第6話 開き始めた四重目の扉

その日の朝はじとじとと音を立てて雨が降っていた。季節が変わる境目になるのだろう。この雨が上がると本格的な秋の天気になるらしい。

山肌で緑に輝いていた若々しい木々の彩りは、鮮やかな装いに変化していく。店頭で並べられている雑誌の表紙には多くの紅葉スポットの景色がラインナップされる。

浩市の今の時期の仕事もこういった景色を撮影することにある。

しかし、今日の打合せは、今までとは全く異なる趣旨の取材だった。

新しい仕事のことで少しワクワクしながら電車に乗った瞬間、胸元のケータイがブルブルと震えるのを感じた。メールが届いたのである。割と混雑している電車の中で確認してみたらキョウコからだった。

「指名の件、OK出たわよ。但し、平日の早い時間に限定だって。しかも他言無用の条件よ。他に漏れたらすぐに打ち切りますって。」

浩市は思わずその場で飛び上がるほど喜びそうになった。

「ようは客が少ない時間帯ならOKって言うことだな。それに他言なんてもったいないことをするはずもない。」

流石に電車の中では誰も浩市の喜ぶ気配に気付くものはなく、ただひたすら喜びの表情を浮かべていた。

もしも何も知らない人が、その顔をまじまじと見たら、少し気味が悪かったかも。

しかし、これで浩市の出動は直近水曜日の十八時と決定した。

今日の会議もさらにいい調子で臨めるに違いない。

社に到着するとまずはディレクターの黒さんが待ち受けていた。

「今日はよろしくね。」と軽く肩を叩かれる。

しばらくしてベンさんが顔を見せる。いつもの相棒の登場に胸を撫で下ろす浩市。威勢の良い挨拶は向こうからかけてくれた。

「ようコウちゃん、今回もよろしくな。黒ちゃんがどこへ連れて行ってくれるのか知らねえけどよ。」

今回のクルーは黒さんとベンさんと浩市の三人での取材になるようだ。

最初の打合せは順調に進む。どうやら行き先は北海道らしい。しかも札幌ではなく十勝方面のようだ。これからの季節、寒さがより厳しくなる地域である。

会議の終わりに編集長がこのように閉めた。

「我々にとっても初の試みであるため、腕の立つ精鋭メンバーで行ってもらう。私も付き合いたいところだが、他にも抱えている案件があるので、今回は精鋭三人に全てを任せよう。この三人なら安心だ。ははは。」

最後の笑いは余計だったかもしれない。

この北海道ロケが浩市にとって、さらに深い歪の中へと潜り込む事になるきっかけになろうとは誰も知らない。もちろん本人さえも。

そんな会議をいつも通りに終えたクルーたちは、いつものように懇親会の目的で、黒さん馴染みの居酒屋へ足を運ぶ。まだ夕方と呼ぶにも早い時間帯だが、取材の打合せという名目がある三人は慣れた頃合で飲み始めるのである。

いつも通りといえば、一時間もすると馴れ合いの時間となり、本来の打合せは終了する。さほど飲んべでもない浩市は、呑み助二人と最後まで付き合うことは無い。そんなしがない雑談よりも頭を悩ませる案件がいくつも残されているからである。この日も適度に切り上げて先に店を出た。


浩市は直美との仲をどのように改善すべきかを考えていた。このまま妊娠できないことを悩んでいる彼女を支えながら伴侶を全うするのか。それとも、その束縛から解放してあげるべきなのか。少なくとも自らの想いだけを優先させるわけにはいかなかったのだが、そろそろ色んな結論を出さねばならないことを想定していた。

次の検査は明日である。

帰宅すると直美は既に夕食の準備をしており、浩市の帰りを待っていた。

「ただいま。今日は早いんだね。」

「おかえり、コウちゃんもね。いつもこんなに早いの?」

「ボクの時間は有るようで無いようなものだから。それよりもキミだって今日はやけに早いじゃない。」

「部長がね、明日は検査なんだから、今日は早くお帰りって言ってくれたから。」

「それで久しぶりにエプロン姿が見られたっていうことなんだね。」

「それって皮肉?」

「そんなこと無いよ。ちょっと感動しているだけさ。」

「でもコウちゃん、もしかして飲んできてる?」

「打合せの後だから多少はね。」

多少酒臭いのは自分でも解っていたが、あまり飲んでいない自負もあった。

「ちゃんとしたご飯はまだだから、作ってくれるなら喜んでいただきますよ。」

「大したものは出来ないわよ。」

そう言った直美のチャレンジの結果としてテーブルの上に出てきたのは、肉じゃがと蓮根の金平とサラダに味噌汁だった。

料理が苦手な直美にすれば上出来の献立である。

食後の片付けは二人で行った。そして今宵は明日の検査を控えてゆっくりとした時間を過ごす。検査の前日は情事を控えるようにと注意されていたことも二人は厳格に守ったのである。


翌朝、二人は神妙な面持ちで病院へ向かった。

検査は一時間程で終了したが、前回までの検査結果を聞いて直美の顔色が変わる。

「大変申し上げにくいのですが、奥さんの場合、絶対とは言いませんが、自然妊娠はかなり難しいと思われます。そろそろ受精卵移植の手段も具体的に考えられた方が良いかと思います。」

言葉を失う直美。浩市も彼女に投げかけてあげる言葉は見つからなかった。

病院を出た二人は言葉も少なく肩を落として歩いていた。

駅に到着し電車を待つ間、浩市は直美に今日は会社を休むよう促す。

うつむいたまましばらくの間は何も答えない直美だったが、意を決したように浩市に話し始める。

「コウちゃん、子供欲しいよね。結婚した時、三人ぐらい欲しいって言ってたよね。でも私の体じゃ無理だと思う。受精卵移植なんて三人も無理よ。」

「何も今すぐ結論を出さなくてもいいじゃないか。ゆっくり考えればいいさ。」

浩市は慰めたつもりだったが、直美の受け取り方は違っていたのかも。

「とりあえず、仕事には行って来るわ。午後からの約束もあるし。」

直美は自らの奥底にある出来る限りの勇気と強い意志を持って、今までの自分を取り戻そうとしている。それを拒む理由も批判する理由もない。

ただ、彼女の寂しそうな後姿を見送るしかなかった。


浩市はその足で編集社に出向く。

前回のロケの写真を今日中に数十枚はピックアップしなければならなかった。現像ラボは会社の一室に設置されており、浩市ならいつでも顔パスで使うことが出来る。

すでにベンさんは到着しており、原稿もあらかた出来上がっていた。

「いつもいい写真撮ってくれるよなあ。オレのイメージどおりの絵ヅラをそろえてくれるから、選ぶのが楽だよ。」

気のいいベンさんはいつも調子がいい。単に早く仕事を終わらせたいだけなのかもしれないが。

ベンさんの原稿は全部で八ページ。すでに写真スペースが予定されたゲラが仕上がっている。使用する写真は全部で二十枚ほど。浩市とイメージを想定しながら次々と選んでいく。

ヒデちゃんも編集長も交えた選択合戦が終了する頃は、既に日が落ちて外の夕暮れ空には神経質そうな月が浮かんでいた。

「今回もいい記事になったよ。ベンさんもコウさんもありがとね。またよろしく。」

一仕事終えた編集長は次の仕事場へと移っていった。

こんな後はヒデちゃん、ベンさんらと打ち上げに行くのがスタンダードなのだが、ヒデちゃんにはまだ別の仕事が残っており、編集長と共に別の部屋に駆け込む。ベンさんは別の用事があるらしく、浩市は一人取り残された。

しかし、それは浩市にも都合の良い一人ぼっちであった。そう、カレンダーは水曜日を示している。今日はキョウコを指名できる曜日なのである。

思い立った浩市は、午前中のことも仕事のことも一切合財を忘れるための時間を過ごしに出かける。やがて見慣れたアーケードで人の波をかき分けながら歩き進める頃、夜空のか細い月が、やや急ぎ足で歩く浩市の姿をを涼しげに見下ろしていた。

やがて店に着いてから見覚えのあるボーイにキョウコの指名を告げると、

「伺っております。どうぞ。」と、いつもの薄暗いシートへと案内される。

そして、少しドキドキしながら座っていると、

「こんばんは。本当に指名してきたのね。」と、言いながらキョウコが現れる。

浩市は随分と長い間、この時を待っていた。

「やっとボクの希望通りの時間が来ました。ありがとうございます。」

「変な人ね。もっと若い子がたくさんいるのに。」

「だから、ボクはあなたに一目惚れしたって言いましたよね。あの頃と少しも変わりませんよ、ボクの気持ちは。」

浩市はキョウコの瞳を見つめながらも手を腰に回すことを忘れない。

「今日のボクは少し気持ちがへこんでるんで、優しく癒してくださいね。」

「どうしたの?」

「色々ですよ。聞かないで下さい。思い出してしまうから。」

「わかったわ。」

キョウコは黙って唇を提供する。同時に漏れる吐息が浩市を別世界へと誘ってくれる。ようやく訪れたキョウコとの蜜月な時間。溺れそうになる自分を抑える術もなく、浩市はキョウコの唇を求め続けた。

ちょうど手のひらに納まるやわらかな胸の膨らみも、今日の浩市にとっては欠かせないアイテムだった。

片方の手でキョウコの背中を支え、もう一方の手で膨らみを弄る。トップへの挨拶は指でかすかに行う。二人の体温は次第に上昇していくのであった。

しばらく堪能した後、キョウコの体を少し離して首筋の匂いを奪いにいく。いつもと同じ匂いが鼻腔から脳天へ突き抜ける。過去の記憶が蘇るほどに。

「うふふ。ホントに匂いフェチなのね。」

「キョウコさん、今日はホントにありがとう。もしかして、これをきっかけに他の人の指名も受けるんですか。」

「いいえ、コウちゃんだけよ。他の女の子にも影響するし、私があんまり乗り気じゃないしね。コウちゃんは口が堅そうだし、優しそうだし、ホントに特別よ。」

「それを聞いて安心しました。絶対に口外しませんよ。だから、ここにいる時だけはボクの恋人でいてくださいね。」

「いいわよ。」

浩市はこのまま時間が止まればいいと思っていた。何もかも忘れて、心地よい匂いの中に埋もれたまま過ごしていたい。それが正直な今の心境だった。

「キョウコさんの笑顔、シャメで送ってもらえませんか。誰にも内緒にするんで。」

「恥ずかしいじゃない。それに奥さんに見つかったら、タダじゃ済まないわよ。」

「ウチの奥さん、ボクのケータイを覗いたりしませんから大丈夫ですよ。」

「今はそうかもしれないけど、だんだん雰囲気が怪しくなってきたら、浮気を疑ってコッソリと覗くに決まってるわ。女ってそんな生き物なのよ。」

「旦那さんの浮気もそうやって見つけたんですか?」

「そうよ。」

浩市は頷くしかなかった。キョウコの実体験に基づく理論に刃向かうことなどあろうはずもなく、直美にもありそうな行動でもあった。

「でも、諦めませんよ。きっといい方法を考えます。その時はシャメ下さいね。」

「うふふ。約束はしないわよ。」

楽しい時間は経過するのが早い。ネットリとした妖艶な肌のぬくもりと匂い立つ吐息を楽しむことに集中していた夢の空間だったが、やがて現実の世界に引き戻される呪文が聞こえてきた。


=二番テーブルアタックタイム=


これはそろそろ時間ですよという合図。

「もう終わりだって。どうする?」

この日は水曜日だというのに比較的客の入りはいいかもしれない。けれど、まだ混雑に至っていないようだ。

「もう少しいてもいですか。」

「うれしいわ。コウちゃんといるとなんだか癒される。」

「そう言ってもらえるとボクも嬉しいです。」

「うふふ、いい子ね。」

年齢ならば浩市の方が年上だろうに、おねいさんっぽく振舞うキョウコに心地よく身を任せている。気持ちが少し甘えられる。そんな感じが何となく良かった。

新しい次のセットに入ってからも、二人のまったりとした時間は維持されていた。

「今日は水曜日の割にはお客さんはいるようですね。」

「そうね。でもみんなお気に入りの女の子がついてるし、まだ大丈夫よ。」

「その方がボクはありがたいですけどね。」

浩市はキョウコの顔を引き寄せて唇を奪いに行く。キョウコは目を瞑ったまま浩市の成り行きに任せていた。彼女の唇は浩市の唇に触れると直ちに祠の入り口が開き、中からしっとりと濡れた女神が現れた。浩市はそれを待ち受けていたかのように迎え入れ、互いのネットリとした粘液を絡ませあう。二つの物体は柔らかく踊るように押しては引いて引いては押してを繰り返し、やがては互いの吐息を求め合う。

浩市の手はキョウコの体にまとわりついているわずかながらのビキニの中へ侵入し、柔らかな丘陵に侵攻し、さらにあっという間に頂点へと登りつめた。先遣隊を務めていた指がその頂点を弄び始める。するとキョウコの吐息のリズムが変わった。浩市はその歌声を合図に、ビキニの下方へも先遣隊を派遣した。

一瞬驚いたように体を「ビクン」と弾ませたキョウコの体は、彼女が自らも驚くほどの反応を見せた。

「このお店では、これも許されると聞いたのですが、やっぱりダメですか?」

「コウちゃんならいいわよ。でも、優しくしてね。」

浩市の指令を受けた先遣隊は、一旦回り道を敢行する。キョウコの背中から腰にかけての曲線ロードをするすると駆け巡った後に、こんもりとした二つの山の頂を経由してから谷へと向かう。

そこは小さなテントで覆われていたが、先遣隊はそっとめくって中へと侵入していく。やがてそこに小さな繁みを発見するが、厭わずに前進していく。

その間も浩市とキョウコの唇はずっと合わさったままだった。

先遣隊は谷の奥に洞窟を発見し、入り口の突起を何度か挨拶をしていた。するとその度に遠くの洞穴から美しくも妖しい吐息が放たれるのを聞いた先遣隊は、徐々に洞窟へと進入を始める。

先遣隊が最初に行ったのは入り口の調査であった。ある程度以上の湿り気を有していないと遭難する恐れがあるからだ。調査の先陣を切ったのは、やはり指先であった。器用な動きを得意とする指は、入り口の左右の壁を微妙な前後の運動と共に割って入り、さらに強い動きを得意とする指が上下運動と共に蠕動運動を開始する。

この間も今までと同様に浩市とキョウコの唇は、ネットリとした感覚をずっと楽しんだままだった。

やがて、ある程度の到達感を得た先遣隊は器用な指と強い指とが共同で掘削作業を始める。ただし、ゆっくりと、そしてなめらかに。さらには指の先端の動きだけがやけに細かなステップを踏んでいる。

すると、キョウコの防御システムを統括する両腕が浩市の体を拘束し始め、祠の中の女神の動きとそこから発散される吐息のリズムが激しい鼓動と共に高まり始め、洞窟の中の泉がどんどん湧いてくるのがわかる。その熱い迸りが指先で十分に感じられた時、先遣隊は探索の撤退命令を受るのである。

「少しは感じてくれましたか。でもあんまり大事なところを弄んじゃいけないですね。ごめんなさい。」

「どうして謝るの?謝らなくてもいいわよ。気持ち良かったわよ。ちゃんと優しくしてくれたし。」

そういうとキョウコは浩市のいきり立っているこんもりとした膨らみを撫で始めた。キョウコの手が膨らみに触れた瞬間、ビクンと体が反応する。

浩市はその手をさらに上から押さえて、キョウコの手の動きを止めた。

「刺激が強すぎます。色んな衝動が抑えられなくなりそうなので、・・・・・。」

その言葉を裏切るようにキョウコはさらに振動を激しく加えた。

「可愛いこと言うのね。そんなこと言うのコウちゃんだけよ、きっと。うふふ。」

浩市の手はキョウコのビキニの内側から丘陵の頂点を目指し、そこで足踏みをしたり、挟んでみたり、摘んでみたり。

「コウちゃん、おっぱい好きね。」

「綺麗だから、キョウコさんの。」

さらにしっぽりとしたムードに入ろうとした時、場内のコールがかかる。


=キョウコさん、十三番テーブルスマイルタイム=


「そろそろお客さんが入ってきたかもね。」

そう言い残して席を立つキョウコ。残された浩市はまだ虚ろな表情をしていた。

そんな浩市の下にヘルプの嬢が現れる。

「カエデです。よろしくね。」

見た目は浩市よりもやや年上か。スラッとした肢体に優しそうな感じのおねいさん。キョウコに甘えていたところなので、その雰囲気がまだ残っていた。

「どうしたの?ぼおっとして。キョウコさん、優しく遊んでくれた?」

「はい。あの人ステキな人ですね。なんか本気で恋してしまいそうで怖いです。」

「あのね、ここはお遊びの世界なのよ。みいんなウソの世界よ、本気になっちゃダメ。あなた奥さんいるんでしょ?奥さんを大事にしてあげてね。」

浩市は一瞬ふと我に返る。

しかし、現在の自分は現実を忘れるためにここを訪れているのである。リアリティのある説教などが耳に入るはずもなかった。

「なんて言うんでしょう。すごくボクのタイプの人なんです。一目惚れって言うんですかね。いつかあの人をモデルに写真を撮りたい。今はただそんなことを思ってるだけなんですけどね。」

「あなた写真家なの?でもね。やっぱり本気で惚れちゃダメよ。」

「肝に銘じておきます。」

そんな会話をしているうちに、キョウコが戻ってくるコールが聞こえた。

「キョウコちゃん戻ってくるわよ。まあ、口説けるもんなら口説いてみたら。でも、後で哀しい思いをするのは、きっとあなたよ。」

カエデ嬢はそれだけ言い残して浩市の席を去って行った。

そしてキョウコが戻ってくる。

「ただいまあ。早かったでしょ。」

「カエデさんていうおねいさんに叱られちゃった。本気でキョウコさんの事好きになっちゃダメだってさ。」

「そうよ、ダメよ。コウちゃんと私の関係はココだけよ。」

「ボク、ホントキョウコさんに一目惚れなんですけどね。」

「本気の人はそんなに軽々しく口にしないものよ。」

「本気ですよ。」

少しの沈黙。互いの目で探りあう。

「まあいいわ。それよりもちょっとお願い聞いてね。」

キョウコはそう言って浩市の首に腕を回して耳元で囁く。

「ちょっとだけ、このままでいさせてね。」

キョウコの首筋から妖艶な匂いが浩市の鼻腔を襲う。

ふわっとした髪からも色香が漂う。

浩市はキョウコの腰に腕を回し、彼女の体温を確かめるかのように、やや強めに抱き寄せた。

三十秒ほどその体勢が保たれたであろうか、満足げなキョウコは浩市の目を見つめて、唇を合せた。何が彼女をそうさせたのか。キョウコの表情だけでは何も捕らえることは出来なかった。

「ありがとう。」

そのタイミングで痺れを切らせたように場内コールが響き渡る。


=二番テーブルアタックタイム=


本日二度目のコールである。

「もう混んでくる時間だから、今日はこれでおしまい。」

キョウコも一応は寂しそうな顔をする。

「また来ます。ずっといたいのは山々ですが、少し名残惜しいぐらいで帰ったほうが、また逢いたくなるからいいかもしれませんね。」

「うふふ、そうね。また来てね。」

浩市は、最後にもう一度キョウコの匂いを確かめてから席を立った。

ドアのところまでキョウコに送り出されて店を出る。

「また来ます。」

妙に後ろ髪が引かれているのがわかる夜だった。



「また来ます。」

そんな言葉を残してきた前回の訪問だったが、あの時以降なかなか訪れる機会がなくなっていた。

暦は既に十月も中旬に入っており、本格的な寒さが身に染みる朝夕の季節となっていた。時折冷たく吹く風が道行く人に本格的な秋の到来をを予告している。

その日は次の取材の打合せで出版社に顔を出していた。そこでひょっこりとヒデちゃんに会うのである。

「コウさん、今夜暇ですか?良かったらメシでも食いに行きませんか?今日はボク、結構お大尽なんですよ。」

「ん?どうしたの?」

「昨日行った取材が競馬場で、たまたま買った馬券が大もうけになりましてね。おかげで懐がポッカポカですよ。」

と得意気に話すヒデちゃん。どうやら大穴が当たったようだったが、競馬をやらない浩市に詳しいことは説明しない。

「たんまり入ったんなら、貯金しておいたほうがいいんじゃないの?どうせ次は当たらないんでしょ。」

「コウさん。博打の金はね、貯金したってダメなんですよ。バクッと入った金はシャキッと使わないと。それに、いつもコウさんやベンさんにお世話になっているんで、たまにはオイラに奢らせて下さいよ。」

「じゃあ、折角のご好意だから、ベンさんが行くって言うならご相伴に付き合うよ。」

言ってる先に向こうからベンさんの姿が見えた。はしゃぐヒデちゃんは喜び勇んでベンさんに武勇伝を語る。ベンさんはどうやらヤル口のようだ。

「昨日のあのレースを買ったのか?オレは本命だと思ったんだけどなあ。そんな大穴が来てたのか。それじゃあ、いっちょ奢ってもらうとするかな。」

「そうと決まれば、早く会議なんかチョチョっと終わらせちゃいましょうね。」

意気揚々のヒデちゃんは、口ぶりも軽快だ。

これで話は決まった。

夜のスケジュールが埋まったところで、三人は肩を並べて会議室へと消えていく。


少し長引いた会議も、編集長の鶴の一声で方針が決定し、午後の四時頃にはお開きになる。終業時間などあってないような編集社では、夕方の規律などもあってないようなグレーゾーンになる。

ヒデちゃんなども、カメラマンとライターとの細かな打合せをするという名目を作り、懐の深い副編集長あたりに申し願えば、会社を出ることは通常業務の延長とみなされる。なんともお気楽な会社だ。

しかし、そのおかげで三人はまだ日の明るいうちに暖簾をくぐれるのである。

今日のヒデちゃんのおすすめは軍鶏鍋だった。なんでも赤城山のふもとで飼養されている昔ながらの軍鶏らしい。

軍鶏といえば、かの坂本竜馬が好物だったとも聞く。肌寒い日にはコイツを鍋でグツグツ煮て、ガツガツやるのが今も昔も最高のご馳走といえるのだろう。

今回の取材については特に大きな問題も無く、方向性については編集長の意のままに進むこととなったので、納得いかないキャストもいたが、この席の三人においては特段異論が無かった路線である。酒の席においての不平不満は飛び交わない。

それよりも万馬券を取ったヒデちゃんの自慢話に花が咲く。何とそれを千円も買っていたというのだから、普段よりも声はやや甲高い。

「ベンさん、ところであの店はどうでしたか。」

ヒデちゃんがいうあの店とは、『ライムライト』のことである。

「どうって、あのあと何回か行ったかな。すごく可愛い女の子なんだけど、いつ行っても三人から四人ぐらい指名されてるからなあ、可愛がってやる時間が短くて。」

「ボクのオキニも割りと被ってますよ。でもそれはそれで諦めないと。他のヘルプの女の子が来るよりも、時間が短くてもお気に入りの女の子が来る方がいいですよ。」

「まあ、それはそうかもな。で、コウさんはどうなんだい。」

ベンさんは浩市の方を振り向いて様子を伺う。

「ボクはあんまり・・・やっぱり慣れていないせいか苦手ですね。」

「コウさんとこはまだ奥さんが色々とよくしてくれるんでしょう。ベンさんにはわからないでしょうけど。ねっ、そうでしょ?」

「そんなことはないよ。最近はずっとすれ違いだし、色々とね。」

「いいのか、そんなんで。仲のいい内にちゃんとしておけよ。早く子供を作っちまえばいいじゃないか。」

「それがね、中々出来ないからおかしくなり始めたんですよ。」

「コウさん、とりあえず今夜は食って、飲んで、遊びに行きましょう。」

浩市のブルーな表情と打って変わって、ヒデちゃんの表情は意気揚々である。

手元のビールをぐいっと空けて、ベンさんが浩市の背中を叩く。

「それはそれとして、なっ、あとで遊びに行こうぜ。」

しかし、浩市は知っていた。ホームページによる情報では、今夜はキョウコの出勤日ではないのである。彼女に一目惚れしまっていることもあるし、ミキ嬢の手前もある。新たに他の嬢を目掛けて行くのは感情的にも憚れる。

「それは二人で行っておいでよ。ボクは今夜は帰るから。」

「なんなら今夜は2セットまではオイラの奢りでもいいですよ。」

懐のあったかいヒデちゃんは、気持ちまで寛大になっている。

「気持ちだけありがたくもらっておくよ。」

美味しい軍鶏鍋を堪能した三人は、店内のテレビで放送されていたクイズ番組が終わるタイミングを区切りとして店を出た。もちろんお勘定はヒデちゃん持ちだった。

「ヒデちゃんご馳走様。オレも万馬券が当たるように頑張るよ。」とはベンさん。

「ボクは競馬をやらないので、次の原稿のギャラが上がったらご馳走するよ。」

「二人ともあんまり期待できない見通しだなあ。いいんです。日ごろはオイラが世話になってるんですから。ところでコウさん、ホントに行かないんですか?」

「おうよコウちゃん、遊びに行こうぜ。」

ヒデちゃんもベンさんもしきりに浩市を誘いたがる。しかし、ここは無碍にでも首を振る浩市だった。

「今日はゴメンよ。そんな気分じゃないんだ。」

そう言うとクルリと背を向けて、足早に駅に向かう。

残されたヒデちゃんとベンさんは、諦めた様子で『ライムライト』へと足を向けるのであった。



今夜の浩市はキョウコが出勤していないのもあったが、気分が乗らないのも確かだった。実家からの要請は未だに後を絶たない。

その分、直美がどんどんデリケートになっていく。直美の実家から浩市宛にある電話だってたまにある。「一度、病院へ行ってはどうか」と。「なんならいい病院を紹介するよ。」とも。まあ、大きなお世話である。これでも本人たちは至って真剣に努力しているのだから。

今宵は多少妻の帰りが遅くても、その努力を敢行すべき日だった。いわゆる直美の「危険日」に当たる日だからである。わずかながら残されている一縷の望みにかけても、その努力を決行しないわけにはいかない二人である。

そんな日に浩市の気分が乗らないなんていうのも間が悪い。少しでもテンションを上げようと思って繁華街をぶらぶらと歩いていると、ふと花屋が目に付いた。

「花でも買って帰ろうかな。」

たまたま見つけた、こじんまりした花屋へふらっと寄ってみる。

学生の頃から浩市は、彼女の誕生日には毎年欠かさずに花を贈っている。基本的に女性は花を贈られることが嬉しいと認識している。

たまには例外もあったりするのだが。

「黄色い花が好きだったかな。」

浩市は可憐に花を咲かせているマリーゴールドの鉢植えを見つけた。プラスチックのポットだが、手頃な大きさだ。店員さんに自家用であることを告げて包んでもらう。そうしないと、派手な包装紙で包まれてしまうからだ。それは電車の中で恥ずかしい思いをしてしまうに違いない。

帰宅すると、まずは買ってきた鉢植えにリボンを巻いて玄関においておく。リボンぐらいは直美が引き出しに片付けてあることを知っていたから。

酒は控える。シャワーも先に済ませておく。後はリビングでテレビを見ながらコーヒーをすすり、直美の帰りを待つだけである。


時間は午後十時。

壁の時計がピコピコと十回音を鳴らす時刻となる。

と同時に玄関の鍵を開ける音がして、疲れた様子で入ってくる直美の姿が見られた。

「おかえり。」

「ただいま。コウちゃん帰ってるのね。」

少し声のトーンが高い。

「飲んでるな。」においを嗅ぐまでも無く直美は酔っていた。

「大丈夫?コーヒー湧かしてあるけど、飲む?」

キッチンではまだ芳ばしい香りが残っていた。

「飲むよ。ありがとネ。」

やや高いテンションのまま浩市に抱きつく直美だったが、玄関の鉢植えに気付いた。

「これなあに?」

「鉢植えだよ。マリーゴールドが綺麗だったから、直美に買ってきた。」

「覚えてくれてたのね、黄色い花が好きだってこと。」

やや足がふらつきながらも、ようやく靴を脱ぎ捨ててリビングへ倒れこむ。今夜はどうやら新しい翻訳の仕事があるらしく、クライアントとの打合せだったらしい。

「向こうの部長さんって、いやらしい目で私を見るのよ。二次会まで付き合ったのに、さらにその先まで誘うの。きっぱりとはねつけてやったけどね。」

割と気丈な彼女の言いそうなセリフだ。気にいらなければ契約を断った事だって一度や二度ではない。だから浩市も安心していた。

しかし、直美が仕事をしていることによって夫婦のすれ違いが起きているのも事実である。そろそろ生活スタイルの変更を考える時期かもしれない。そう思っていた。

「大丈夫?」

直美も解ってはいた。今日がどういう日か。なぜ浩市が早く帰宅しているか。

「ゴメンネ。シャワー浴びてくるね。」

そう言って脱ぎ捨てた靴を尻目に鞄をほっぽり出し、浴室へと向かった。

浩市は直美が出てくるタイミングを見計らい、冷たい水とあたたかいコーヒーを用意する。

「あいかわらずマメねえ。」

髪を乾かしながら一気に水を流し込む。

直美は飲めないわけではないが、そんなに強い方でもない。少し飲みすぎた体もシャワーの飛沫と冷たい水でかなり冷めたようだ。

「コウちゃんの淹れたコーヒーはいつでも美味しいわね。」

「それよりも花を見てよ。喜んでくれると思って買ってきたんだから。」

「そうね。」

そう言って鉢の包装紙を開ける。

どうやら期待通りだったらしい。逆に言えば期待以上のことはなかったとも言える。

「あなたの気遣いはホントに素晴らしいわ。私って幸せね。」

少し皮肉めいた言葉にも聞こえた。直美には特に悪気は無かったのだ。逆に何もしてあげられない自分を責めていたのかもしれない。

黙ってニッコリと微笑んだまま、直美は浩市をベッドへと引き寄せる。直美の体の火照りはアルコールのせいばかりではなかっただろう。浩市も直美も以前の中途半端な営みに終わらぬよう慎重に時間を使う。言葉少なに。逆に言えば大きな刺激も無く淡々と交わされる睦言に深々と進められる戯曲。大団円も厳かに迎えられ、無事に二人の儀式は終了を迎えた。

あとは涼しげな夜風が空を舞う秋の夜が二人を見守るだけだった。



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