第7話 映える五重目のシルエット

それは突然訪れる。


そろそろ夜明けの時間帯はコートがなくては過ごせなくなってきたある朝の事。

浩市は羽田空港にいた。北海道で行われているばんえい競馬密着取材の仕事のためである。期間は一週間。そう、黒さんの仕事である。ディレクターはヒデちゃんではなかったが、ライターはベンさんだった。

今回のディレクターである黒さんはヒデちゃんと比べると、ややお堅いのが玉に瑕である。浩市はもう慣れたが、ベンさんはのっけからやや不平な顔をする。出張当日は羽田空港に七時集合だというのだ。どうやら初日から時間を有効に使おうという魂胆らしい。

黒さん側でも、早く取材が終われば、夜の時間を有効に使えるだろうという配慮のつもりだったろうが、如何せん、彼の仕切る取材で早く終わった試しなど無いことをベンさんは理解していた。

「何でこんなに早く行かなきゃいかんのだ。テレビ局で大物タレントが待っているわけでもあるまいし。」

羽田空港に七時に集合するためには、浩市でも遅くとも六時には家を出る必要があった。ベンさんはもう少しゆっくりと寝ていたかったに違いない。今朝もやや酒臭い。

「べんさん、今日こそは取材も早く切り上げますから、後でゆっくりとススキノなり札幌なりを堪能してください。」

いつものように仕事前の段取りだけは調子がいい。

「バカヤロ、行き先は帯広だろ?札幌と違って綺麗なおねいちゃん堪能できるとこなんて、そんなにねえだろうによ。」

「文句言ったってしょうがないですよ。もう来ちゃってるんだから、このまま行くしかないんですよ。」

浩市はベンさんを嗜めて、荷物を預けに向かう。

一週間とは久しぶりの長期出張である。ゆっくりできる日もあるだろう。


流石に十月にもなると東京と帯広との気温の差は明らか過ぎる。日によっては、昼間の時間帯には長袖を肘までめくる人がいる東京とは違い、帯広では上着なしでは外出すら及ばない。だから三人の鞄はパンパンに膨らんでいる。

しかし、黒さんにも計算違いがあった。競馬場の一日は早い。彼らが競馬場に到着した頃には、あらかたの仕事は終わっており、後は打合せとロケハンをして終了というのがこの日の行程となる。おのずと業務としての取材は夕方には終了し、後はベンさんお待ちかねの時間となる。

「さて黒さん、珍しく予告どおり早く終わったな。今日の宿はどこだい。早いとこ一杯ひっかけに行こうぜ。」

クルーの移動手段はクルマである。レンタカーを一週間借りている。競馬場から市内の宿までは割りと近い。三人はチェックインだけ済ませて街中に出てみた。

飲んべのベンさんは早速こじゃれた赤提灯を見つけて中を覗いてみる。

「感じの良さそうな店だ。ここでいいだろ。」

経験豊富なベンさんの鼻は良く利くらしい。確かにいい匂いがする。

「明日の取材は、朝が早いんですから飲み過ぎないようにしてくださいね。」

飲む前から黒さんの忠告が入る。

「早くに酔ってもらって、早くに寝てもらった方がいいんじゃない?」

浩市はややベンさんよりの助言をすると、自らも熱燗を注文した。

流石に北海道の山奥ともなると日が落ちた後は寒さが身に沁みてくる。こういうときにはあったかいものを体に放り込むに限るのである。

「制作費には限りがありますので、贅沢はダメですよ。」

ここでも黒さんの目が輝いている。

それでも流石に北海道だ。普通の寄せ鍋でも東京で食べるそれとは全く違った魚が入っており、三人は十分に満足できた。

寒さに備えるために存分な熱燗をも体に入れた三人はやがて店を後にする。

翌日の起床時間は午前四時だ。初日から遅刻するわけには行かないので、この日は大人しく宿にこもった。

しかし、三日目ともなると時間の使い方に余裕が出てきてしまう。特にベンさんには退屈な時間が耐えられないようだ。

「黒さん、ちょっと街中でおねいちゃんのいるところを探しに行かねえか?オレはもうこれ以上退屈な夜は耐えられないよ。」

「それもオレが調達するのかい?お前さんの部屋まで覗きに行こうなんて思わねえから、マッサージでもデリヘルでもなんでも呼べばいいじゃねえか。」

「そんな野暮なこと言うない。みんなで楽しみに行こうって言ってるんだ。ちょっとぐらい楽しみな店を探してくれたっていいじゃねえか。」

すると、黒さんは渋い顔をしながらもホテルのフロントになにやら尋ねてくれたようだ。少し冷めた様相での夕食を終えると、黒さんはスッとメモ書きを渡す。そこにはベンさんご所望の店が目の前に提示されていた。

「なになに、『ピンクキャロット』だって?こういうところだよ、オレが求めていたのは。さあ、さっさと飯を食ってみんなで行こうや。」

ベンさんはむんずと浩市の腕を掴む。まずは逃がしちゃならんとでも思ったのか。

「ボクは遠慮しておきますよ。」

すかさず浩市はベンさんに念を押したのだが、逆に黒さんが追い討ちをかける。

「おいコウちゃん、オレの苦労を台無しにするつもりか?嫌だとか遠慮だとか言わねえで今日は行くんだよ。」

こうなってしまってはもう仕方がない。浩市も年貢を納めるしかなかった。


JR駅の裏側にちょっとした歓楽街があり、その一角にその店はあった。文字通りピンク色で彩られた外壁とピカピカ光る看板が、すでに妖しさ満開の様相だ。

「ホテルの支配人に聞いたんだ、そうそう間違いはあるまいて。」

そう言いながら意気揚々とドアを開ける黒さん。中からは甲高い声が聞こえてきた。

「いらっしゃーい。何名様?あら、初めての顔ね。どこから来たの?いい子がたくさんいるわよ。どの子がいい?」

その店の女主人らしきマダムが現れて、いきなり立て続けに畳み掛けてくる。

それを仕切るのは黒さんだった。

「Gホテルの支配人から聞いてきたんだ。よろしく頼むよ。」

「あら、あそこのケンさんの紹介なの?ならよろしくしてあげるしかないわね。三人?一緒がいい?別々がいい?」

「折角だから別々で頼むよ。」

「解ったわ。女の子は任せて。ちゃんといい子をつけてあげるから。ボーイさん、三名様二番と六番と十番のテーブルに案内してあげて。」

三人は少し怪しげなボーイに連れられて、次々に案内される。

土地の割にはと言っては叱られるかもしれないが、この店の女の子はみんな若くてかわいい子ばかりだった。

黒さんについた女の子はギャル系で割りと派手な装い。ベンさんについた女の子は一番若そうなスレンダーなキレキレのスタイル。浩市についた女の子はややポッチャリの最も素人っぽい垢抜けしてない普通の子。誰が見定めたか知らないが、それぞれの好みにあったセレクトである。

「こんばんわ。初めまして、ヨウコっていいます。よろしくね。」

浩市は少し耳を疑った。「キョウコ」に聞こえたからである。見た目はキョウコよりは少し若いか。体型はミキとよく似ている。化粧も薄く、爪も短い。

「ここはどんなお店なの?なんのお店なの?」

するとヨウコは一瞬あっけにとられたような表情を見せたが、次の瞬間おなかを抱えて笑っていた。

「あははは、面白い人。何も知らないで入ってきたの?普通のキャバクラよ。お兄さん、キャバクラって行ったことある?」

「一応はね。でも何のお店か誰にも聞かされてなかったから。いつもはもう少しエッチなお店にも行きますよ。」

「へえ、見かけによらないのね。エッチなお店ってどんなの?」

「おっぱい触ったり、キスしたりできるお店ですよ。」

「そうなんだ。ここのお店も女の子がOKならキスまではできるわよ。」

「それは忠告ですか?それともお誘いですか?」

「うふふ、一応忠告ってことにしておくわ。だって、いきなりOKってなんぼなんでも、でしょ?」

そういうことが出来る店だからこそ、個別の仕切りになっていたのである。

「膝の上に乗ってもいい?」

ヨウコは驚いたことに、積極的な誘いを仕掛けてきた。

「もしかして、ここはエッチなキャバクラですか?」

「うふふ。違うわよ。普通のキャバクラよ。おさわりはダメよ。」

そう言いながらヨウコは自慢の胸を浩市の鼻っ面へ押し付けてくる。

ムッとした女肌臭が浩市を襲う。

「名前も似ているが匂いも似ている。」

一瞬にしてヨウコの匂いを分析し始めている。

その途端に浩市の手はヨウコの背中に回り、グッと抱き寄せてその匂いを浴びるように楽しんでいた。

「どうしたの?」

「思い出したんですよ。愛しい人の匂いを。」

浩市は彼女の匂いをただ確認するだけでよかった。そこから先は動きが止まり、ただ彼女の匂いだけを堪能していた。

「ダメって言ったらホントに触らないのね。」

ヨウコは少し物足りなさを感じたようなセリフを吐いた。

「ボクはこれで満足ですよ。」

「ウソばっかり。」

そう言うとヨウコは少しばかり胸をはだけさせて浩市の顔にピタリと当ててきた。

「無理しなくていいですよ。ボクはあなたの匂いをもらえればそれでいいです。」

「あら、そんなこと言わないでちゃんと相手をしてよ。なんだかあたしが気に入られてないみたいじゃない。」

「そんなことないです。でもココは普通のキャバクラなんでしょ?エッチなことしちゃいけないでしょ?」

「ウソよ。女の子がいいって言えばいいのよ。ほら、遠慮しないで。」

ヨウコは浩市の手をとって自分の胸元に導く。

それでも浩市はすぐにその手を引っ込めた。

「ありがとう。でも今日は匂いだけでいいです。思い出した匂いなので。」

「何?奥さんの匂いなの?」

「さあてね。内緒ですよ。」

「そんなこと言ってる時点で奥さんじゃないじゃない。いけない人ね。」

「色々あるんですよ。まだいけない関係になっていませんから。」

「まだって言うことは、その気があるってことでしょ?おんなじよ。」

「そうかもしれませんね。だから、今日はこれでいいです。」

浩市は黙って彼女を抱き寄せていた。

「うふふ、かわいい人ね。」

そう言ってヨウコは浩市に唇を合わせていく。拒否する理由もない浩市は彼女に流れを任せて、その行為によって発生する匂いも楽しんでいた。

「ありがとう。」

「なにが?」

「ボクの相手をしてくれてってことで。」

「だってお仕事だし。それに、あなたきっといい人よ。奥さん以外の人へのいけないことに踏み切れてないんだから、私にもでしょ?ちがう?」

「ボクがいい人かどうかは別にして、流れに任せて踏み切れないのは確かかも。」

浩市はそう言いながらも自分がたどってきた道のりを思い出していた。直美との結婚は十分に考えた後のことだった。キョウコとのやり取りはどうだろう。少なくとも一目惚れから始まっている。

浩市は女の子と付き合っている最中でも、基本的には浮気をしないタイプだった。ウソを吐くのが面倒くさいからというのが彼なりの理由である。

しかしどうだろう、このところキョウコと会うために多くのウソを吐き始めている。色んな葛藤が渦巻きながら気持ちがぐらついているかも。

キョウコとのことは本当の恋なのだろうか。いや、この北の果てでも思い出すぐらいなのだから、きっと恋なのだろう。頭の中で自問自答しながら頷いていた。

ヨウコはしばらく浩市の膝の上で熱いキスをプレゼントしてくれていた。まったりとした時間がゆっくりと過ぎていたが、やがて店の奥から合図があったのだろう、浩市の耳元でそっと囁くように呟いた。

「そろそろ時間だって。どうする?」

「ボクはこれで失礼しますよ。これ以上甘えているといけないことをお願いしてしまうかもしれないから。」

「うふふ。そんな気もないくせに。いいわ、また明日も来てくれたらいいのよ。まだ明日もいるんでしょ?それとも東京へ帰るの?」

「ノーコメントにしておきます。あなたはステキな人です。だからボク自身が怖くなるので、少し後ろ髪が惹かれるぐらいでお別れしましょう。」

「仕方ないわね。折角楽しそうなお兄さんを見つけたと思ったのに。でも私の名刺ぐらいは受け取ってくれるわよね。でも奥さんには見つからないようにね。あっ、ちょっと待ってね。」

ヨウコは店の名前と源氏名が書いてある名刺を取り出すと、その裏になにやらメモ書きして浩市に渡した。

「裏のメモはお店を出てから見てね。」

そういって名刺を持った浩市の手を上着のポケットへと潜らせた。

浩市は黙って名刺をポケットの奥深くに忍ばせて席を立つ。

黒さんとベンさんは延長タイムに入ったのだろう。出口に現れる様子もなかったので、一人でドアを抜ける。

そしてヨウコは出口まで見送りにやって来る。

「きっとあなたはもう一度、私に会いに来てくれることになるわよ。そう予言しておくわ。そうそう、名前だけは教えておいてね。」

「コウイチだよ。サイトウコウイチ。もう会うことはないと思うよ。」

「そんなことないわ。私の予言って外れたことがないのよ。」

ヨウコは別れ際に、もう一度唇ににキスをして、ニッコリと微笑んでから浩市を送り出した。

店の外に出ると、東京では考えられないほど冷たい風が渦を巻いて、歩く人々の横を通り過ぎていた。その風の音を耳元で聞きながら襟を立てた浩市は、振り返ることもなく宿へと歩を進め始めていた。

結局ヨウコにもらった名刺の裏を見ることもなく・・・。


宿に帰った浩市は思い出した匂いと記憶をたどって想いに耽る。キョウコは今頃どうしているだろうかと。妻よりも先に思い出すのだから、すでにいけない淵の底へと陥っているに違いない。

もがいても出られない、あがいても抜け出せない、そんな淵の底へ。

いつの間にかベッドの上でウトウトしていた浩市だったが、ドアをノックする音で目が覚める。時計を見ると夜の十時を回っていた。

ドアを開けると、黒さんとベンさんがそこに立っていた。

「どうしたコウちゃん。早く帰ったみたいだけど、どっか調子が悪いのかい?」

早く帰った浩市を心配して様子を見に来てくれたようだった。

「ありがとう。別にどこも悪くないです。ボクには合わないと思って先に失礼しました。」

「そうかい。コウちゃんあんまりああいう店に行かないからなあ。でもあの店は『ライムライト』と同じぐらい良かったとオレは思ったんだけどな。」

ベンさんにはお気に入りのお店となったようだ。

「なんだい、その『ライムライト』っていうのは。」

黒さんもすかさず興味を示す。

「新宿のな、ヒデちゃんがよく行くキャバの店だよ。いい女の子がたくさんいてな、オレもお気に入りの女の子にはまってる最中さ。コウちゃんも連れて行ったんだけどな、イマイチだったらしい。」

「だったらコウちゃんの代わりに今度はオレを連れて行けよ。」

「そうですよ。ボクなんかよりも黒さんと一緒に行った方が楽しいんじゃないですか?」

「馬鹿言え、スケベな店に行き慣れてるオッサンと二人で行くよりも、慣れてないコウちゃんと行くから面白いんじゃねえか。今度一緒に行く時にはボックス席で隣のシートに座ろうな。」

「絶対に嫌です。特にそんなお店では、自分の痴態を見られたくはありませんよ。」

「とりあえず、その『ライムライト』っていう店はオレにも教えてくれよ。」

「ボクは『ライムライト』には行きませんので、黒さんが一緒に行ってあげてください。明日の『ピンクキャロット』もボクは行きませんよ。」

浩市は黒さんの問いに何気に答えたつもりだったが、言い終わってからはっとした。

目の前ではベンさんがニヤニヤと笑っている。

「その割には店の名前をちゃんと覚えてるじゃねえか。オレたちに内緒でこそっと行くつもりだったな。」

少し背中がヒヤッとした思いだったが、ベンさんの言うように内緒で行くつもりではなかったので、すぐに冷静さを取り戻し、彼の疑問に答えた。

「割と覚えやすい名前だったのでね。もう行くつもりはありませんよ。さあ、明日も早いので、今日はもう寝ましょう。」

浩市はドアの向こうへ二人を追い出して鍵を閉めた。あとはウトウトしていた夢魔の続きである。そして目覚めたのはまだ暗い明け方だった。

それから数日後、十勝での仕事は何事もなかったかのように終了するのである。結局浩市は再び『ピンクキャロット』を訪れることもなく・・・。



十勝取材から帰って来た東京の冬は、随分と暖かく感じるものだ。

今朝の浩市は神田明神にいた。浩市は特にどこの宗教にも属していないが、苦しい時には神頼みをする現代の典型的な日本人である。それゆえに神田明神にいるのである。神田明神は縁結びの神様だから。

キョウコを意識していることもある。直美とのこともある。とにかく人との縁のバランスが崩れかけていると意識している浩市は、色んな意味での縁結びを神頼みしに来たのである。

「溺れるものわらをも掴むか・・・。」

と言いながらも、実際は具体的に何を神頼みするのかわからない。バランスが崩れかけているときとはこんなものである。ざっくりと今後の動向をお願いし、ひと通り手を合わせた後、階段を下りながら呟いていた。

「午後からはヒデちゃんと写真選びの仕事が待っているし、その前に上野あたりをぶらぶらしようかな。」

浩市はアメ横の雰囲気が好きなのである。その好きな風景を想像しながら門を潜り抜けようとしたとき、対面から現れた姿に驚いて立ち止まる。

「キョウコさん。」

「コウちゃん。」

一瞬二人の間で時間が止まる。冬を告げる風がその間を通り抜けた。

「こんな所で会えるとは思いませんでした。お一人ですか。」

「そうね、一人よ。コウちゃんも一人?何をしてたの?」

「ここは縁結びの神様ですからね。キョウコさんのことを想いながら神頼みしてたところですよ。思いのほか早く叶いました。」

「うふふ。でも私はまだお願いしてないわよ。」

「キョウコさんもボクに会えるようお願いしに来たんでしょ?」

「何て答えればいいのかしら。難しいわね。でも半分は合ってるかも。」

浩市はキョウコを導くように門の中へと誘い、並んで境内へと歩く。

「今からお祈りしてください。ボクはすぐにお礼参りしますから。」

「強引ね。一緒にお参りするの?まあいいわ。これも何かの縁なのかもね。」

キョウコはあきらめたような顔をして、浩市と連れ添って歩く。

二礼二拍手一礼。それが神様へお参りするための基本的な礼儀である。

最近の神社には拝礼の方法が書き記してあり、知らない人たちでも間違いなく拝礼が出来るようになっている。浩市もそれを読みながら行った。もちろんキョウコも同じである。

「さて、折角だからお茶に誘ってもいいですか?何か急いでます?」

少し考えたような仕草を見せたが、やがて迷っていた顔が笑顔に変わる。

「仕方ないわね。お茶だけよ。」

「じゃあ決まりね。」

浩市は近くにある喫茶店にやや強引に連れ込むこととなったが、一緒にいる時間が過ごせることで、少なからず喜びを感じていた。

「もしかして本当に縁があるかも。」

などと勝手に思い込みながら。

寒い風に晒された後なので、あたたかいコーヒーはありがたかった。

浩市は先日の北海道出張の話を持ち出していた。

「先日、北海道に行ったんですよ。大きな馬の特集でね。もう向こうは冬の寒さでした。」

「私も一度行ったことがあるわ。でも夏だったから雪も見てないのよ。」

「雪祭りは行った方がいいですよ。やはり一大イベントだけあって、迫力が違いますからね。特に真駒内の雪像は大きいですよ。」

「うふふ。何だか楽しそうね。」

北海道の話題を切り出したのには訳があった。あの日出会ったヨウコという嬢がキョウコのイメージと重なっており、キョウコに会ったことでヨウコを思い出したからである。

「なんなら今度の冬、お連れしましょうか?」

浩市は半ば冗談で誘ってみた。

「ダメよ。そんなことしたら大事件になるわよ。」

キョウコから返ってきたのは想像できる範囲の返事だった。

「それよりもコウちゃんはお仕事お休み?」

「いいえ、残念ながら午後から仕事です。でもキョウコさんが付き合ってくれるなら、その仕事はキャンセルしますけど。」

「強引ね。でも私も午後から用事があるからデートはまた今度ね。」

「それって、また誘ってもいいってことですか?」

「うふふ。」

キョウコは良いとも悪いとも言わず、ただ浩市を見つめていた。浩市はキョウコの目を見つめ返していた。このままゆっくりと時間が過ぎればいいと思いながら。

まだまだ共通のエピソードが少ない仲、他愛のない会話もただ楽しい。

気が付けば喫茶店に入ってから一時間が過ぎていた。

「さあ、そろそろ行かなくちゃ。またお店にも来てね。水曜日の早い時間にね。」

「楽しい時間って、過ぎるのが早いですね。ここでもお店でも同じでした。」

「コウちゃんお上手。そうやっていつも女の子を口説いているのね。」

「ボクはどちらかと言えば奥手ですよ。」

浩市は、近日中に『ライムライト』に訪れることを約束して別れた。そして、心の中で神田明神に礼を言いながら駅へと向かうのである。


編集室ではヒデちゃんが手薬煉を引いて待っていた。浩市が到着したのが約束の時間から五分ほど遅れていたからである。

「コウさんにしては珍しく遅いじゃないですか。忘れられているのかと思いましたよ。それともどっかでお楽しみでしたか?」

やや当たっている指摘に少しドキッとしたが、なんとか表情には表れずに済んだ。

「ランチを食べた店が立て込んでいてね。それで遅れたのさ。」

適当な言い訳だったが、それしか思いつかなかった。

ヒデちゃんは特に疑う様子もなく、仕事に取りかかる。

「さあ、適当に早く終わらせて、飲みに行きましょう。」

今回の写真選びは最終選考ではない。本来ならばライターのベンさんも交えて行うべきだったが、浩市とベンさんのスケジュールが合わなかったために、先にヒデちゃんとの予備選考を行った後に、ベンさんに最終選考してもらうという段取りである。

従って、シーン毎に選ぶ写真は数種類ずつ。ざっと百枚は候補として選択される。見比べるだけで一分としても百枚選べば単純に百分。プラスアルファの思考時間が付加されるのだから、なんだかんだで三時間は消費してしまう。気が付けば、すでに夕方の四時半を回っていた。

「コウさん、そろそろこんなものでいいでしょう。あとはまたベンさんとやりますから、今日のところはこれで終わりにしませんか。」

「そうだね。でもあともう少し、こことここだけは慎重に選ばせておくれ。」

浩市はタイトルバックとなる写真と富士を背景にした写真だけはこだわっていた。もちろん、先日見に行った写真展の影響である。しかし、それらの写真もようやく候補が落ち着き、あとはベンさんに任せることとなった。

ここから先はヒデちゃんのお得意の時間である。さあ飲みに行くぞと意気揚々と会社を出ようとしたとき、二人を呼び止める声が聞こえた。

「コウさん、ヒデちゃん、オレも連れて行ってよ。」

誰かと思い振り返ると、そこにいたのはカジ君だった。

「コウさん、たまにはボクも便乗させてもらっていいでしょ?いつも二人だけでいいとこへ行くなんてずるいですよ。」

「かまわないけど、普通に飲みに行くだけだよ。食事を兼ねてね。」

するとヒデちゃんが何かを思いついたようにニヤッとした。

「おいでよカジ君、一緒に行こう。」

今日はなにか企んでるな。浩市は一瞬にしてヒデちゃんの表情から悟ったが、こうなっては流れに任せるしかない。とりあえずは腹ごしらえだ。この日のチョイスはお好み焼きだった。大阪スタイルのお好み焼き屋が、新宿にも何軒か暖簾を下げている。ヒデちゃんは広島風よりも大阪スタイルの方が好みらしく、ときおりランチにも出かけていく。

「粉ものとビールって中年の体には悪そうですけど、止められないんですよねえ。」

「ヒデちゃんやカジ君はまだ大丈夫だろう。ボクなんかはそろそろヤバイよ。」

「いいじゃないですか。とりあえず旨い物は旨い。ビールもススムことだから、ここはパーッといきましょう。」

ヒデちゃんと浩市に便乗できたカジ君の調子は最高潮にいい感じだ。

「ビールに、とりあえず豚玉と海鮮焼きそばとスジコン巻きでいいかな。」

常連のヒデちゃん主導で注文が決まる。そしてまずは運ばれてきたジョッキで乾杯だ。早速カジ君から意外な話が持ち上がる。

「コウさん、こんなもの見つけたんですが、興味あります?」

そう言って取り出したのは、写真展の案内だった。しかもコンクール出展募集の案内だ。浩市もしばらくコンクールへの参加を思いとどまっていたが、先日の友人の作品を見てからは、少なからず心の奥底に引っかかっていた。

浩市はカジ君が差し出したパンフレットを手に取ると、中をパラパラと読み始める。

「ここ数年、ボクの写真は商業写真ばかりだからな。こういうコンクールへ出すための芸術性はかなり失われてきてるだろうな。」

すると、ヒデちゃんが割って入る。

「テーマはなんですか?もしもヌードだったらアヤちゃんにお願いしてもいいですよ。」

「ははは、アヤさんがキミの言うことを聞いてくれるほどの仲になったのかい?」

「だから言ってるじゃないですか。ボクなんかよりもコウさんの方が確実に評判がいいんですよ。」

「だから、それは他の誰かと人違いしてるんだって言っただろ。それにテーマはヌードじゃないよ。」

パンフレットの一ページ目に記載されているテーマは「雪」であった。

そろそろどこも雪のシーズンである。今から数ヶ月以内は全国津々浦々で様々な雪景色が見られるに違いない。

さらに今回の出品条件として提示されているのは“モノクロ”であること。カラー写真よりも表現力が必要なモノトーンでの描写は、かなり高い感性が求められる。モデルが白い雪なのだから尚更のことだろう。

浩市は諦めるようにため息をつきながらぼやく。

「ボクにはそんな芸術的な才能はないよ。しかも雪山旅行に行けるほど時間もスポンサーもいないしね。」

「またまたそんなコウさんらしくない事を言う。」

厳しい口調で意見したのはカジ君だった。

「ボクは以前コウさんに言われたのを覚えてますよ。色んなものを間接的に表現できるところに写真の醍醐味があるんだよって。人のいない風景の中に、大勢の人だかりを想像させる写真だって必要なんだよって。」

浩市は身に覚えがあった。いつか人気の無い川の岸辺を撮影した時に、紅葉を背景に多くの観光客が訪れている雑踏を想像しながら撮影したことがあった。実際にそれを見た人が想像できたかどうかは定かではないが、想像させる空間の演出こそが構図の醍醐味だと師匠から習っていた。

「ということは、雪の降らない東京でも雪の演出ができれば、その写真が撮れると言うことでしょうか。」

ヒデちゃんも不思議そうな顔で真面目な質問を投げかけた。

「理屈的にはそうかな。でも今のボクにその力があるかな。普段からカメラを持って、何気にファインダーを覗いてなければ、その想像力は養えないよ。ボクは今日もカメラを持ってないしね。」

「何だか弱気な発言ですね。最近宗旨替えしました?」

「ボクは昔から慎重派だよ。」

浩市とカジ君のやり取りに割って入るヒデちゃんは我が意を得たりと意見する。

「確かにね、最近のコウさんはやたら慎重派ですよ。特に『ライムライト』に行ってからは顕著と言えますね。やっぱりなんかあったでしょ?」

「もしかしてキミのお気に入りの女の子とっていう話?ボクはキミのお気に入りのお嬢さんがどんな子かも知らないよ。」

「そういったところが慎重派の所以なんですよ。コウさんは決して自分の手の内を明かしてくれませんからねえ。」

注文の品々が届いたのはそのタイミングだった。

カジ君は焼きそばを小皿に移しながら何気に提案してみる。

「とりあえず行ってみようじゃありませんかその店に。ボクもその店に行ってみたいです。コウさんが慎重ならざるを得ないような店なんでしょ。」

浩市は呆れるしかなかった。

「行ってもかまわないけど、ボクは初めに行ったときの女の子を呼んでもらうだけ。ただそれだけだよ。」

「で、結局その子といい仲なんでしょ?」

そら来たと言わんばかりにカジ君がつっこんでっくる。

「違うよ。もし、その子がボクのことを覚えていて、他の女の子と一緒にいるようなところを見られると気まずいじゃない、ただそれだけだよ。」

「それはなんていう子ですか。」

さすがは常連のヒデちゃんだけあって名前を聞けばどの子かがわかるようだ。

「内緒だよ。」

浩市はそう答えたが、カジ君に追い討ちをかけられる。

「どうせ今からいけばわかることじゃないですか。」

「確かにそうだ。うろ覚えなんだけど、ミキって言う子だったと思う。」

「ああ、おっぱいの大きなあの子か。でも、ちゃんと覚えてるじゃないですか。やっぱり通ってるでしょ。」

「そんなことないよ。以前に連れて行ってもらったキャバクラでのヒデちゃんのお気に入りの女の子の名前だって覚えてるよ。確かマオちゃんって言ったかな。」

「あ、正解です。コウさん物覚えいいですね。」

「まあ、綺麗な人だったからね。でも名前は覚えてるけど、店がどこだったか忘れたよ。」

「なあんだ。結局コウさんも女たらしってことじゃないですか。」

「ヒデちゃんの足元にも及ばないけどね。」

ややそっち系の話で盛り上がるが、カジ君が話を元に戻した。

「それで結局、コンクールはどうするんですか?ボクとしては、チャレンジしてみて欲しいんですけどね。」

「ん?どうして?ボクのスポンサーにでもなってくれるのかな?」

するとカジ君はやや真面目な顔をして訴える。

「ボクはウチの社の関係のカメラマンの中では、コウさんの写真が一番好きなんです。どことなく奥行きのある構図とか空間とかが。だから本気のコウさんの写真が見てみたいんです。これはウチの編集長なんかも言ってましたよ。」

「買いかぶりだよ。ただの商業写真さ。」

「まあいっぺん考えてみてくださいよ。ウチの編集長が推薦状を書いてもいいって言うので、もしその気になったら言って下さいね。」

「ありがとう。考えておくよ。」

浩市の頭の中では、友人が撮影した富士山の構図を思い出していた。作品とはかくあるべく。今の自分には気持ちのゆとりがない。そう思っていた。

「さあ、難しい話はおいといて、粉もん食べて、ビールを飲んで、チャチャっとセクキャバへ行きましょう。」

すでに三人してセクキャバへ行くことは決定しているようだった。

中でも一番はしゃいでいるのはカジ君だった。浩市と一緒に行くのが相当楽しみなようだ。決して一緒に座ることはないのに、である。

ところが、ヒデちゃんがとんでもない提案をしてきた。

「今日は皆で固まって座りましょうか。そういうボックス席があるんですよ。」

「それは止めておこうよ。あんまり他人の睦言を覗き見るなんて、いい趣味じゃないよ。」

浩市はすぐさま拒否反応を示すのだが、カジ君は逆に即効でその案に賛同する。

「ヒデちゃん、それはいい考えだ。これでボクもコウさんのようなジェントルな対応を学べるってもんだよ。」

「そうだろ。オイラのリサーチではコウさんは随分と嬢の間では人気があるみたいだし。」

「そんなはずないさ。ボクはヒデちゃんみたいに頻繁に通ってるわけじゃないんだから、あんまりデマを飛ばさないでくれないかな。だから行くのなら行ってもいいけど、シートは別々にしてよね。」

「はいはい。わかりましたよ。」

それだけ返事をして、ヒデちゃんはずんずんと先頭を歩いていく。


やがて見覚えのある看板が見えると、ヒデちゃんは浩市とカジ君を押し込むように店内に誘導した。そしてボーイを相手に仕切りだす。

「ボクはアヤちゃん、この人はミキちゃん、そして向こうの彼はナナちゃん辺りがいいかな。そしてシートはボックスね。」

それを聞いて浩市が慌てだす。

「ヒデちゃん。」

するとヒデちゃんは平気そうな顔をしてうそぶく。

「もう発注しちゃいましたから。」

浩市はヒデちゃんの仕掛けた罠にまんまと嵌ったのである。

今までとは違う、想像もつかないシートへと誘われ、緊張感を隠せない浩市。そしてその様子を見てほくそ笑むヒデちゃんとカジ君。

ボックス席の三辺で浩市が一番奥に座らされた。そしてヒデちゃんとカジ君はその両サイドに陣を取る。

最初に現れたのはアヤ嬢だった。今日の衣装は水着の上に白いワイシャツを羽織るシンプルなスタイルだ。彼女は浩市を発見すると、ヒデちゃんに見つからないように何気に小さくウインクを送った。続いてミキ嬢がやってきた。

「こんばんは。久しぶりね。」

その挨拶は何回か通っている証拠とも言える挨拶だった。しかもそのセリフを聞き漏らしていなかったヒデちゃんがすかさずチャチャを入れる。

「やっぱりコウさん、通ってるんじゃないですか。」

「そんなことないよ。とっても久しぶりだよ。ねえ。」

浩市から振られて答えるミキ嬢は、

「そうねえ、何ヶ月ぶりかしらねえ。もう忘れられたかと思ってたわ。」

と、案外無難な答えを返してくれた。

最後に来たナナ嬢は「はじめまして」の挨拶とともにカジ君に名刺を渡す。浩市にも初のお目見えだったので、目線は合ったが軽く会釈をした程度で済ませた。

さあ、抱っこ合戦の始まりである。始めはそれぞれの隣に座っていた嬢だったが、何かの合図でもあったのか、順次、男たちの膝の上に跨りだす。そして始まるキスの一斉攻撃。浩市の痴態も両サイドから丸見えである。

浩市は両サイドの面々に聞こえないようにミキに耳打ちしていた。

「膝の上にいてくれるのはホントにうれしいんだけど、あんまりエッチなところを両サイドの二人に見られるのは恥ずかしいんだ。だから、そこそこにしておいてね。また一人で会いに来るから。」

それを聞いたミキはニッコリとした表情で「わかったわ」と小声で耳打ちした。それからというもの、浩市はミキの首筋の匂いを堪能することに専念し、両の腕をがっちりとミキの体に絡み付けた。

両サイドではワイシャツをめくり上げ、ビキニの中へ手を侵入させる行為が始まっていた。それでもヒデちゃんもカジ君も目線だけは浩市に向いている。その視線の先がわかっているだけに浩市は動き辛かった。

「かわいそうにね。いつもみたいにしてあげようか。」

ミキもそんな様子を見かねてそっと浩市に耳打ちしてみた。

「いや、このままでいいよ。今日は大人しくしてた方が身のためみたいだし。」

するとアヤ嬢は浩市が座っている側に腰をおろし、そのままヒデちゃんに覆いかぶさった。まさにヒデちゃんの視界から浩市を隠してあげるかの如く。

しかし、ナナ嬢はそんな浩市の想いを知らない。カジ君の膝の上で、浩市の様子を面白おかしく眺めていた。

「ねえ、あの人いつもずっとああしてるの?それとも初めての人?」

カジ君もこの店は初めてだっただけに、彼女に対して答えようがなかった。

「ボクもこの店は初めてなんだ。だから、あの人がいつもどうやって遊んでるかは知らないよ。逆に、あの人のことこの店の中で見たことない?」

「えーと、そういえば何度か見たかも。」

「その話、そおっと教えてくれない?」

「どうしたの?訳有り?」

「いやいや、あの人が普段ここでどうやって過ごしてるのかって、すごく興味があってね。ところで、あの人の評判ってどうなの?」

「私もあんまり出勤してないからよくはわからないわ。お客さんの話なんてしないもの。それに、顔は見たことあるかもってっていうぐらいだから。たぶんヘルプに行ったこともないと思うわ。」

「なあんだ残念だなあ。まあいいや。じゃ、ボクはボクで遊ばせてもらおうかな。」

そういうとカジ君は浩市の存在を特に気にせずに、自分の嬢への遊びに没頭し始めた。ヒデちゃんはというと、アヤ嬢が視界を遮ったおかげで、浩市の動向が見えなくなる。それでも気になるヒデちゃんはアヤ嬢の体に抱きついて、首筋の向こうにその姿を覗く。

「ヒデちゃん、隣のことはいいじゃないほっといてあげれば。それとも隣の女の子の方が気になるの?」

さすがはアヤ嬢だ。うまくヒデちゃんの気を浩市からそらすように誘導する。

「ねえアヤちゃん。今日はあの人がここでどうやって遊んでるかを見に来たんだから、もうちょっと観察させてよ。」

「あの男前の人?あの人がこないだ言ってたカメラマンの人?じゃあ、あの人のところへヘルプに行かせてもらおうかな。そんでもってあたしのヌードでも撮ってもらえるよう、お願いしようかな。」

「いやいや、それはダメだよ。あの人には別の彼女がついてるんだから。アヤちゃんはオイラにベタベタしてくれてればいいんだよ。」

「じゃあ、よそ見しないでちゃんと遊んで。」

「えへへ。」

これでヒデちゃんの視線もアヤ嬢に移る。

それを知ってか知らずか、ミキは浩市に匂いを提供した姿勢のままじっとしている。

カジ君はすでに自分のお嬢さんに集中していた。

浩市も同様にミキの素敵な匂いに没頭していた。さすがに両サイドのシートに友人がいてはむず痒いことこの上なかったが、今宵はこの匂いだけで我慢しようと思っていた。さすがにそれを見かねたミキが、胸元のスペースを開いて浩市の鼻先まで持ってきてくれる。

浩市は両サイドの友人たちの様子を探り、とくに右側のカジ君については、我関せず状態になっているのを確認してから、ミキの体をややヒデちゃん側に倒して、彼女の胸元で戯れるように鼻先を遊ばせた。

「やっぱりいつものようには楽しめないよ。どうしても視線が気になって。」

もちろんミキにしか聞こえないような小声で呟く。

「そうね。今日は我慢するしかないわね。もうここから他のシートへは移れないから。」

本当はそのわずかばかりの小さなビキニをずらして、可愛い桃色の石碑にも挨拶をしたかったし、豊満な丘陵とも大いに戯れたかった。

ぎこちない演奏しか奏でられない今夜は、二人にとって妙に過ごしにくい時間だけが経過していく。それでもミキは浩市の膝の上で満面の微笑をかざしてくれる。

「ところで、その後のキョウコさんとはどうなってるの?本気で恋してるの?」

「そうだね。また今度の金曜日に来るから、その時はよろしくね。」

「その時は一人で来るのね?」

「もちろん。余計な邪魔が入らない様にね。」

浩市は横目でチラッとヒデちゃんの様子を垣間見た。アヤ嬢に指摘されて以降、自分の遊びに没頭している彼は、彼女の肌を弄ぶと同時に、お得意の話術でデートのお誘いをしているようだった。

カジ君はというと、これも彼女のことが気に入ったらしく、遊興これ勤める。ただし、彼女は三人の仲では一番初めにコールがかかった。


=ナナさん五番テーブルへ=


取り残されたカジ君は一瞬ぼーっとしていたが、すぐに気を取り戻して隣の浩市に茶々を入れる。

「どうですか。楽しんでますか。」

「ああ、それなりに楽しんでるよ。」

そうこうしている内にアヤ嬢にもコールがかかる。


=アヤさん二番テーブルへ=


手持ち無沙汰の二人に挟まれて、密着している二人が取り残される。

「いいですねコウさん。彼女だけ呼ばれなくて。」

両サイドからの視線に辱めを受けたのは浩市ばかりではなった。

「そんな風にジロジロ見られたら、あたしも恥ずかしいじゃない。」

ミキは浩市の膝の上でくねくねと妖しい動きをしながら、それでも浩市に抱きついていた。


やがてミキもお決まりの通りコールがかかる。


=ミキさん八番テーブルへ=


「ちょっと行って来るわね。きっとフリーだからすぐに戻ってくるから。」

そういって浩市の膝の上から降りる。

と同時に、カジ君とヒデちゃんにはヘルプの女の子が到着する。今度は浩市だけがロンリーな状態となっていた。

浩市は二人の享遊に興味はない。なんだか肩の荷を降ろしたようにほっとする。それでも目の前に置かれている水割りの入ったグラスを一口なめると、両サイドの二人の様子を垣間見る。

ヒデちゃんはヘルプの女の子とはおしゃべりだけのようだ。話の内容までは聞こえないが、世間話でもしている雰囲気だった。カジ君はというと、まさに今、薄手のブラの中身へと侵攻しようとしている真っ最中で、やわらかな肌をこれでもかと言わぬばかりに堪能していた。

浩市は二人の様子を確認すると、天を仰ぐようにして天井を見つめた。初めてじっくりと見た天井のアート。まるで星空をイメージしているかのようなメルヘンの世界である。その天井の星空の中に北斗七星はあるのかななどと探索していたとき、膝をぽんと叩かれた。

「何をボーっとしてるの?」

シノブさんだった。

「久しぶりね。って、この間来たばっかりだっけ?」

その言葉を聞いて慌てて打ち消しにかかる。

「いやいや、とっても久しぶりですよ。」

そして両サイドのご両人に聞こえないように耳元で呟く。

「とっても久しぶりっていうことにしておいてください。お願いしますよ。」

「なんだか知らないけど、わかったわ。うふふ。」

そして一瞬、息を呑んで。」

「ホントにとっても久しぶりねえ。」

と、今度は両サイドに聞こえるくらいの音量で声をかけた。それはそれで、わざとらしい。しかも、そのわざとらしさに気付いたヒデちゃんは、浩市との間に座っているヘルプの女の子越しに浩市に声をかけた。

「何だか怪しいセリフでしたねえ。シノブさん、ホントに久しぶりですか?」

「そうねえ、久しぶりじゃない?前回がいつだったか覚えてないもの。」

上手く誤魔化してはくれるが、そんな程度でヒデちゃんの疑問符は解消できない。怪しみを含んだ表情で浩市を見つめていた。

「ねえシノブさん、本当は先週も見かけたんじゃないですか?」

「先週見たのはあなただったわよ。ずっとアヤちゃんを口説いてたじゃない。デートに誘おうと思ってるんでしょうけど難しいと思うわよ。」

「シノブさんからもプッシュお願いしますよ。ボクはアヤちゃんのことを愛してるんですから。」

ヒデちゃんとシノブさんの間で弾む話に、ヒデちゃんにヘルプに来た女の子がやや閉口ぎみだ。慌ててなだめるヒデちゃんだが、彼女の曲がった唇が治らないうちにヘルプタイムは終了し、ヒデちゃんの嬢もカジ君の嬢も戻ってきた。

ミキもまた浩市の膝の上に戻ってくる。

「何だかたまに大人しいと可愛く見えるわね。」

「ボクはいつだって大人しいつもりですけど。」

「だって今日は手が中に入って来ないじゃない?」

「ボクはそういうのを見られるのは恥ずかしい。ミキは恥ずかしくないの?」

「多少はネ。だって、ここはそういうお店よ。下のほうはイヤだけど、上の方なら大丈夫よ。指名のお客さんだから普通だと思うわ。」

「ああ、あんまり想像したくない。キミが色んな人に手を入れられているところを。」

「あたしはどっちかと言うと難しい人なのよ。これでも無条件で手を入れてもOKなのは三人ぐらいしかいないんですからね。」

「その割にはいつも二~三人ぐらい被ってるじゃない。」

「条件付だとOKなのが二十人ぐらいいるからよ。」

「何?その条件って。」

「そうねえ4~5セットぐらいは延長してくれることかな。」

「ああ、ボクには無理だから手が震えるよ。」

「うふふ、だからあなたは無条件でOKなのよ。わかる?」

浩市はそんなものなのかと感心させられる。きっとみんなスケベなおじさんたちで、ガツガツしてるんだろうなとも想像できた。

「それにね、あなたはキョウコさん狙いでしょ。あたしにはいつも遠慮がちじゃない。ちょっと悔しかったりするのよ。」

「ごめんなさい。でもウソを吐いてあなたと向き合うのは嫌です。」

「うふふ、わかってるわ。正直な人ね。」

浩市とミキがコソコソと話をしていると、横からヒデちゃんがチャチャを入れてくる。

「何を二人でコソコソと話をしてるんですか。もしかして二人はもうかなり深い関係になってるんじゃないですか。」

するとミキが思いがけないことをヒデちゃんにぶつけた。

「そうよ、あたしたち付き合ってるのよ。」

それを聞いたアヤ嬢も目をクリクリさせながらミキを見た。ミキはアヤに暗黙のウインクを送る。するとアヤはそれを察したように、ヒデちゃんを自分に振り向かせる。

「はいはい、他所のことはいいの。ちゃんとこっちを向いて。」

ヒデちゃんはアヤちゃんにぞっこんだから言うことを聞いておかないと、あとで始末が悪くなると困る。とりあえずは自分のことが最優先。そう言い聞かせてアヤに対峙する。

これで浩市は安心してミキに甘えられる環境になった。

が、そのタイミングでセット終了のコールがかかる。そしてそれぞれのお嬢さん方が延長のおねだりをするのであるが、ミキだけは黙ってセットの終了を促した。

「今日はもう帰った方がよさそうね。またゆっくり来てね。」

両サイドで享楽を楽しんでいるヒデちゃんとカジ君に聞こえないように、そっと耳元で囁いている。

浩市は我が意を得たりと立ち上がった。その姿を見て慌てて止めに入るヒデちゃん。

「コウさん、もう帰るんですか?まだまだお楽しみはこれからですよ。」

「そうですよ。オレなんかもようやく乗ってきたところですから。」

カジ君もどうやらヒデちゃん側の応援団となっている。

すると、二人についていた嬢たちが浩市に助け舟を出してくれた。

「このお兄さんは、きっと二人に見られるのが恥ずかしいのよ。だから、今日のところは勘弁してあげて。ねっ。」

アヤちゃんもナナちゃんも客の潮時がわかっているらしい。それが客を長く通わせるコツなのかもしれない。

「ボクはこのタイミングで失礼するよ。あとはキミたちで楽しんでくれればいいさ、ボクに遠慮なんかせずにね。」

ミキは浩市を連れて出口へとエスコートしていく。そしてシートに残った二人に見えない場所で、再来店の催促をおねだりするのだ。

「また今度、二人でゆっくりできるときに来てね。」

「ボクなんかがまったりでいいの?」

「そうね。あなたならいいわ。キョウコさんとの話も聞きたいし。」



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