第9話 気にかかる未来の物語

その翌日、時計の針が十一時半に届く少し前、浩市は約束の喫茶店に佇んでいた。

「きっとキョウコは来てくれるだろう」などと根拠のない期待を持ちながら。

しかしすると店のドアが開き、鈴が鳴ると同時にキョウコは姿を現した。

キョウコは笑顔で浩市の向かいのシートに腰掛けた。

「来ちゃった。」

「きっと来てくれると信じていましたよ。まずはコーヒーでもいかがですか。」

「そうね。急いできたから一息つきたいわ。」

キョウコはコーヒーを注文し、改めて浩市と対峙する。

「先に忠告しておくわね。もちろんランチだけよ。それにお店には内緒よ。」

「もちろん了解しています。」

「その後、ご主人とはいかがですか?」

「そうねえ、可もなし不可もなしってとこかしら。ウチは子供がいないから会話も少ないし、何日も話をしないこともあるわよ。」

「じゃあボクが話し相手になってあげますよ。何でも話してください。」

やがてキョウコがオーダーしたコーヒーが運ばれて、暖かく喉を潤す。

「調子いいわね。うふふ。でも気軽に話せちゃう雰囲気があるから恐いわ。」

「それって褒めてます?単にボクがキョウコさんを受け入れたいだけなんですけど。ボクがこんなに積極的に女性にアタックするのって珍しいんですよ。自分で言うのもなんですけど。」

「うふふ。コウちゃんの一生懸命さはちゃんと伝わってるわ。だからこうして来てるんじゃない。」

「ありがとう。来てくれるだけで嬉しいのに、腕まで組んで歩いてくれるんですから。ホントは隣に座って、キョウコさんを感じていたいんですけどね。結構我慢してますよ。」

「だめよ。ここは『ライムライト』じゃないんだから。」

「そうですね。そろそろ出ましょうか。ボチボチお腹も空いてきたし。」

「コウちゃんって自分のペースに巻き込んでいくの上手ね。まあいいわ。今日はどこへつれて行ってくれるのかしら。」

やや急ぎ気味でコーヒーをすすったキョウコとゆったり作戦を練っていた浩市は並んで喫茶店を出た。

「ランチのリクエストはありますか?無ければ、一方的にエスコートしますけど。」

「うふふ。何でもいいわよ。コウちゃんが連れて行ってくれるなら。」

「ならば行きましょう。腕は組んでもらえないんですか?」

「恥ずかしいから、まだだめよ。」

「まだ?いつかはチャンスがあるってことですよね。」

「うふふ。ポジティブなのね。いいわ、腕ぐらい組んであげる。その代わり、知ってる人に見つかっても知らないわよ。」

「キョウコさんこそね。」

二人は腕組みしながらゆっくりと参道を歩いていた。神田明神から湯島天神へ抜ける細い道を。天気のいい日は、風がなければ日差しが暖かい。まるで二人を応援しているかのように。


浩市は近くにあるビフカツの店を選択した。最近噂になっている店だ。

店内に入ると賄いのおばさんがテーブルに案内してくれる。

「ここのビフカツが旨いと評判なので、一度来てみたいと思っていたんです。」

「ビフカツなんて普段食べないからよくわからないわ。」

それでもキョウコの表情は、何かに期待をしている風な笑顔だった。

浩市はロースをキョウコはヒレをオーダーし、待ち時間をまどろむ。

「今日は午後から仕事なの?」

珍しくキョウコから口火を切った。

「ロケーションの打合せですよ。それとも食事の後、付き合って頂けるなら、会議なんかキャンセルしてもいいんですけどね。」

「馬鹿ね。そんな訳ないでしょ。ちゃんと仕事しなさいね。」

「今日は食事だけっていう約束でしたしね。続きはお店で。」

「そうね。」

何気に短かったキョウコの返事が少し気になる。そう思った浩市だったが、再びキョウコから話しが始まった。

「ホントは来ようかどうか迷ったんだ。だけど、家にいてもムシャクシャするだけだし、いっそのこと冒険しちゃおかなと思って。それにコウちゃんだったら、もう初デートは済ませちゃってるしね。」

はにかみながら呟くキョウコの笑顔は、どことなくあさっての方向を向いていた。

「ボクでよかったら話し相手になりますよ。」

多くの言葉を用いずに答えた。

「いいのよ。愚痴を言いに来た訳じゃないから。コウちゃんとの会話の楽しむためにきたのよ。さあ、何のお話をしてくれるの?」

「そうだな。じゃあ、北海道の話をしましょうか。帯広の話。」

「どんな話?」

「仕事でね、ばんえい競馬っていう大きな馬が荷物を載せたソリを引っ張る競走があるんです。その馬の世話の話やジョッキーの話を取材に行ったんだけど、実際に馬がレースをしているところを見るとすごい迫力でね、とっても圧巻でしたよ。」

「へえ、私も見に行きたいな。」

「連れて行ってあげましょうか?」

「ダメよ。奥さんのいる人とは行けない。」

「じゃあ離婚したら連絡しますね。」

「うふふ。そんな気もないくせに。浮気しちゃダメよ。」

「このデートは浮気に入りませんよね。」

「そうね、食事だけだしね。」

やがて二人が注文したビフカツ膳が運ばれてくる。

「わあ、美味しそう。」

「打合せ会議がなけりゃ、ビールを飲んじゃうんだけどな。今回は我慢だな。」

二人は美味しい肉を頬張りながら、『ライムライト』の話を始める。

「今度はいつごろ来てくれるの?」

「そうだな。次の水曜日には行きますよ。なんなら同伴でもいいですよ。」

「無理しないのよ。それにまだ同伴はダメよ。他の女の子の手前もあるし。」

「じゃあ、アフターならいいんですか。」

「うふふ、ダメよ。コウちゃんとアフターなんか行ったら、きっといけないことになりそうな気がするから。」

浩市は笑みを浮かべながら答えるキョウコの表情を読み取るように目線を合わせた。しかし、彼女の微笑から真相を探ることは不可能だった。

「男はみんな狼ですからね。でもボクは無理に襲ったりはしませんよ。」

「コウちゃんジェントルだからねえ。でもそれが一番恐いんじゃない?あなた結構、皆からの評判もいいしね。」

「それは誰かと間違えてますよ。まだそんなに多くの女の子と会ってませんよ。」

「少なくとも私の知ってる女の子たちは皆が口をそろえて優しそうねって言ってるわ。ミキちゃんもそうよ。」

「じゃあそういうことにしておきましょう。」

今回のデートでは、軽いジョークだけがあればよかった。無理に誘うつもりもない。ただ、楽しい時間が過ごせればよかった。そのことが次に繋がると思っていた。

「ごちそうさまでした。コウちゃんは何時から会議?」

「二時からです。まだ十分に時間はあります。食後のコーヒーでもいかがですか?」

「そうねえ、コーヒーはさっき飲んだし。それよりも少し歩かない?」

「いいですね。もちろん、腕を組んで歩いてくれるんでしょ?」

「やっぱりそう来たか。仕方ないわね。」

店を出た二人は、ポカポカと陽気な日差しが降り注ぐ中、仲良く腕を組んで歩く。行き交う人は、まさか二人が夫婦や恋人同士ではないなどと思いもよらないだろう。

男としてはやや小柄の体型である浩市は、キョウコと肩を並べても高低差はあまり生じない。振り向けばすぐそこにキョウコの横顔が見られる。

それなのにキョウコは歩きながらも終始うつむき加減だった。

「どうかしたんですか。」

「そうね。私もうすぐ離婚するかもしれないし。そうなるとお店も辞めるかもしれない。」

「キョウコさんが離婚することと、お店を辞めることが関係あるんですか?」

「だって、一人で暮らしていかなきゃいけないでしょ。あの店はアルバイトですもの。ちゃんと働かないとね。」

「すぐの話ですか?」

「まだもう少し先になるかも。あの人が納得すればすぐなんだけどなあ。」

キョウコの話し方は、やや投げやり気味だった。

「ちょっとかまって欲しかっただけなの。今日はありがとね。またお店に来てね。」

そう言うとキョウコは浩市の腕を離して、今来た道を戻って行こうとする。

「大丈夫?」

「そうね。お店でも慰めてね。」

少し寂しそうな後姿を見送る。浩市の目にはそう映った。

その背中を後押しするように、木枯らしが吹いていた。


打合せ会議は何の変哲もなく無事に終了し、年末までのスケジュールが調整されたのだが、年末年始の期間は特番の取材もなく、浩市の身柄は誰にも拘束されないことが約束された。

つまりは、直美のスケジュール次第で北海道に旅行できるということである。

しかしながら今宵の浩市は、いつもの通りにヒデちゃんとベンさんに捕まっていた。

「そろそろ今年もおしまいだな。おまいたちも今年の年貢は今年のうちに納めておいた方がいいぞ。」

「そんなに早く年末が来てたまるものですか。オイラは年末までに仕上げなきゃいけない企画がまだ三本もあるんですから。しかも編集長のヒモ付きの企画があるので、いつまで経っても気が抜けやしない。」

「そんなにグチグチ言いなさんな。とりあえず今日はワッと騒いで、日ごろの鬱憤を発散しようじゃねえか。」

「そうと決まれば、今夜はジンギスカンを食いに行きましょう。肉食ってスタミナ貯蔵しておかないと、それこそ年末までもちませんや。コウさんもそれでいいでしょ?」

「いいよ。」

三人はいつものように少し早めの夕方から店の暖簾をくぐる。

そして少し広めのテーブルに案内された三人はいつものようにジョッキを掲げるのである。いい具合に肉が焼けてくると、こぞってベンさんとヒデちゃんは色気のある話になる。

「ベンさんはこの後、どこへ行くんですか?」

「いつものところへ行くさ。どうせおまいさんもそのつもりなんだろ?」

「そうですよ。コウさんも行くでしょ?」

「ボクは帰るよ。奥さんと年末年始の相談をしないとダメなんだ。」

「なんか特別なことでもあるのかい?」

「この間、大学時代の友人と会ってね。北海道に住んでるんだけど、彼を訪ねる話になったんだ。ウチの奥さんを連れてね。」

「確か、奥さんも同じ大学だって言ってたよな。」

「そうです。彼女にとっても同輩なんですよ。」

「もしかして、その友人ていうのが奥さんに首っ丈なんじゃないの?そんでもってあわよくばコウちゃんから奪おうなんて筋書きがあったら面白いんだけどな。」

「そんなドラマみたいなストーリーはないと思いますよ。」

するとベンさんはニヤッと笑って、別ストーリーの展開を話し始める。

「じゃあこんなのはどうだい。その友人ていうのがな、いい所があるとか何とか言い出して、帯広までコウちゃんを誘い出すんだな。そこでこの間のキャバの女の子と偶然にも遭遇しちまって、コウちゃんの方がそっちに行っちまうってのはどうだ?」

浩市は達也の活動拠点が札幌と帯広だと言っていたことを思い出した。

「さすがベンさん、ストーリーを作るのはプロだね。」

「オレとしては一本目のストーリーの方が面白いんだけどな。そうなったらオレとヒデとで慰めてやるから安心しな。」

「何の安心ですか。一本目も二本目もないですよ。普通に行って何のトラブルもなく普通に帰って来るだけです。そんなドラマみたいなストーリーがアッチコッチにあってたまるもんですか。」

その時の浩市はそんな風にタカをくくっていた。まさか、ベンさんが描いた空想のストーリーが展開されるとは思いもよらなかったのである。

偶然にもジンギスカン鍋を突いていたその時の話題だったことに、何となく予感めいた所以があったのだろうか。

ベンさんとヒデちゃんは店を出ると、さらに煌くネオンの街並みへと足を向ける。彼らを見送った浩市は直美が待っているであろう自宅マンションへと帰って行った。


少し酔った息を吐きながら玄関のドアを開けると、すでに直美は帰宅していた。

「おかえり。もう飲んできたの?」

直美はやや寂しげな表情で浩市を迎える。

「軽く飲んできただけだよ。いつものことさ。」

「晩御飯はいらない?」

「折角作ってくれたんだから食べるよ。」

「無理しなくてもいいのよ。」

「いいや、無理してでも食べるさ。きっと直美が作ってくれたご飯のほうが美味しいだろからね。」

「それってプレッシャー与えてる?」

それだけのジョークが言えるなら心配ないか。浩市はにっこり微笑んでうなずいた。

そして二人は食事をしながら年末年始の話を始める。切り出したのは浩市だった。

「今日の会議で年末年始のスケジュールが決まって、ボクは二週間ほどフリーな休みになったよ。」

「私も特に急ぎの仕事はないわ。だったら北海道行けるのね。」

「そうだね。達也に連絡しておこうか。」

「コウちゃんは雪の写真を撮りに行くんでしょ?どこまで行くの?」

「それは気分次第かな。どこにどんな雪があるのか詳しく知らないし。」

「何日か山に篭ったりするの?」

「まだそこまで詳しいことは考えてないよ。でも場所によってはそんなこともあるかもしれないね。」

「じゃあ、私一人の自由時間があるのね。」

「なんだい、一人になりたいって言う意味だったのか。それならそう言ってくれれば、撮影は一人で行くことにするよ。」

直美は少しシマッタという表情をしてペロッと舌を出した。

「ちょっとね、会いたい人がいるの。大学時代にお世話になった先生でね、今は釧路にある大学で教授をしてるらしいんだけど、折角だからご挨拶に行きたいし。そんなのってコウちゃんは興味ないでしょ?」

「そうだね。ボクに気を使ってくれたんだね。ありがたく一人旅に出かけるよ。でも札幌と釧路って遠くない?」

「だから一泊二日だけ単独行動させて、ねっお願い。」

珍しく甘える仕草を見せる直美。ホッコリとした気持ちでうなずく浩市。こんな時は浩市もキョウコの存在を消し去ってはいたのだが。



今年の師走の木枯らしは、浩市の仕事を急かすように強く吹いていた。

年末年始のヴァカンスのために日程を詰めて仕事をこなしていた浩市は、もう何日も休むことなく編集作業に明け暮れていた。年末特集のために撮影した写真の締め切りの短縮要請が、急激にあちらこちらのデスクから湧いて出たためである。

そのために、キョウコを訪ねる約束が果たせていないことが気にかかっていた。とはいえ、編集社員と違って浩市の体は一つしかない。数十分おきにデスクを行き交う姿は、まさに師走の姿だった。

ふと一息ついたとき、浩市の目の前には大きなカレンダーがぶら下がっており、今日が水曜日であることに気がついたのである。

そして、その瞬間に思い出してしまったのだ。キョウコの匂いを。さらに、もう何日も訪れていないことも。

そういえばあの時の陰のある表情はなんだったのだろう。急に思い出した浩市は、いても立ってもいられなくなり、この日の仕事を区切りのよいところで切り上げて、会社を後にするのである。

時間はすでに夜の九時を回っていた。

もちろんネオンの看板はいつもどおり煌びやかに輝いている。

そして久しぶりのドアを開け、久しぶりにフロアに入った。もちろんキョウコを指名してである。受付の黒服のお兄さんは、一言「久しぶりですね」と皮肉めいたセリフを放ったが、気にも留めずに中へと入っていった。見慣れたシートで今や遅しと待っていると、いつもと変わらぬ表情でキョウコが現れる。

「久しぶりねコウちゃん。もう見限られたのかと思ったわ。」

「さすがに十二月は特番が目白押しなので、いつもと同じという訳には行かないんです。ただの言い訳ですけどね。」

「でも、覚えてくれてたのね。嬉しいわ。」

浩市は久しぶりの匂いをまずは堪能する。しかし今の浩市にとって、その匂いは危険な香りにしかならない。

このところ直美との間がやや回復しかけているため、キョウコとのやり取りはリスクの高い遊びとなっている。それでもキョウコの存在は気にかかるものであり、先日の別れ際の仕草は忘れられないシーンとして心の中に残っていた。

そのことについてキョウコに尋ねられずにはいられない。

「あれから何か変わった?」

「なにが?」

「だって、この間の別れ際、少し様子が変だったから。」

「なんでもないわよ。あなたが気にすることじゃないの。」

「旦那さんと上手くいってない?」

「うふふ。どうしてそんなことが気になるの?それよりもコウちゃんところはどうなの?仲直りできた?」

「ウチは元々喧嘩してたわけじゃないので、今のところは丸く収まっています。だからボクのところよりもキョウコさんの方が心配になるんですよ。」

「でもね、コウちゃんが心配してくれるのはありがたいけど、もし私が一人になったら、どうにかしてくれるつもり?」

「わかりません。でも気になるのは確かです。」

「あのね。家庭を大事にしてね。奥さんも大事にしてあげてね。ダメよ、いけないこと考えちゃ。」

キョウコは諭すように浩市を嗜めた。そして、そっと浩市の頭を抱えて自らの胸の中へ招き入れる。

浩市はキョウコの胸の中で、静かに彼女の心音を聞くしかなかった。その音からキョウコの何かを掴めないか、何かを探れないかと思うほどに。

「それよりも折角来たんだから、ちゃんとエッチな遊びをなさい。」

キョウコは浩市の唇を奪うように合わせていく。その流れで体を膝の上に載せて、完全に浩市の体に覆いかぶさる体勢をとった。そして、ずっと浩市の唇を弄んでいる。

浩市はただキョウコの腰に手を回し、グッと引き寄せながらキョウコの匂いを確認していた。

どれぐらいの時間が経っただろう。言葉もなく、ただ吐息をあいさつ代わりに会話を続けていた二人を引き裂くコールが聞こえる。


=キョウコさん十一番テーブルラッキータイム=


「呼ばれたわ、ちょっと行って来るね。」

そう言うと、ふうっと一息深呼吸をして席を離れた。

代わりにやってきたのはシノブさんだった。

浩市はキョウコと仲の良い彼女に最近の様子を聞いてみようと思った。

「シノブさんはキョウコさんと仲良しでしたよね。最近彼女の元気がない様に思えるのですが、何かありましたか?」

「詳しいことは知らないわよ。でもあなたは時々キョウコの話し相手になってくれてるって聞いてるから言うけど、どうやら旦那と離婚したいけどしてくれない、そんな感じだったかな。あたしは結婚する時から反対してたんだけどね。」

「そんなに悪い旦那さんなんですか?」

「別に暴力を奮ったりする人じゃないんだけど、女癖が悪かったり、金遣いが荒かったり、その割りにキョウコのことは好きだったりするのよね。変な人よ。こんなこと私が喋ったって言わないでね。」

「もちろんですよ。それに、旦那さんのことをボクがどうにもできるわけじゃなさそうですしね。でも、彼女を助けてあげたいです。」

「あなたも奥さんいるんでしょ。人の振り見て我が振り直せ。同じ様なことにならないように、せいぜい気をつけなさいよ。」

結果的に浩市はシノブ嬢から注意をされただけのこととなった。

確かに、キョウコと旦那の夫婦仲については口出しすべき事柄ではないし、また、どうすることもできやしない。

ただ、彼女の笑顔が見たいだけなのだ。

そしてシノブ嬢が去ってキョウコが戻ってくる。彼女は優しく浩市に微笑みかける。

「やっぱりサヤカさんのヘルプだけは呼ばれるようね。」

その話し方はいつもと同じようなのだが、彼女の下を向く仕草が気にかかる。

「さあコウちゃん。何にも考えないで、ちゃんと遊ぶのよ。」

そう言って自らの唇を浩市の唇に重ねていく。

やわらかな感触はいつもと変わらない。同じように、いつもと変わらぬキョウコの芳香が浩市を花園の世界へ誘う。

今日に限っては、浩市は終始無口なままだった。直美とのやり取りが難しかった時期には相当な期待をしていたにもかかわらず、やや持ち直している現在では気の利いた事を何も言えないまま、セットの時間が終了する。

「今日はすみませんでした。」

「ん?何が?コウちゃんどうしたの?何でコウちゃんが謝るの?」

「いや、何もしてあげられなくて。またランチに誘っていいですか?近いうちにメールします。」

「新しい年が明けてからね。それまでにもうちょっと色々と整理しておくわ。コウちゃんに心配されるようじゃダメだからね。うふふ。」

にこやかにその場を取り繕うキョウコだったが、陰のある表情までは隠せなかった。キョウコもヘルプでおざなりの客周りをしている間はプライベートなことなど忘れられたが、なぜか浩市の前では隠せなかった。

それはいけないことだと解っていたけれど。


浩市は中途半端な気持ちの中で、昨夜の事を整理しようとしていた。

中途半端なのは自分である。今の自分は何をどうしたいのか、ハッキリしたことがわかっていない。

直美との間の子供が欲しいのも確かである。キョウコのことが忘れられないのも確かである。しかし、世間的にも道理的にも倫理的にも許されるはずのない我儘であることも理解している。

そんな浩市の気持ちも知ってか知らずか、時の流れは進んで行くのである。

思い悩む浩市にさらなる追い討ちをかける年末年始がやってくる。



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