第8話 遠い記憶から思い出す六重目の香り

『ライムライト』を背にしてからは、真っ直ぐに帰路につく。

すでにお腹は満たされているため、寄り道する理由もない。

真っ直ぐにマンションに帰ってきたとき、部屋の明かりがついていることを確認した。直美が帰っているということだ。

「ただいま。」

「おかえり。どこへ行ってたの?」

「ヒデちゃんと食事会さ。お腹は膨れてるからご飯はいらないよ。」

「急に早く帰れるようになったもんだから、あわてて買い物して用意したのに。ちゃんと電話すればよかったわね。」

「いや、まだ少し飲み足りないから、おつまみに少しもらうよ。」

「無理しなくてもいいのよ。」

「いや、折角キミが作ってくれたんだもの、食べなきゃもったいないじゃない。」

「うふふ、気を使ってくれてありがと。」

先にシャワーを浴びた浩市と料理の支度が整った直美は揃ってテーブルに着き、久しぶりに顔を見合わせての夕餉となった。

元々飲んできている浩市は缶ビールを二本も空ければ、かなり酩酊に近づく。あとは夜陰に乗じて夢の世界へひた走るだけになっていた。

リビングで虚ろな表情のままテレビとにらめっこしていた浩市であったが、バスを使い終って出てきた直美に叱られる。

「もう。どうせ見てないんでしょ。早くテレビを消して寝たらいいじゃない。」

そう言って浩市の隣に座って髪を乾かし始めた。

ドライヤーの風に乗って直美の匂いが浩市の鼻腔をかすめて通り過ぎた。いつも寝ているときに隣で漂っている匂いなのに、なんだかとても懐かしい匂いに感じた。

その瞬間、酔いがスッと醒めて無性に直美の肌が恋しくなった。

浩市は直美の腕を取り、そのままベッドへと誘う。

「どうしたの?」

急な展開に驚きを見せる直美だったが、やや強引な行動に少し嬉しい胸騒ぎが起きる。

ややギラついた眼差しのまま直美を押し倒し、着替えていたパジャマを剥ぎ取る様に脱がせ、恥ずかしい姿に変えていく。久しぶりの強硬な行為に恥じらいの表情を見せる直美。

「いやっ。」

思わず出た言葉だったが、それとは裏腹に、直美の目は嘆願するかのように潤んでいた。

そしてやや強引に直美の口を陵辱していく浩市は、両の手で直美の頭を押さえながら施しを強要する。「うっ、うっ」と漏れる声が、浩市のエスの部分をさらに刺激する。久しぶりの興奮の渦は直美にも襲い掛かっており、苦しいながらも浩市への奉仕を義務であるが如く吸い尽くすように咥えていた。

やがてその行為に満足した浩市は、足を大きくM字に開かせてそそり立った分身を洞窟の奥へと沈めていく。

洞窟の入り口は溢れんばかりの熱い泉が湧いていた。まるで侵入者を待っていたかのように熱く、そして緩やかに。

しかしその入り口は侵入者を確認するとまもなくその入り口を閉ざそうと努力する。いや、侵入してきたものを逃がさぬようにするために引き込んでいるかのようだった。ネットリとした洞窟の入り口は熱い粘液を擁して、侵入者の出入りを何度も受け入れては解き放つ。

浩市はその行為の間中、虚ろな目をしている直美が可愛いと思った。少し開いた唇が浩市の口づけを求める合図に見えた。直美の唇はややぬれたような光を放ち、猛烈に浩市の唇を誘っていた。

洞窟では進入と退出の行為が繰り返される最中、唇への陵辱も怠ってはいけなかった。恍惚の表情を見せる直美に、浩市は容赦なく次の攻撃を仕掛ける。

体を入れ替えて背後からの突撃を始めた。いつもと同じパターンなのに、今宵は少しスタイルが違っていた。直美の体をベッドの上に残したまま、浩市はベッドから降りた状態で責めていたのだ。そして何度かの突撃を繰り返した後、直美は再び天空へと目線を移された。そしてそのまま陵辱を加えられるのだ。

浩市の腰はときおり円を描くように洞窟の内部を掘削し、ときおり苛めるように丘陵を弄んでは頂点の石碑を摘んでつねってみる。いつもとは違う刺激に戸惑う直美であったが、そして訪れるエピローグが浩市の咆哮と砲撃で、その鬨を告げ、やがて気だるい疲労と満足感が二人を襲うのである。

ひと呼吸入れて浩市が我に返ったとき、満足気な直美の笑顔がそこにあった。

「今日のコウちゃん、いつもと違う人だった。」

「そうかもね。キミもいつもの直美と違っていたようだったよ。」

お互いの匂いと粘液の交換が終わった後、熱く火照った皮膚の感覚を確かめるようにお互いを慰めあいながら静かに夜を閉じていったのだった。


翌朝は直美の方が先に起きていた。

キッチンに立ち、鼻歌交じりでモーニングの用意をしている。

「おはよう。今日は早いね。」

「うん。昨日のコウちゃん激しかったね。なんかあったの?」

「何にもないよ。思いがけないタイミングでキミの匂いがしたもんだから、急に欲しくなって。ちょっと無理やりだったね、ゴメンネ。」

「ううん。なんかちょっと嬉しかった。求められてるみたいで。」

朝から何気にエッチな会話が続いている。そんな照れる浩市を驚かせたのは、直美が浩市の分までモーニングを用意してくれていたことだった。

茹でたもやしとレタスのサラダ、それにベーコンエッグ。コーンスープはインスタントだったが、トーストの焼ける匂いを発見できればもう十分だった。

今朝は二人して出かける準備。久しぶりに手をつないで玄関を出た。

たまたま起きたちょっとバイオレンスチックなアクシデントが直美の機嫌を上昇させたようだった。しかし、同じ手は何度も通用しないのだろうなと思う浩市であった。


編集社に到着すると、いきなりヒデちゃんに捕まった。

「コウさん、なんであんなに早く退散するんですか。もっと楽しめばいいのに。」

「だってキミたちがジロジロとボクの方ばかりを伺うもんだから、居心地悪くて全然楽しめないじゃない。」

「そんなもんですかね。オイラなんかは見られると、それはそれで楽しいですけどね。」

「ボクとはちょっと趣味が違うようだね。」

「また一緒に行きましょうね。」

「例え行ったとしても、一緒には行かないよ。」

「でもなんだかコウさん、結構顔馴染みっぽかったですよね。女の子とも親密に話してたし、アヤちゃんだってコウさんの贔屓ばかりしてたみたいだし、ヘルプの女の子もみんなコウさんの味方みたいでしたよ。」

「そんなことないさ、気のせいだよ。ヒデちゃんが面白がってボクをからかったりするからだよ。みんな弱い者の味方なんじゃないの?」

ややブスくれた表情のヒデちゃんをなだめているところに、ベンさんがやってくる姿を発見する。するとヒデちゃんはそっと浩市に耳打ちする。

「昨日一緒に行ったことはベンさんには内緒ですよ。」

「わかってるよ。ボクだって、あの店に行ったことはあんまり知られたくないからね。」

そんな会話を交わしていると、ニコニコとした顔でベンさんが近づいてきた。

「よおーっ!二人揃って何の相談だい。面白そうな話なら、オレも混ぜてくれよ。」

浩市は黙ってベンさんを別室へと誘う。

「先日の北海道の記事ですがね。いつごろ上がりますか?ボクの方も現像するタイミングが欲しいものですから。」

と話を強引に持っていく。いずれはしなければいけない話でもあるので都合が良かった。

「あれな、あれはもう少し時間をくれ。大事なところのメモを失くしちまってな、思い出しながら書いてるとこなんだ。まあ締め切りも来週だからそんなに遠い未来じゃない。」

「よろしくお願いしますよ。カジ君とこの紅葉の写真を三百枚ぐらい選ばなきゃいけないみたいだから。」

「わかった、急いでやるよ。それはそうと今晩ヒマか?新しい店を見つけたんだ。十勝の店とよく似た感じの店でな、一度おまいさんを連れて行こうと思ってるんだが・・・。」

「それは遠慮しておきますよ。ボクの代わりにヒデちゃんやカジ君を連れて行ってやって下さい。彼らならきっと喜びますよ、ボクと違ってね。」

「馬鹿言え、おまいさんと一緒に行くから楽しみなんじゃねえか。」

「ええ?ボクは行きませんからね。それよりも原稿の方、お願いしますよ。」

浩市はそれだけ言い残して別の編集室へと足を向けた。

あとはお決まりのあいさつ回りと雑談で時間をつぶした。


午後からは、カメラ仲間との会合があった。商業写真専門のカメラマンたちの集まりである。ここへ来ると新しい技術やカメラその他部品の新製品の情報など、カメラマンにとって必要な話題に事欠かない。

そして浩市はここで思いがけない友人に出会う。

「よお浩市、久しぶりだな。」

思いもよらず声をかけられた浩市は少し驚いた。

「達也じゃないか。本当に久しぶりだな。北海道にいたんじゃなかったっけ?」

声をかけてきた彼は、上条達也と言って大学の同級生である。先日の写真展で名前を見かけた友人というのは彼のことであり、彼とは学生時代からともに腕を競った仲であった。

いやいや、腕だけではなく、直美をどちらの彼女にするかと競った仲でもあった。

「あれから仲良くやってるか?大学時代はお前に負けてばかりだったことを今でも思い出すよ。技術でも女でもな。」

「昔の話じゃないか、それにしても写真展見たぞ。いい写真じゃないか、あの構図はボクには思いつかないよ。しかも入賞だろ?負けたと思ったよ。少し悔しかったかな。」

「ふん、一つぐらいお前よりも勝てるものがあってもいいじゃないか。まだたったの一勝目だよ。今までオレが何連敗してきたと思ってるんだ。」

「達也が勝手に負けたと思ってるだけじゃないか。ボクは勝ったなんて思ってないよ。」

「一番大きな負けは、直美を振り向かせられなかったってことかな。オレもそこそこの自信はあったんだけどな。結局は強引なオレがジェントルなお前に負けたんだよ。あんまり悔しかったから、結婚式にも行かなかったんだけどな。」

「ウソ言え、キミはあの頃海外へ行ってたじゃないか。アメリカだったっけ?」

「恋に破れて失恋旅行に行ってたのさ。」

「武者修行に行ってたくせによく言うよ。ところで北海道が拠点じゃなかったっけ?」

丁度良い区切りで浩市は話題を変えた。

「そうだな札幌と帯広が拠点かな。今日は別の打ち合わせが東京であったもんだから、ついでにそこの知り合いについて来ただけなんだよ。でも思わず旧知の友人に会えたんだから、今日はついてるかもな。」

「いつ北海道に帰るんだい?」

「明後日だよ。明日がクライアントとの打合せ最終日さ。」

「じゃあ、この後どこかで待ち合わせないか?直美にも連絡してみるから。」

達也は少し考えた様子だったが、スケジュール表と照らし合わせると、

「そうだな。十九時からならフリーになる。どこへ行けばいい?」

「新宿でいいかな。大した案内はできないけど。

「直ちゃんの顔が拝めるなら、汚い食堂でも我慢するよ。」

「わかった、じゃあ後で。」

浩市は現在の会員仲間のグループに合流して会合に参加した。


会合が始まる前に直美にはメールで連絡をしておいた。

=新宿駅南口十九時集合、達也と食事会。一緒にどう?=

返ってきた返事は、

=少し遅れるかも、先に店に行ってて。できれば『オパール』がいい。=

『オパール』とは二人でよく行くイタリアン居酒屋で、そこのマルゲリータが直美のお気に入りなのである。

早速『オパール』に予約の電話を入れる。十九時三名。マルゲリータが食べられるコースを一緒に注文しておいた。会合は十七時に終了する。会場を退出する際に再度達也を呼び止めて食事会の確認した。

「少し遅れるけど、直美も来るらしいよ。」

「それは楽しみだな。オレは一旦宿に戻るよ。煩わしい書類を置いてからでないと、愛しの君とは楽しくおしゃべりできそうにないからな。」

結局、最初の約束どおり新宿駅十九時の待ち合わせとなるが、果たしてそれまでの二時間の間をどう過ごそうか考えた。一度家に帰ってまた出てくるか。時間的には余裕があるが、一旦家に帰ってから出直すのは気分が優れない。となると、思い浮かぶのは『ライムライト』だった。今日は水曜日、キョウコを指名できる日でもあった。

会場を後にしてそそくさと店へと足を向ける。時間的に1セットだけの逢瀬となるが、少しでも会えるチャンスがあるなら、その機会を生かしたい。

まだ開店時間には余裕があった。浩市はキョウコへの手土産を物色し始める。

『ライムライト』への飲食物の持ち込みはご法度だ。食べたいものは店内で注文せよとのお達しである。よもや唇を合わせる家業の嬢たちが、ソース味やニンニク味で他の席に回るわけにもいくまいて。我とて折角嬢の匂いを堪能しに来ているのにタレの匂いは勘弁である。

浩市は百貨店の地下を探し歩いているうちに、珍しい缶詰を見つけたので、それを買い求めた。キョウコに一つ、直美に一つ、そして達也にも一つ。

買い求めた缶詰を鞄に詰めて、いざ店へと向かう。


見慣れたお馴染みの看板の前に立ったのが丁度夕方の六時ジャスト。今まさに開店をスタートするが如く店内に音楽が鳴り始めたところだった。

ボーイさんにキョウコの指名を告げてフロアに入る。ボーイさんも浩市がキョウコを指名するパターンをすでにインプットしているようだ。顔色一つ変えず、眉一つ動かさずに応対する。

「また来ちゃったのね。」

現れたキョウコの第一声がこれだった。

「また来るっていいませんでしたっけ?」

浩市も負けずに応戦する。

「丁度いい時間帯に体が空いたので、これはまさに運命じゃないかと思いましたよ。」

「大袈裟ね。たまたまよ。あんまり大きなことを想像しない方がいいわよ。」

キョウコはやや嗜めるように言い聞かせた後、すっと浩市の手を取り、唇を合わせる。やがて祠の奥から現れる妖艶な女神も妖しい匂いとともに浩市を惑わせた。

「今日は直ぐに出ます。このあと友人と待ち合わせなので。だから明日、ボクに時間をください。先日一緒に行った喫茶店で会いましょう。十一時半でどうですか?」

「強引ね。そんな強引な誘いに乗ると思う?」

「キョウコさんならきっと来てくれますよ。待ってますから。」

そう言ったまま浩市はキョウコの胸の中に顔を埋める。

「私がくるまで、ずっと待ってるつもり?」

「待ってますよ。きっと来てくれますから。」

「行ってどうするの?」

「お昼ご飯を一緒に食べるだけですよ。どうせボクはそのあと会議があるから。」

「うふふ。安心させようって魂胆ね。」

「だってホントのことですから。一緒にステキなランチタイムを過ごしたいだけですよ。」

「考えておくわ。」

キョウコは浩市の顔を抱きかかえるように両手で覆い、自らの胸に埋めさせた。

時間はゆったりと流れているように思えたが、この機会に残された時間は限られている。浩市はキョウコの匂いを吸い尽くすかの如く深呼吸を繰り返す。そして柔らかな唇の挨拶を求めるのである。

「あなたは不思議な人ね。」

キョウコはそんな言葉をふと呟いた。

「おかしな人って言われたことはありますけどね。」

「そこが魅力なのかもね。」

「褒め言葉と受け取っていいんですか。」

「うふふ。さあね。」

そのタイミングで浩市はお土産の缶詰を取り出した。

「ちょっと面白いものがあったから。」

そう言って鞄から取り出した。

「何これ?」

「缶詰ですよ。チョコレートケーキのね。ちょっと面白そうだったので買ってみました。」

「あははは。コウちゃん、こういうの好きなの?面白いわね。」

そんな何気ないネタが二人の話を弾ませた。次いで、まったりとした時間がたちまち二人の距離を縮めていく。

しかし、その時間が永遠にあるわけではない。二人が入り込んでいた世界から、突然現実へと引き戻される店内コールが遠くで聞こえた。

「さあコウちゃん。夢の世界はおしまいよ。現実の世界に戻っていくのよ。お友達との約束があるんでしょ。」

「そうですね。明日、待ってますから。」

そう言ってシートを立つ浩市。そっと出口まで見送るキョウコ。二人の笑みだけが風のように流れる。

「また来てね。」

そう言って送り出すキョウコのセリフは、入り口に立っているボーイに聞かせるためのものだったのか。浩市にはそう聞こえていた。


新宿駅の待ち合わせには浩市が最も遅く、時間ギリギリで到着した。

「遅いじゃねえか。どこで油売ってたんだ。先に一杯ひっかけてきたか?」

「ちょっと会社によって明日のスケジュールを確認してたら遅くなっただけだよ。」

「おかげでこっちは愛しの直ちゃんと久しぶりにおしゃべりできたけどな。」

「そうね。久しぶりだったわね。で、どこへ連れて行ってくれるの?」

「『オパール』に連れて行けって言ったのはキミじゃないか。コースも予約してあるから。さあ行こう。」

三人の同級生は久しぶりに肩を並べて街路樹の下をそぞろ歩く。

店に到着した三人は丸テーブルに腰掛けて落ち着いた。

今宵の宴は白ワインからスタートする。

「乾杯。オレとキミたちとの再会を祝して。」

達也は楽しげに杯を掲げる。

「いつだったかな、富士の写真展があって達也の写真を見たのは。いつからコンクールに応募してるんだい。」

「そうだな、もう五年や六年は出展してるよ。入賞したのはそれでも二回だけだよ。」

「コウちゃんも何度か挑戦してみたよね。でもせいぜい佳作が精一杯だったよね。」

「ゲイジュツ的センスはないのかもね。だから商業写真で食ってるんじゃないか。」

「なあ浩市、まだまだオレたちもどんな才能が隠れてるかわからない。だから、もっと色んなことに挑戦していいと思ってる。この先、四十、五十になってどんどん頭が固くなる前に、色んな題材にチャレンジしておかなきゃいけないんだ。」

「ところでタッちゃんは結婚したの?」

「うーん、痛いところを突いてくるな。キミに振られてからオレはずっと独身を守り通してるんだぜ。あわよくばお前たちが離婚するのを待ってると言ってもいい。それぐらいキミに惚れていたのに、キミはオレじゃなく浩市を選んだんだ。」

「あら、アタシってそんなにモテたんだっけ?」

「ああ、とってもチャーミングだったからな。それにデキる女だったし。予選を勝ち残るのだって大変だったのに、結局は決勝戦の最後に持っていかれた感じだよ。浩市の何が良かったの?」

「そうねえ。結局この人が一番優しかったからかな。それにコウちゃんがそんなガツガツしてるようには見えなかったし、それがよかったのかも。」

「こいつは女には不自由しないタイプだよ。どこへ行っても仲間ウチじゃ一番もてたからな。人当たりがソフトだから敵を作らない。本当は一番危ない性格なんだけどね。」

「えっ?どうして?」

「色んな人にもてるんだぜ、どこへ行ってもさ。だから浩市の出張先には何人もの隠れた愛人が発見できるかもよ。」

「馬鹿なこと言うなよ。人当たりはいいかもしれないけど、最終的にはなんか物足りないって言われるのがオチだよ。そろそろ直美もそう思い始めてるかもよ。」

「うふふ、そうね。そうかもね。」

「ってことは、オレにもチャンスがあるってことかな。」

「ないわよ。過去に通り過ぎた男には興味がないの。どうせなら新しい男を探す方がステキじゃない?」

「相変わらず強いね。浩市が尻に敷かれっ放しの家庭環境が目に浮かぶよ。でも子供はまだなんだろ?浩市の働きが足りないのかい?」

その話題に触れた途端、直美の顔色が曇る。

「達也、その話はいずれな。」

「ん?なんか聞いちゃ不味いことだったのか?」

「いいのよ。私が産めない体だってわかったのよ、この間。」

「産めないんじゃない。出来にくいだけなんだ。二人で頑張ればちゃんと産めるよ。」

今まで調子よく話していた達也の雄弁が止まる。

「ごめんよ。悪気はなかったんだ。知らなかったし。でも浩市がちゃんとフォローしてくれてるんだろ。ならきっと大丈夫さ。」

「コウちゃんね、どんな時も優しいの。私が一人でピリピリしてたの。旦那がコウちゃんじゃなかったら、とっくに家を飛び出してたかもしれない。それぐらい良い人なのよ。」

浩市は少し沈みがちな話題になった雰囲気を盛り上げるために、写真コンクールがあることを話しだした。

「この間、仲間内で飲みに行ったときに制作の若手が持ってきた話なんだけど、雪をテーマにした写真コンクールがあるんだ。ボクも久しぶりに応募しようかと思ってる。」

「いいじゃないか。どうせなら北海道までおいでよ、二人で。オレが観光案内してやるからさ。直ちゃんも北海道なんてなかなか来られないだろ?」

「そうだな。行ってみてもいいかな。どうする?」

浩市は気持ちがやや沈みがちだった直美に聞いてみる。

「そうね。行きたいわね。でも今の仕事を受けちゃったら、何日も続けての休みは取れないわ。コウちゃん一人で行ってくれば。」

「直美と行きたい。ボクだって簡単には休めないよ。でも正月休みを使えば行けるんじゃない?飛行機のチケットを取るのが難しそうだけど。」

「そうね。行きましょうか。」

直美の表情に、ようやくいつもの笑顔が見られる。

「じゃあ、宿はオレが手配してやるよ。日程が決まったら連絡してくれ。」

達也は名刺を二人に渡した。

「動きやすいのは札幌かな。あとはどこへ行きたいのか考えておきなよ。」

「達也はコンクールどうする?」

「オレは止めておくよ。お前と競って勝った試しがないからな。」

久しぶりの会話も弾み、順当に時間は過ぎていく。直美にはやや耳が痛い話もあったが、達也にはわからぬ事情である。浩市も達也も上手くフォローしてくれたし、北海道旅行も決まったし、少しばかり神経質になっていた自分を見直すことができたかもしれないと思っていた。

そうした三人の話の合間にも料理は順繰りに運ばれていたが、最後のマルゲリータが出てくる頃にはワインも赤になり、そろそろ酩酊の時間帯に突入していた。

「オレたちももう三十路だ。いつまでも若くはない。オレだってそろそろ落ち着いた生活環境が必要かもしれないと思っている。どうかな、最後のチャンスをオレにくれないか。」

直美はキョトンとした表情で達也の顔を覗きこんでいる。

「もちろん冗談よね。私はコウちゃんとの夫婦生活に不満は無いわ。今のところあなたにチャンスは無いわよ。でも、そんなこと普通、面と向かって言う?そのデリカシーの無さが私には受け入れられないのよ。」

達也は逆に安心したように頷いた。

「いいさ、二人が幸せなら。それが確認できただけでも、今日の同窓会は意味があった。オレは安心して北海道に戻れるよ。冬に二人が尋ねてくれるのを楽しみにしてるからな。」

達也がどれだけ本気だったかはわからない。しかし、直美がハッキリと言い放った経緯には、先日のヴァイオレンスチックな夜の出来事も少なからず要因となっていたのかもしれない。

久しぶりに達也との時間を楽しんだ浩市と直美は、最後に北海道での再会を約束して、この夜は別れた。

帰り道、直美は浩市と腕を組んで歩いていた。

「コウちゃん。」

直美は下を向きながら浩市の名前を読んだ。

「なに?どうしたの?」

「さっきタッちゃんに言ったこと。私はコウちゃんと一緒にいたいと言ったけど、コウちゃんはどうなの?」

「どうしてそんなこと聞くの?」

「だって、そのあと直ぐに反応してくれなかったから。」

どうやら直美はすぐにでも浩市に「オレもだよ」と言って欲しかったようだ。

「ボクは感情を表に出すのがヘタかもしれない。でもキミと一緒にいたい。ずっとそう思ってるよ。」

浩市はなぜか濁したような言葉になった。心のどこかにキョウコのことが過ぎったからかもしれない。少なからず、明日の昼に会うことを約束しているのだから。

女とは勘の鋭い生き物である。

浩市の言葉にどこか不安を感じているのであろう。腕組みしたまま、グッと自らの体に引き寄せて、浩市のぬくもりを確かめようとする。

そのいじらしさに応えぬ浩市ではなかった。

この日の夜、二人はまどろみを覚えながら吐息を確かめ合う時間を過ごすことになったのは言うまでもない。



次の日の朝、直美と浩市は同じ食卓でモーニングを分かち合っていた。

今朝のスクランブルエッグを仕立てたのは浩市だった。

昨夜のいじらしげな直美の表情に不安を覚えたのは本人だけではなかったのである。

彼女の脳裏に走った一抹の不安を払拭するためには、その日のモーニングにとびきりのスクランブルエッグが必要だったのである。

直美の心の中にはハンデキャップを背負う自分の姿が映っていた。その姿を消し去るために一日も早く子供が欲しい。もっと若い頃にその努力をしておくべきだったと、今更ながらに後悔している。

「今日は遅いの?」

「そうだね。出かけるのもゆっくりだし、帰りも遅いかもしれない。」

「そう。」

直美は寂しげに呟いて下を向く。

「なるべく早く帰って来るよ。なんなら帰る前に電話しようか?」

「うん。私は今日は早く帰れるから、ご飯作って待ってるね。」

そう言って直美は先に玄関を出た。

どこからか見えていたのだろうか、そのタイミングを見計らったようにケータイの着信音が鳴る。

「もしもし。」

電話の相手は達也だった。

「昨日は楽しかったよ。でもあとから気になってな。」

「何のこと?」

「子供の話さ。なんか急に気まずい雰囲気になりかけたからな。」

大胆な性格の割にはそういうところは気にかかるのだろうか。浩市はどこまで話してよいのか迷ったが、大筋だけは話しておこうと思った。

「実は、病院で診てもらったのさ。そしたら、直美の方に問題があるようで、今二人で病院通いしているところなんだよ。子供ができない要因が、ボクじゃなくて彼女の方にあったのがショックだったみたいで。」

「そういうことだったのか、悪いことしたな。」

「知らせてなかったんだから仕方ないよ。それに、絶対できないわけじゃないから。」

「それって受精卵移植とか?」

「まだどうするかわからない。でも二人で頑張るから、そっと見守っててよ。」

「ああ、わかった。じゃあ、オレは明日帰るから。北海道で待ってるよ。」

最後は再会を約束して電話を切ったのだった。

浩市は、「ふう。」と大きく深呼吸をした。

コチラでは直美を気遣い、一方ではキョウコに気を許している自分がいる。直美が嫌になった訳じゃない。やや不足を感じていることもあるが、二人を天秤にかけている訳でもない。

ここ数日の直美の表情や仕草にはいじらしさと愛おしさを感じている。けれどもキョウコに会いたい気持ちは変わらない。最も優柔不断な自分の気持ちが遣り切れない。

それでも浩市は、今日の自分からの一方的な約束を優先した。



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