第11話 踏み込んでしまう彼方
翌朝、浩市は帯広の駅まで直美を送る。
「気をつけて行っておいで。ボクはその先生に会ったことはないけど、よろしくって言っておいてね。」
「何をよろしくかわからないけど伝えるわ。コウちゃんこそ気をつけてね。さすがに熊は出ないと思うけど。」
直美を乗せた釧路へ向かう特急列車が静かに走り出すと、浩市は窓際で手を振って見送り、そして車に乗り込み一旦ロッジへ戻った。
すでに達也は仕事へと出かけており、浩市は一人で準備を始める。最悪のことも考えて寝袋も用意していたが、簡易宿泊施設の空室情報も確保していた。
荷物をクルマに積み込み、いざ湖へ向けてアクセルを踏み込むのである。
途中の景色は都会と違って牧歌的な風景だ。ただ、おおよそ変化のない景観は都会のビル街のそれとさほど変わりはない。ロッジから然別湖までは、クルマで地元のラジオ番組に耳を傾けながら、ハンドルを操作しつつ小一時間の距離。湖畔近くまで来ると、昨日の出来事を思い出していた。ヨウコの店でのやり取りである。
あのときは衝撃的に偶然過ぎたこともあり、思わぬ再会に驚きのあまり、何も話せなかったのが心残りであった。
店の近くのパーキングに車を停めて店に向かう。彼女が予告していた通り、今日も店は開いていた。店のドアを開けると聞き覚えのあるベルがなり、奥からヨウコが顔を出してきた。
「いらっしゃい。きっと来てくれると思っていたわ。」
「なんだか思わせぶりだね。ボクとキミとはまだ一度しか会ってないんだよ。」
「いいえ、昨日も会ったわ。まるで運命的なものを感じるぐらい。」
ヨウコはそういうとスッと浩市の前に立ち、潤んだ目で見上げた。
「今夜もお店には出るのよ。もちろん、来てくれるんでしょ?」
「ボクは湖に雪の写真を撮りに来たんだ。もしかしたら今夜は近くの宿泊施設に泊まるかもしれないし、野宿になるかもしれない。」
「ええ?あなたって写真家だったの?知らなかったわ。だったら今夜の仕事はお休みしてあなたについていこうかしら。」
「なんでそういう流れになるの?」
「私はこの辺の育ちなのよ。地元のガイドがいると随分助かるのって知ってる?いろんなことに融通が利くわよ。」
浩市は尻込みしていた。ミキほどではないが、若くて魅力的な女性が目の前にいて、その女性がずっと夜までマンツーマンでガイドをしてくれると言う。
浩市は少しジョークめいたセリフを投げかけてみた。
「それはもちろん、夜も一緒に寝てくれるってことかな?」
「うふふ。急にエッチになるのね。さすがにそれはダメよ。だってあなた奥さんいるじゃない。」
「じゃあついて来ない方がいいんじゃない?二人だけになると襲っちゃうよ。」
「ホントに?試してみる?」
ヨウコは浩市の腕を掴んで店の奥へと連れて行く。
「この店は私一人きりなの。他に誰もいないわよ。奥にベッドもあるし、私を襲うには絶好のシチュエーションよ。」
「大声を出されて、外から人が来たらボクは取り押さえられてしまうじゃない。」
「いいわ、大声なんか出さないって誓ってあげる。」
浩市は大きなため息をついた。
「ボクをからかってるよね。お願いだから無茶を言わないで。」
「ほうらね。できないでしょ?」
そう言った途端に浩市はヨウコの腕を掴んで、自らの胸に引き寄せる。そしてじっと見つめて唇を近づけた。ヨウコは浩市の行為を黙って受け入れる素振りのままじっとしている。しかし浩市はヨウコの唇まであと数センチのところで踏みとどまった。
「どうしたの?待ってるのに。もうお店でも経験済みだから、キスぐらい平気よ。」
「ボクはどうしたらいいんだろう。キミの誘惑に勝てそうにないな。」
「誘惑なんかしてないわ。淋しいだけよ。」
ヨウコはそのまま浩市の胸に飛び込んでいく。
「去年お母さんが亡くなってから、ずっと一人なの。だから淋しいの。」
言い終わると同時に浩市の唇に自分の唇を重ねていく。突然の動きに対応できなかった浩市は黙ってヨウコのキスを受け入れた。ネットリとした感触と覚えのある匂いに包まれて、思わずヨウコを抱きしめる。
そこから先は衝動としか言いようがなかった。どちらからともなくベッドに倒れこみ、お互いのぬくもりを探し始めた。
気は真面目だが、それほど堅物でもない浩市は「ままよ」とばかりにヨウコに挑む。そのうちに浩市の手がヨウコの衣服の内側に滑り込むと、ここにも覚えのある丘陵の感触を探し当てた。
生まれたままの姿になったヨウコは、とても美しいラインを呈していた。ミキの体もキョウコの体も店の中でその一部分を鑑賞しただけに留まっているが、ベッドの上でまどろむヨウコの肢体は、煌びやかに美しく見える。まだ午前中の淡い太陽光線がさらにその白さを映えさせている。
ヨウコの若い肌と肉体は、浩市を一瞬のうちに虜にするのに余計なオプションを必要としなかった。ただピッタリとその柔らかな肌を密着させればよいのである。浩市も旅先のアクシデントだと割り切ってその肌に溺れている。
彼女の首筋から放たれる豊潤な女性の香りは、男の欲望を十分に満足させていた。しかし、突然訪れた嵐のような情事であったためか、浩市は激しい猛りを打ち込んでいた。まるで獣が肉を喰らうときの様に。白く透き通るような肌は、獣の振動が深く打ち込まれる度に赤く火照っていく。浩市はヨウコの自由を奪うように両の手をがっしりと掴むと、幾度も角度を変えながら、その快感を貪った。やがてほとばしる流動を感じながら、快感と脱力感を覚えるとき、ようやく彼は人としての理性を取り戻すのである。
「ゴメンネ。」
「謝る必要なんかないわ。」
「じゃあ、ありがとう。」
「どうして?」
「ボクに襲われてくれたってことで。」
「あなた、お店でも似たようなことを言ったわ。」
「でも、結局はいけない所に踏み入ってしまった。」
「今回は私が誘ったのよ。あなたの罪は軽いわ。」
「やっぱりそれでも有罪なんだね。」
「そうね。奥さんを裏切ったことには違いないじゃない。でもそうさせたのは私。」
「ところで、ボクの名前を覚えてる?」
「もちろんよ、サイトウコウイチさん。あの次の日、ずっと待ってたのよ。あなたが来るのを。私の名前も覚えてる?」
「ヨウコさんでしょ。」
「それはお店での名前。名刺の裏を見なかったの?」
浩市はそのとき初めて思い出した。店を出るときに渡された名刺のことを。
「ゴメン。今思い出したよ。まさか本当にもう一度会うなんて思わなかったから。」
「仕方ないわね。でも、湖に連れて行ってくれるなら教えてあげる。」
「お店は休んじゃってもいいの?」
「どうせ田舎なんだから、年末のお客さんなんか知れてるわ。新宿にいた頃だと休みは書き入れ時だったけどね。」
「そう、東京にいたの。どうりで垢抜けしてると思った。」
「東京へ出てから、色んないけない遊びを覚えさせられたわ。それに疲れてコッチに戻ってきたのに、結局は淋しいのね。そうだわ、私が湖のガイドをしてあげるついでに宿も提供してあげるわ。そうすればすべてが上手くいくじゃない。いいのよ、本気になんかならなくても、ちゃんと奥さんのところへ返してあげるから。」
そうは言うものの、これ以上深入りするには、浩市にも覚悟が必要だった(それは彼の性格上のことからの話だが)。もう運を天に任せるしかない、そう思っていた。
「じゃあお願いしようかなヨウコさん。」
「うふふ、交渉成立ね。私の本当の名前は友香。今日と明日だけは私に淋しい思いをさせないでね。そのかわり最高の二日間にしてあげる。」
そう言って浩市の首に腕を回して口づけを求めた。ネットリとした温もりと香しい芳香を味わうように、浩市もまた彼女を抱きしめる。
これから先、物語の中では彼女のことを友香と呼ぶことにしよう。
ひと時のアヴァンチュールを過ごした二人は、湖へと向かう準備を始める。とは言うものの、浩市は必要な機材をクルマから降ろすだけである。その間に友香はあたたかいうどんを湯がいていた。それもそのはず、柱の時計は丁度昼を指しており、出かける前にあたたかい腹ごしらえをしようという段取りなのである。
「うどんを作ったから、食べてから出かけましょ。どうせここから先は雪だらけだから、あたたかいのを食べて、体をあたためてから行った方がいいわよ。」
「地元の人が言うんだから間違いないよね。お言葉に甘えることにするよ。」
浩市と友香はあたたかいうどんをすすりながらルートの予定を打合せした。
「今いるのは湖の西側だから、とりあえず南回りで湖東を目指してみましょう。」
「それだと背景は山になるのかな。」
「どっちみち背景に山が入らないようにする方が難しいと思うわ。三十分ぐらい歩けば古い神社があるから、そのあたりが最初のポイントね。」
その神社は北森神社と言って、どんな謂れがあるかは友香も知らなかったが、年に一度はお祭りが開催されるらしい。
「そこのおじさんと仲良しなのよ。同級生がいたんだけど、今は札幌に行っちゃってね。でもおじさんは今でも仲良くしてくれてるわ。」
「じゃあ淋しくないんじゃないの?」
「あのね、同級生のお父さんはダメよ。それこそ大変なことになっちゃうじゃない。」
「エッチな関係にならなきゃいいんでしょ。」
「きっとダメね。私の魅力的な美貌におじさんきっと耐えられないわ。」
「ははは、そうかもね。」
やがて出発の準備を終えた二人はそろって店を出て、湖の北を目指して歩き始めた。もちろん先頭は友香である。
雪の道は気を付けなければならない。知らないものがズンズン行くと、たまに落とし穴に落ちることがあるからだ。その点、友香はさすがに慣れたものだった。危なそうな箇所を上手く避けながら道を進んだ。
途中の景色や岩肌など、何カ所かでシャッターを押した。しかし、浩市の雪に対するイメージは、まだ固まっていなかった。
友香の予告通り、三十分ほどで神社に到着する。人が住んでいるのだろう、お参りができるよう、参道や駐車場などは綺麗に除雪が行き届いていた。入り口には古ぼけて耳が欠けている狛犬やいかにも色あせた鳥居が訪れる人々を待ち構えている。
浩市は趣きのある社を背景に雪で飾られた草木を見繕っていた。本州と違って生えている草木も種類が違うらしく、今までに見たことがない葉っぱが目白押しだ。浩市は神社の中と外を何度も行き来しながら、納得のいくフレームを探していた。
ふと見ると、友香は神社の宮司さんと話しをしていた。年の頃は五十から六十ぐらいか。彼女の同級生の父親ということらしいが、かなり親しい間柄のようだ。彼も浩市の仕事に関心があるらしく、浩市の撮影の様子を興味深く眺めていた。
しかし、いくつか構図を変えながらシャッターを押してみたものの、浩市の満足いくフレームは見つからなかった様子だ。何気にそっと何枚かは雪を背景に友香の姿を撮影したが、そのことは黙っていようと思った。
「友香さん。ここはこれぐらいで満足しました。他にいい場所がありますか。」
「じゃあ、もう少し先に行きましょ。建物が何もないところがあるから。」
友香は友人の父親に「また来るね」と挨拶をして、浩市の手を引いて鳥居を出た。
二人は湖面沿いの道路に沿って歩いていた。冬でも観光に訪れる人がいるらしく、歩道も綺麗に除雪整備ができている。
浩市が欲しい絵面はその道から少し湖面側に下りた所にありそうだ。歩きながらも立ち止まってはカメラを向ける。
やがて歩きつかれた浩市は休憩を所望する。周りに見えるものといえば真っ白な雪景色ばかり。始めのうちは美しいと思っていたが、何時間もずっと同じ景色ばかりだとうんざりするものだ。
友香は持参した水筒からあたたかい珈琲を注ぎ、浩市に勧めた。
「どうぞ。もう疲れたの?だらしないわね。」
「都会育ちなもんでね。こんなに長く雪道を歩いたの初めてだし。」
「日が暮れると極端に寒くなるから早い目に引き上げましょうか。」
時計を見るとすでに十五時半を回っている。すでに疲れを呈している体は、往路よりも帰路の方が時間はかかりそうだ。
「クルマに戻るまでは別のルートを帰りましょう。」
気を利かせてか、友香は来た道と違う道の選択を提案する。
「そうだね。違う景色の方が助かるよ。来た道を帰るだけなら、ホントに歩くだけになってしまいそうだし。」
「クルマが通る道だけど、いいかな?」
「いいよ。その方が歩きやすそうだし。」
「じゃあ、ついでに晩御飯の仕入れもして帰りましょう。途中にスーパーがあるから、そこで買い物するわ。何が食べたい?」
「キミの得意な料理がいいな。因みに昨日はジンギスカンだったよ。」
「じゃあ鍋で決まりね。簡単であったまるし、あんまり得意な料理なんかないし。」
「どうせボクはグルメじゃないから大丈夫だよ。」
そろそろ夕暮れの傾き始めた射光が二人の頬を微かに照らす。さらに冷たい風が吹き始め、誰もいない雪原のキラキラした微細な氷を舞い踊らせる。
「明日は少し早い時間に出かけようと思う。」
「いいわよ。一緒に行ってあげる。糠平湖でしょ。」
「そう。湖の東側に古い社があるって聞いてるんだけど。」
「あるわよ。そこへ行けばいいのね。クルマも出してあげましょうか?」
「いや、機材も載ってるから、ボクが乗ってきたクルマで行こう。」
夕暮れ時、わずかな陽射しもぼやけてくると、コントラストが曖昧になる畦道やボプラの木などを見つけると、浩市は思い出したようにシャッターを切りながら歩く。やがて日が暮れてしまうと、通りを走るクルマのヘッドライトが頼もしく思えてくる。二人がスーパーに到着した頃には、ひんやりと冷たい空気があたりを包み込んでいた。
友香は適当な材料を見繕って買い物を済ませる。浩市が驚いたのは、大きな鱈が丸々一匹売られていたことだった。さすがに二人で一匹は食べられないが、友香も大きな切り身を購入していた。
「今夜は鱈鍋ね。味噌仕立てにするけど大丈夫よね?」
「それは旨そうだな。期待してるよ。」
二人の買い物の様子は、まるで夫婦そのものだった。友香も久しぶりにあたたかい気持ちに溢れている自分を見つけていた。いけない間柄だとわかっているが。
友香の店に戻ってきた二人。あたりはすでに真っ暗の世界。
部屋の中もストーブが機能するまでは上着を手放せない。しかし、そう思っていたのは浩市だけで、友香はすでにコートを脱ぎ捨てていた。
「ボクは上着を脱ぎ去るまでには、もう少し時間が欲しいな。」
「仕方がないわね。」
ニコッと微笑んで浩市に抱きつく友香。
「そんなことすると、また襲っちゃうよ。」
「いいわよ。どうせ服なんか脱げないくせに。」
「何だか挑発的だね。温かくなったら覚えていろよ。」
そう言いつつも浩市は友香を抱くように腕を回した。
「もうしばらくこうしててあげる。」
ストーブが本来の力を発揮するまで、十分はかからなかったろう。ようやく室内が平常な気温に保たれた時、浩市がそっと友香を抱いていた腕を解き放つ。
「もう大丈夫だ。そろそろ上着を脱ぐよ。」
「上着だけ?」
「今はね。」
友香はちょっといたずらっ子っぽい表情のまま、浩市から離れて台所へ向かう。
「テレビでも見ながら待っててね。材料を切ったらお終いだから。それまではこれを摘みながらビールでも飲んでて。」
そう言って友香が冷蔵庫から取り出したのは、イクラの醤油漬けとたらこだった。
「これでビールってもったいないな。日本酒はないの?」
「あるわよ。あたためてあげようか。」
「ぜひともお願いするよ。寒い日は体の中から暖めるのが一番だからね。」
しばらくして温まった日本酒を運んでくる友香。
コタツの上にはコンロが用意され、鍋がセットされる。火がついて、出汁が沸騰した途端に材料がどんどん投入されるのである。
「今日はありがとう。いいガイドさんのおかげで、いい撮影ができたよ。」
「うふふ。明日はもっといい景色が見られるといいわね。」
二人で食事をする場合、向かい合わせに座るのが普通ではないだろうか。この夜の二人は隣で寄り添いながら箸をつついていた。
やんわりとした味噌出汁の鍋と染み通る日本酒のおかげで温まる二人。同じ屋根の下、二人の距離は自然と近づいていく。
「何か我慢してない?」
「すごく我慢してる。」
「お風呂沸いてるのよ。一緒に入りましょ。」
「そんな素敵なお誘いを断れる人がいるのかな。」
そう言うとおもむろに友香を抱き寄せた。キョウコのそれと似たような匂いが漂う。
「もうちょっとお待ちなさい。」
友香は浩市の唇に人差し指をあてて流れを止めた。そして浩市の手を取り、風呂場へとエスコートしていく。
「脱がせあいっこしましょうか。」
「上手くできるかな。」
浩市は友香の背中に回り、後ろから唇を求めながらセーターと厚手のトレーナーを脱がせ、すでに部屋着に着替えていた綿パンをずりおろした。そのタイミングで友香は体を入れ替えて、浩市の上着から順繰りに脱がせていく。
下着だけとなった二人は浩市が友香のブラを外した瞬間に、互いの体温を確かめ合うかのように抱き合った。あとはかなぐり捨てるように下着を剥ぎ取り、ゆっくりと浴室へ入っていく。
大きな湯船は二人の体を沈めてもゆとりがあった。浩市は友香を背中から抱くように湯に浸っている。後ろから彼女の匂いを堪能することを忘れない。浴室の中は蒸気で満たされており、湯船を出ても湯冷めはしない。
二人は若い恋人同士のように、はしゃぎながらお互いの体を洗いあう。間違いなくこの時の二人は、そんな若いころの気持ちを取り戻していたことだろう。
風呂場での遊びは程ほどに、体の芯まで温まった二人は、友香の寝室へと向かった。
「ここに男の人を迎え入れるのは、あなたで二人目よ。」
「最初の男は誰かな。」
「私の処女を奪った男。もう十年も昔の話。」
「無理やりだったってこと?」
「うーん、半分はね。やっぱり恐かったし。でも何も抵抗できなかった。終わった後、泣いちゃった。それだけしか覚えてない。」
「今日も泣く?」
「泣かないわ。もうそんな子供じゃないもの。それに、私はあなたが思っている以上に汚れた女。こんな女でゴメンネ。」
「ボクだって別に純潔って訳じゃないさ。それにキミはとっても綺麗だよ。もうボクのブレーキが利かないほどに。」
浩市はすでに理性を捨てていた。不倫なことは理解している。しかし、据え膳食わぬはの例えの如く、すでに臨戦態勢に入ってしまっている。
「襲っちゃうけどゴメンネ。」
「うふふ。」
浩市は友香の唇を、ふくよかな胸を、ラインの美しい小山を愛でにいく。友香も負けじと浩市の熱い石鎚を慈しむ。広いベッドの上で、いくつもの曲線を描きながら、一夜の逢瀬を楽しむ二人であった。まるでこの時が最後の契りであるかのように。
友香の吐息も浩市の咆哮も誰に遠慮することなく、静かな夜に共鳴している。
やがて二人の演目が終了し、大団円を迎えそうになったとき、友香が浩市の体をグッと引き寄せた。
「このままでいいの。きょうは大丈夫な日だから。あなたに迷惑をかけたりはしないわ。だからこのままいって。」
浩市は友香の唇を激しく吸って、さらにはふくよかな丘陵を激しく弄びながら最後の時を迎えた。
「今夜は忘れられない夜になったよ。ステキな夜をありがとう。」
「私もよ。いけないことさせてゴメンネ。」
そして二人はしばらくの間、お互いを慰めあうように余韻を味わい、そして心地よい気だるさとともに深い眠りの世界へ入っていくのであった。
今宵の風はいつもと違って優しく窓を叩いていたかも。それほど静かな夜だった。
翌朝は日の出よりも前に目覚ましが鳴り響いた。
早朝の出発を予定していた二人の予定通りの行動である。心地よい目覚めの要因は昨晩、二人して演じられたドラマチックな演目のおかげであろう。
「おはよう。いい夢が見られたかな。」
「おはよう。とってもステキな夢を見させてもらったわ。今日でお別れなんて淋しいかも。でも大丈夫よ。私って引きずらない女なの。さて、出かける用意をしましょうか。」
少し遠出となるため、出発の時間を早く設定した。その分、朝のブランチは簡単に済ませる。ご飯はレンジでチンをして、味噌汁はインスタントで十分だ。あとは納豆と漬物さえあれば、体は目覚めてくれる。
友香はモーニングの片づけとお弁当の用意をテキパキとこなして、外で雪かきをしていた浩市に声をかけ、ピクニック気分でクルマに乗り込んだ。
「スカイラインは冬の間は通行止めになるから、ちょっと遠回りしないとダメよ。」
「どれぐらいかかりそう?」
「そうね、距離的には九十キロぐらいだから一時間半から二時間てとこね。しかも、二月になったら湖自体に立ち入りが制限されるのよ。それまでは釣りのお客さんなんかもたくさん訪れるから、道は整備されてると思うわ。」
然別湖の外側を囲むようにして這っている道路を走り、国道へと抜け出すルートである。目的の湖はこの国道沿いに南北に広がっているらしい。
「ボクは昔から湖が好きでね。阿寒湖や十和田湖、田沢湖や猪苗代湖にも行ったかな。」
「湖のどんなところが良いの?」
「静観で奥が深い色合いなところかな。周囲が山に囲まれてるところが殆どだから、木々の色合いとのコントラストが美しいし、幻想的なところは女性と似てるかな。」
「なんだかロマンチストなのね。私なんかいつも見てる風景だから何とも思わなかったけど、そういえば海の景色とは違うかもね。」
そんな会話を交わしながら道中を過ごしていた。一旦街中へ出た感じだったが、上士幌町を過ぎると後は山の風景が続いた。そして山の景色を抜けると一面に広がる湖の景色がそこにあった。
「おお。」
思わず声を上げる浩市。しばらく走ると小さな展望台を見つけた。
「ちょっと寄って行こう。」
三台だけ駐車できるスペースに一番乗り。
「さすがに寒いね。」
「まだまだこれぐらいで弱音を吐いたらダメよ。」
「じゃあ、あたためてくれるのかな?」
「いいわよ。」
友香はニッコリと笑みを返した。
そこでの眺望はそこそこにして、クルマを先に進めることにした。さらに北へ走らせると、多くの人が訪れる観光名所があり、駐車スペースが用意されていた。タウシュベツ川橋梁展望台と言うらしい。浩市はそこに車を停めて機材を担いで橋梁へ向かって行った。しかし、浩市の関心はその橋梁ではなかった。展望台の下を縫うようにして細い道があった。その道の先に浩市の目的地があるようだ。先日達也から聞いていた社である。
「あんまり奥へ行くと危ないわよ。私もここは行ったことがないし、気をつけてね。」
「祠があるぐらいだから道は続いてるんだろう。でもゆっくり行くよ。」
途中でいくつかシャッターを切りながら歩いていたが、やがて鬱蒼と立っている社を見つけた。鳥居も狛犬もなく、古ぼけた祠だけが佇んでいた。
「誰かお参りする人がいるみたいだね。」
浩市は蝋燭の燃え残りと目新しいお供え物を指差していた。
「糠平湖はね、人口湖なの。ダムを作るために小さな村を一つ沈めたの。もしかしたらそんなことに関係があるのかもしれないわね。」
「まさか人柱の供養なんてことはないよね。」
「それっていつの時代の話?」
友香は笑って一蹴したが、社の由来までは知らないためか、やや不安げな表情になっている。祠の中は妖しげな祝詞が書かれてある掛け軸と小さな観音様が祀られていた。お供え物がある以上、誰かが守りをしているということだろう。
「しかし不思議なものだな。これだけ雪が積もっているのに、ここの階段には全く雪が積もっていない。屋根も雪除けも無いのに、誰かが掃除したのかな。」
「幽霊がしてるのかも・・・・。」
「まさかね。」
二人はそんな冗談を交わしながら祠の裏側に回ってみると、ドアのようなものを見つけた。浩市が取っ手を引くと扉はスッと開いた。
「立ち入り禁止って書いてないし、入ってみる?」
「ちょっとした冒険みたいね。」
恐る恐る足を踏み入れる二人。中は当然の如く電気も無く、薄暗い。
「物置に使っていたのかな。それにしては空気のにおいが外と変わらない。」
「相変わらず匂いには敏感なのね。」
「それに奥は行き止まりじゃないみたいだし。」
浩市はさらに奥へすすんでいくと、丁度観音様の後ろにあった衝立の裏側にあたっており、そのまま表まで出られる構造になっていた。そして観音様の真横に立った時、浩市は静かな感動を覚えた。
「見てごらん。この景色が観音様から見える外の景色なんだね。」
熊笹だろうか、濃い緑の葉っぱと積もった雪の隙間に見える山肌の土の色、そしてその脇に広がる湖の景観。観音様からの視点が最もバランスの取れた景色だった。
「なんか謂れがあるんだろうね。この観音様がここの湖を見守っている。そんな感じがする。湖の底に眠ってしまったどこかの村落に関わりがあったりするんじゃないかな。」
「そうかもね。湖に沈んだ村はあったって聞いたこともあるし。」
浩市は徐にカメラを取り出し、観音様の目線から何度もシャッターを切り出した。
見上げる目線と見下ろす目線。広がる目の前の雪景色は近代的な建造物が一切見えない角度があった。浩市は一通り撮影を終えると満足したように表に出た。
「思いのほか良い感じだった。もうちょっと北の方へ行けるかな。」
「湖の最北端まで行ってみる?でも、その前にランチにしない?お弁当作って来てるんだけど。」
「それはありがたいな。いただこうかな。」
「ここは寒いからクルマの中でね。」
クルマに戻った浩市は、機材を簡単に荷台に乗せてエンジンをかける。しばらくすると暖房が車内の気温を上げていった。
「ホントに簡単だけどいいよね。」
そう言って友香はおにぎりをリュックから取り出し、水筒に入れてきた温かいスープをカップに注ぐ。
「お昼ご飯の用意なんて思いもつかなかった。」
「男の人は行き当たりバッタリの人が多いからね。これでも一応オンナですからね。」
「いや、キミは十分に女性だよ。色っぽいしね。」
「嬉しいこと言ってくれるのね。もしかしてあなた相当の女たらしじゃない?」
「買いかぶりだよ。そんなジゴロな生活してみたいよ。」
ほっとするランチを済ませると、ほっとしたお腹を抱えてハンドルをさらに北の方角へ仕向けた。
「もう少し行くと山からの川が流れてきてるところがあるの。人気のない所だけど行って見る?」
「すぐ近くまでいけるのかな。」
「雪の積もり具合によると思うわ。」
さすがにこんなに奥まで来る観光客はいないと見える。駐車スペースもない代わりに、クルマが通ることさえほとんどなかった。
少し歩くと道路脇に沢へ下りる細い道を見つけた。
滑らないように気をつけながら下りていくと、河口から湖面へと流れる水の流動と雪が積もる山々の景観が広がっていた。
浩市はここでもいくつかのパターンを撮影したが、社で見た光景よりも良いアングルは発見できなかったようだ。
「こんなものかな。最後にキミをモデルに一枚もらおうかな。」
「ダメよ、そんな浮気の証拠になるようなモノを残しちゃ。」
友香は浩市を諌めた。
「浮気なんかじゃないつもりなんだけどな。」
「男の人はいつもそうやって自分を保護しようとするのよ。ダメよ、あれはれっきとした浮気よ。私が妻だったら許さないわ。だからね。」
友香がそういった途端、浩市は彼女を引き寄せた。
「いけないことなのはわかってる。でもあの瞬間は本当にキミのことを愛してたんだ。」
「きっと違うわ。あの瞬間、私のことを好きになってくれたのは確かだと思うけど、それは愛じゃないのよ。今夜にはあなたは奥さんのところへ帰るの。そして私のことなんか忘れるのよ、永久に。忘れないとダメなのよ。」
「忘れることなんかできないさ。キミの匂いもキミの温もりも。」
「じゃあ忘れなくてもいい。でも奥さんには絶対に知られないようにして。奥さん悲しませたくないの。お願い、だから写真は撮らないで。」
浩市はそれに答えないまま、友香の唇を求めた。
浩市に体を預けたままじっとしている友香。その温もりと匂いを記憶の中に染み込ませるように互いの距離を縮めていた。
そして先に納得できたのは友香だった。
すっと浩市の体を離し、一瞬うつむいたあと浩市の瞳を見上げる。
「ありがとう。あなたはいい人。私も忘れない。だから昨日の夜のことは忘れてね。」
「ありがとう。キミの事は忘れない。キミの方こそ昨日の夜の事を忘れるべきじゃない?早くいい人を見つけて幸せになってね。」
「うん。そろそろ帰ろうか。少し寒くなってきたし。」
北海道の夕暮れは迫るのが早い。陽が傾き始めるとあっという間に日暮れに突き当たる。
二人は最後のひと時をいとおしむように一歩ずつ大切に歩き、クルマに乗り込んだ。
友香の店までの道のりは言葉少なに、ときおりそれぞれの近況を聞きながら静かな時間を過ごしていた。
「ところで今更だけど奥さんどうしてるの?一人なの?」
「昨日の朝、恩師に会うために釧路に行ったよ。今日は帯広に戻って来るって聞いてるけど。そろそろ連絡があるかも。」
「帯広のどこに泊まってるの?」
「大学時代の友人の事務所に厄介になってるよ。」
「奥さんもその人の連絡先を知ってるの?」
「さあ、知らないんじゃないかな。」
「そう思ってるのはあなただけじゃないの?もしかしたら、今頃二人でいい頃合になってたりして。」
「もしそうなったとしても、ボクに彼女を責める権利はなくなったよね。」
「自白しなければね。」
「そうなったらキミのところへ舞い戻ってきてもいいかな。」
「ダメよ。あと数時間であなたは私にとっては過去の男になるのよ。」
「ボクが失恋するんだよね。」
「そうよ。」
そう言って友香は窓の外を向く。そして右手は浩市の左手に添えられた。
互いの温もりを感じながら、わずかに残された時間の中で印象を残そうとする浩市と印象を残すまいとする友香。二人の想いは違うようだが、相手を思いやる気持ちは変わらない。適切な言葉を伝えられぬまま、時間だけが過ぎていく。
雪煙を後ろになびかせながら走るクルマは、口数が少なくなった二人を乗せて、ひたすら友香の店へと向うしかなかった。
やがて赤いテントに『マリア』とかかれた店の前にクルマが到着すると友香は浩市の手を握り締め、震えるようにのどの奥から声を絞り出す。
「ここでお別れよ。もう店には入らないでね。助けてえって大声出すわよ。」
友香は目線を浩市に向けることができなかった。浩市はそんな友香を両手で抱き寄せ、頬につたう涙を拭いながら視線を奪うように瞳を見つめた。
「素敵な想い出をありがとう。やっぱりキミの事は忘れない。」
ようやく目線を合わせた友香はニッコリと微笑み、
「楽しい二日間だったわ。帰ったら奥さんを大事にしてあげてね。きっと、いつも優しいあなたに、神様が私を遣わしただけなのよ。そう思ってね。」
そして友香は最後の抱擁に挑む。浩市の胸に頬を当て、そっと目を瞑る。浩市は最後のあいさつのつもりで友香の唇を求めた。
「もう会えないかな。東京に来た時は、今度はボクが神様のお遣わしになれるかな。」
「もう東京へも行かないわ。だから、なるべく早く私のことは忘れてね。さようならっ。」
その言葉を言い放って店の中に飛び込む友香。浩市はその背中を黙って見送るしかなかった。しばらく立ち去ったあとの友香の影を眺めていたが、ピクリとも動かぬドアに諦めてクルマに乗り込んだ。
ドアの中では、友香が震えながら涙を流し、独り言を呟いていた。
「もっと早くに出会いたかったわ。さようなら優しい人。ちょっと淋しかっただけなの。ゴメンネ。」
走り去るエンジンの音を聞きながら、友香はその場でしゃがみこんでしまった。もう二度と会うまいと心に誓って。
そして浩市もまた、クルマの中で涙を流していた。何かしら説明のつかない罪の意識を感じながら・・・。
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