた。それこそ何気ない散歩だった。
ふと気がつくと、ちらほらと雪が舞っている。もしかして積もるかもしれない。そんな感じの雪だった。
小一時間も歩いただろうか。浩市は神田明神の裏門に到達していた。
何ヶ月前になるのだろう。偶然にもキョウコに会ったことを思い出していた。あれからどうしているだろう。そんなことを考えていた矢先のことだった。
「コウちゃん。」
突然呼び止められて振り向くと、そこにはキョウコが立っていた。
「キョウコさん。ご無沙汰してます。お店にもなかなか行けなくてすみません。」
「いいのよ。奥さんと仲良くやってるんでしょ。それよりもどうしたの?一人?」
「ええ、一人です。職場の新年会でキャバに行くっていうものですから、抜け出してきました。どうです?お茶でもいかがですか?」
一瞬考えを馳せるキョウコだったが思いなおしたように、
「折角だから、私の愚痴でも聞いてもらおうかしら。」と言って浩市と腕を組んだ。
「臨むところです。」
浩市は意気揚々としてキョウコを以前にも行った喫茶店へとエスコートしていく。
店に入ると、二人掛けのテーブルに腰掛けてホットコーヒーを注文する。
「さて、伺いましょう。」
「うふふ。頼もしいわね。実はね、旦那と離婚したいんだけど応じてくれないの。最近は時々暴力も奮うようになったし、ギャンブルに明け暮れて私の財布からも抜いていく始末。他に女もいるみたいだし、典型的なダメ男よ。」
「愛してないんですか?」
「愛してるわ。昔ほど熱烈じゃなくなったけど。あの人もちゃんとしてくれれば根はいい人なのよ。でも、何かが狂っちゃったのね、きっと。」
「ボクに何ができますか?」
「何をどうしてくれる?もしかして慰めてくれる?なあんてね。ウソよ。ちょっと幸せそうなコウちゃんに意地悪したくなっただけ。忘れてね。」
「今日はお休みですか?お店。」
「うん。明後日は出勤よ。来てくれる?」
「それよりも、少し飲みに行きませんか。気が晴れるかどうか、わかりませんが。それぐらいなら幾らでもお付き合いできますよ。」
「じゃあカラオケボックスに行きましょ。ストレス発散にはカラオケが一番よ。」
「そんな趣味があったんですか。いいですよ。付き合いましょう。」
二人は秋葉原に向かって歩いていく。そっち方面に行けばカラオケボックスは軒を並べて客を待っている。
浩市は大手のカラオケチェーン店に入り、キョウコと共に受付を済ませた。正月気分の抜けない多くの人々が、この日も昼からそぞろ集まっており、空いてる部屋は二つほどしかなかった。それでも二人だけの訪問なので、特に広い部屋は必要なく、スムーズに店員に案内された。
昼間だというのに薄暗い狭い部屋だったが、明るさのコントロールは調節が可能だ。浩市は目一杯部屋を明るくしてキョウコをエスコートした。
するとキョウコは、その明るさを嫌うように再度部屋を薄暗い空間へと戻した。
「今の私にはこれ位の暗さが丁度いいのよ。」
そう言ってソファに座る。
二人してカクテルを注文すると、程なくウエイターが運んできた。
「さあ歌うわよ。」
キョウコは十年前のアイドルの歌を歌う。浩市もよく知っている歌だった。
そんな歌を立て続けに三曲ほど歌うと、程なく満足したのか、今度は浩市にマイクを仕向ける。
「コウちゃんも歌うのよ。」
「ボクはあんまり得意じゃないんですけどねえ。」
仕方なく、同じ年代が知ってるであろうグループが歌うバラードを選曲した。
しっとりと歌う浩市の歌は、確かに程々であったが、キョウコの心境を上手くリードしたようだった。いつの間にか浩市の隣にピッタリとくっついていたキョウコは、二人で歌うためのデュエット曲を選曲していた。
「さあ、次は一緒に歌うのよ。」
イントロがかかり、キョウコが歌い始める。やがて浩市のパートがやってくる。キョウコの手はすでに浩市の腰に巻かれていた。浩市もキョウコの肩を抱いてマイクを操る。さすがにデュエット曲である。ムードをかもし出すのはお手の物といったところ。歌い終わった瞬間にキョウコは浩市を見つめていた。
薄暗い部屋の雰囲気が『ライムライト』とよく似ている。キョウコは黙って浩市に唇を求めた。それを黙って受け止める浩市。
いけないことはわかっていた。それでもキョウコを拒むことなどできない浩市は、キョウコの匂いを探るように抱きしめた。
「ここでお店ごっこする?それとも移動する?」
「移動したらお店ごっこで済みませんよ。ボクだってただの狼なんですから。」
「うふふ。」
上目遣いで浩市を見つめ、さらに深く唇を求めた。
「前に偶然に会った場所で、また偶然に会うなんて、やっぱり運命ってあるのかしら。」
「運命があれば許されるのかな。」
「そんな訳ないでしょ。ここから先はあなたもわたしも罪を背負うのよ。一緒に背負ってくれる?」
「はい。」
浩市は肝に銘じた。帯広での出来事を思い出しながら。
すでに罪は犯している。そんな自分を制することができなくなっていた。二人はカラオケ店を出て、近くの妖しげなホテルへと足を踏み入れた。もはや二人ともに確信犯である。
外ではまだ雪が降り続いていた・・・。
部屋に辿り着くと、すでに獣の目と化している浩市は強引にキョウコを抱きしめ、着衣の上からやや暴力的に丘陵を弄び始める。
今までとは違った吐息と匂いが醸し出されると、浩市の中の獣はさらに加速する。
キョウコの体をベッドに押し倒し、唇を陵辱しながら着衣を這いでいった。あっという間に美しいラインが露になる。
浩市も自らの着衣を脱ぎ捨ててキョウコに覆いかぶさった。直ぐにキョウコの腕は浩市の首に巻かれ、その距離をあっという間に縮めていく。
「もしかしたら、私もこのときを待っていたのかも。」
そう呟いたキョウコの唇を黙って塞ぎにかかる浩市。
「ボクはずっと待たされていました。ようやく手に入れました。」
二人は互いの温もりを確かめ合うように抱き合った。こうなることが運命だったのかどうかはわからない。けれど、昔からの知り合いだったかの如く二人の波長は合っていた。
キョウコの匂いはいつもと変わらぬ匂いだった。その匂いを何度も確かめるように首筋を胸元をそして背中をも滑るようにして、その肌を満喫した。
キョウコの泉はすでに溢れんばかりに湧き出していた。浩市を受け入れるための潤滑油は熱く煮えたぎっていた。
それを確認した浩市は堪らず矛先の侵入を始める。同時に聞こえる妖精の木霊と女神の歌声。そして惹きつける悪魔の香り。
二人は時間が過ぎるのを忘れて、互いの体温を貪っていた。しかし、終焉のない儀式はなく、やがては大団円を迎えることとなる。決して洞窟の中で果ててはいけない憤りを、キョウコの木霊が聞こえる祠の中で流動を果たし、二人の罪深い時間は一旦立ち止まるのである。
「ありがとう。」
「ごめんね。」
どちらがどちらのセリフでも成立する。共に感謝と謝罪の気持ちがあふれ出す。
「誘ったのは私。でもあなたも同罪よ。」
「そうですね。でもボクはあなたよりも罪深い。」
「どうしてって聞かないわ。その代わり、さらに罪を重ねて。」
そういうと再びシーツの中に潜り込み、浩市の矛先を刺激し始める。ネットリとした女神の奉仕を。
その刺激に耐えられるはずもなく、浩市の矛先は再び起動しだした。それどころか、さらにキョウコの頭を抱えるようにして強引に掘削を始める。
ときおり「うっ。」という苦しそうな声が聞こえる。それでも強引なリズムを崩さない浩市の矛先はさらに増大化し暴れ始める。
ある程度の満足感を得た暴徒は、やがてキョウコの体を引き寄せて、今度は打って変わって優しく唇での奉仕を始めるのである。
キョウコの唇から首筋へ、そして丘陵へ、やがて熱い泉湧く洞窟へ。
女神の歌声が奏でられ、キョウコも浩市の頭を抱えて、うっとりとした表情を醸し出す。
そしてキョウコは浩市の顔を引き寄せて口づけを求めた。
「もっと早くに出会いたかった。」
「今からでも遅くない。」
「いいえ、もう遅いわ。」
そう言いながらも浩市との距離を再び縮めていく。
すでに野獣と化した二人は、誰に抗うことなく、蜜月な時間を二人だけのために独占していくのである。そして訪れる二度目の大団円。キョウコは浩市を離そうとしなかった。浩市も離れずに最後を迎えた。
心地よい疲労が二人を目覚めさせる。そして互いの温もりを感じた感覚を惜しむ様に、二人でシャワーの飛沫を浴びている。
「このことは秘密にしてね。誰にも内緒よ。」
「そうですね。誰にも言えないですね。」
「今日のことは忘れてね。」
「それは無理ですよ。今日は忘れられない日になりました。」
「明後日お店に来てくれる?」
「はい。必ず行きます。」
キョウコはその言葉を聞いて、シャワールームを出た。キョウコの後を追うようにして出てきた浩市は、キョウコの背後から肩を抱きながら囁く。
「ところで、キョウコさんのホントの名前はなんていうの。」
「・・・・・。それは知らなくてもいいんじゃない。」
「同じ罪を背負う者同士でも?」
「明後日、お店に来たら教えてあげるわ。」
何が気まずかったのか、大団円を迎えて後の二人の言葉数は少なかった。
特にキョウコの口数が・・・。
「コウちゃん、後悔してない?」
「どのみち罪の深さは同じですよ。」
言葉数が少ないままの二人は、黙ったまま妖しげな建物を後にする。
目の前の景色は来る前とは一変し、一面に雪が積もっていた。
ホテルの前で別れる二人、浩市は遠ざかるキョウコの後姿を見送りながら、鞄の中から小さなデジカメを取り出して、一枚の写真を撮影していた。雪の中の人通りの景色として。
そのままマンションに帰る気になれなかった浩市は、その近くのスタンドバーでウイスキーを舐めていた。
先ほど撮影した雪の中の風景をじっと見つめながら。そして深い溜息をつきながら・・・。
先に帰って来たのは浩市だった。
直美は初日からハードなスケジュールが待ち構えていたようで、少なくとも夕方には帰れない。そんな予定のようだ。
浩市はもう一度シャワーを浴びなおした。直美もまた匂いに敏感になっていることに考慮したのである。
その後、リビングでパソコンを開いて北海道の写真を整理し始めた。同時に缶ビールの栓も抜かれている。
然別湖で百カット、糠平湖で二百カットを撮影していた。それに今日の午後に撮影したワンカットを加えた。
コンクールへの締め切りまで残り二週間。合計三百カットに及ぶフレームとの戦いと会話が始まる。三百カットのうち、十カットほどを候補としてプリントアウトしてみた。多少のトリミングとコントラストの調整は施した。後で直美にも見てもらうこととしよう。
やがて浩市の酔いも少し回り始め、うつらうつらしだした頃、玄関の扉が開いて直美が帰ってきた。
「ただいま。遅くなってゴメンね。」
「おかえり。大丈夫だよ。どうせ新年会だったし。」
浩市はまたもやウソを重ねた。
「北海道で撮った写真を整理してたんだ。候補をピックアップしてみたから、後でチェックして欲しいんだけど。」
「どうせ私なんかが見たってわからないわ。」
「それよりもお腹空かない?何か食べてきた?」
「そうね、結局ウチの会社でも新年会みたいなもんだったから、なんだかんだで摘んできたから、あんまりお腹も空いてないわ。」
「じゃあ、ビールでも飲む?」
「そうね。」
何かに気がついたように、直美は冷蔵庫からビールを取り出して栓を抜いた。
「北海道で買ってきたイクラがあるわよ。」
「いいね。」
魚卵好きの浩市には最高の肴である。
二人でビールを流し込みながら、浩市の取った写真を眺め、まるで何もなかったかのような夜は更けていく。
挨拶回りで疲れていた直美の体は、程よく回ったアルコールのおかげで、夜のニュースが始まる頃にはスヤスヤと寝息が聞こえていた。
浩市は、ベッドから毛布をもちだしてリビングで寝入った直美の体にかけた。そして再びパソコンに向かって、最後の選考会を一人で行うのである。
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