第5話 偽りを支える真実の存在

何気に帰宅すると直美は既に帰っていた。時刻は夜の十時を回っている。

「遅かったのね。どこに行ってたの?」

「ご飯食べに行ってただけだよ。電話してくれれば、どこかで待ち合わせたりできたのに。」

もちろんそんなことは出来なかったのだが、一応そんなセリフでかわした。そしてもちろん、ご飯など食べてきてはいない。

「直美は何時に帰ってきたの?」

「私もさっき帰ってきたばかりよ。」

「疲れてるなら何か作ってあげようか。」

「優しいねえ。男の人が優しいときって、何か下心があるときって言うよね。」

「ん?そんなこと言うなら自分で作れば。まあ、ボクが作ってあげられるのはチャーハンぐらいだろうけどね。」

「いいわよ、自分でするから。それよりも先にお風呂に入ってね。夜遅くに洗濯するのは嫌だから。」

活字だと淡々とした普通の生活リズムの中の会話のようだが、最近はやや冷めた雰囲気が漂っている夫婦間の会話としては、言葉の端々に棘を感じることがあるかもしれない。

二人して元は穏やかで優しい性格なのだが、一度何かが変わってしまうと中々元通りには戻せない。それが男女間の難しいところかもしれない。

浩市は湯船の中でも、今の生活における空気感について微妙な違和感を覚え始めていた。このまま子供ができなかったら。そんな中でも何か別の目標ができればいいが、それさえも見つからなかったら・・・。

将来的な不安が少しずつ波のように押し寄せる。


翌日、出版社へ顔を出すとヒデちゃんが声をかけてきた。

「おはよーございます。コウさん今晩あいてますか?ちょっと相談したいことがあるんですけど。」

珍しく神妙な顔をしている。

「いいよ。食事?それともトリンケン?」

「トリンケンでお願いします。それとベンさんには内緒で、ボクと二人だけでお願いしたいんですが。」

「わかったよ。なんだか怖いな。じゃあ夕方、ボクの方が終わったらデスクに行くから。それでいいかな。」

「はい。ただの相談です。話を聞いてもらえればいいだけですよ。」

この日は別の企画の打合せと写真校正とが午前と午後にそれぞれあった。午前の打ち合わせについては、編集長と制作側との刷り合わせが長引いたため、そこそこ時間を費やしたが、写真校正の方は特に注文をつけなければならない箇所がなかったため、早めに会議室を出た。

時計を見ると午後四時を少し過ぎたあたりだった。

浩市はヒデちゃんのいるデスクへと足を運ぶ。その頃ヒデちゃんは、自分の担当する記事の構成にあたふたしていた。

「ボクの方は終わったけど、ヒデちゃんは何時に終わる?」

「ああコウさん。すみません、あと小一時間程かかりそうです。ちょっと厄介な修正が必要になったものですから。」

「かまわないよ。じゃあ、ちょっと黒さんのところへでも行ってくるかな。」

黒さんとは黒田伊佐夫といって、付き合ってきた年数だけはヒデちゃんよりも長いディレクターの一人で、この会社で慣れ親しんだ相棒の一人でもある。

フリーになる前からの付き合いがあり、彼の紹介でこの会社の専属になれたと言っても過言ではない。

「こんにちは。」

「やあコウさん、いいところへ来たね。」

どうやらグッドタイミングだったようだ。

「今度さ、北海道の取材を企画してるんだ。ばんえい競馬なんだけどね、十月下旬。コウさんのスケジュール空いてる?」

浩市も様々な仕事で日本全国を回ってきたが、北海道なら悪くない。十月下旬なら相当寒いだろうが、魚は美味くなる時期でもある。

「スケジュールは調整しますよ。ばんえい競馬も初めてですから、是非とも見てみたいですね。」

「朝が早い仕事の取材だし、動物がいるところは気を使わなきゃいけねえし、活きのイイ中堅のカメラマンじゃなきゃと思ってたんだ。コウさんならピッタリだよ。」

「お褒めのお言葉ありがとうございます。でもギャラは負かりませんよ。」

「なんだお見通しって訳だな。でもそれぐらいの気が回るヤツじゃなきゃ今回は困るんだ。オレもやっと頼み込んで取ってきた仕事だからな。じゃあ、細かい打ち合わせは来週。また連絡するから。」

そういって黒さんは「ポン」と浩市の肩を叩いた。

「それはそうと、最近ヒデちゃんやベンさんと面白い遊びをしてるんだってね。」

「えっ?誰がそんなこと言ってるんですか?」

「ヒデちゃんだよ。コウちゃんもお仲間に入っているようだけど、違うのかい?」

「ボクは一回だけ行ったっきりですよ。彼らはそれなりに楽しんでるようですけどね。ボクはああいうところは苦手です。」

「ああいうところってどういうところだい?」

「女の子がいて、ちょっとエッチな雰囲気でお酒を飲むところですよ。」

「なんだい、コウちゃんはホモだったのかい?」

「これでも一応結婚してるんですよ。」

「でも子供はまだだって聞いたぜ。あっちの方も苦手だったりして。」

話がそっちの方に傾きかけたので、浩市はその問いかけには答えなかった。

「それよりも北海道の仕事、よろしくお願いしますね。楽しみにしてますから。」

その後、二つ三つのデスクを回り、編集長よろしく挨拶をかわしながら世間話をしていたら、あっという間に約束の時間になっている。少し慌ててヒデちゃんのデスクへ戻ってみると、彼はあっという間に帰宅の準備が整っていた。

「待ってました。さあ行きましょう。」

浩市はヒデちゃんに手を引かれて建物を出た。ベンさんもいたようだが、あいにく今回は秘密裏の話があるようだから、見つからないようにこっそりと出て行ったに違いない。

流石に新宿である。会社の周囲で飲み屋は選び放題。それでも顔見知りにあわないよう、一駅隣の大久保まで足を伸ばした。

この辺りでも駅からはそう遠くない所に店がワンサカと並んでいる。二人はこじんまりした赤提灯の店に入った。

店内は仕事帰りのサラリーマンがぼちぼちと入ってきている。

店奥の角にある小さなテーブルが空いていたので、そこを陣取ると、ビールに焼き鳥、それに厚揚げときんぴらなんかを注文し、ようやく腰が落ち着いた。

「さて、折り入って何の話かな?それともどんな愚痴を聞かせてくれるのかな?」

「実はねコウさん。」

そう言ってヒデちゃんは真面目な顔で話し始める。

「あの『ライムライト』でオイラのお気に入りの嬢が店を辞めるって言い出したんです。話を聞くと、もうそろそろ潮時だとか、夜の店を卒業したいとか、そんなこと言うんですよ。それでね、どうしたらいいのか、コウさんの意見を聞こうと思って。」

「彼女がキミに話したのは相談?それとも予告?どっちにしてもヒデちゃんに彼女を引き止める権利はないよね。」

「そうなんですよ。でも折角仲良くなったし、メルアドも交換してるし、あとはデートするだけなんですけど、もういなくなっちゃうんですよ。」

そしてビールと突き出しが運ばれてくる。二人は冷たいビールで喉を潤して、話の続きを始める。

「ヒデちゃんの希望は一回デートして欲しいってこと?それならそれでハッキリお願いしてみれば?ダメなら諦めるしかないんじゃない?」

「そうですよね。普通はそうなんですよ。だけど、デートしちゃうと浮気ってことになりますよね。そうなると重いような気もするし。関係を持たなければいいのかなっても思うし、だけどそれならデートしなくてもイイなとも思うし。」

「結局はヒデちゃんはどうしたいの?」

「もしこれがコウさんだったらどうしますか?コウさんの馴染みの嬢が辞めたいってこぼした時に。」

浩市は少し切実な気がした。なぜなら、浩市にとっての気になる嬢とはキョウコのことであり、彼女においても、いつ辞めると言うか解らない。そう思うとやはりヒデちゃんと同じ思いになるかもしれないと思ったからである。

「ヒデちゃんは結婚してまだ何年も経ってないよね。それなのにお店の女の子のことを好きになったりするの?ベンさんなんかは多分ただの遊びだよね。だからお気に入りのお嬢さんが店を辞めてもなんとも思わないと思う。だけど、辞められたら困るって言うことは遊びじゃないってことかな。」

ヒデちゃんはしばらく考えている。まだ自分の気持ちに整理がついていないのか。

「ボクは嵌ると一途な方だから、なるべくそういう店の女の子がいるお店に行かないようにしてる。ボクが女の子のいるお店が苦手だっていう理由はそんなところにあるんだ。」

「なるほど、それならオイラなんかよりもコウさんの方がよっぽど危ないですね。ところでコウさんは『ライムライト』へはあのあと何回行きましたか?」

「一度も行ってないよ。」

するとヒデちゃんは怪訝な顔をし始める。

「おかしいな。オイラのお気に入りの嬢はアヤちゃんっていうんですが、三人で行ったあのときのことをよく覚えているみたいなんですよ。それでね、あの時の男前は誰なのって聞かれるんです。まさかその男前ってベンさんのことじゃないだろうって思ったので、ウチの専属のカメラマンだよって言ったら凄く反応が良くて、私も写真を撮ってもらおうかしらなんて言うんですよ。」

「なんだか話が違う方向に行ってない?」

思わぬ方向転換に少し緊張感が走る。先日彼女に会った時には、浩市が通っていることは内緒にしてくれると言っていた筈なのに、ヒデちゃんが彼女に聞いたのは、それ以前のことなのだろうか。

「一回しか見てないのに覚えてるの?って聞いたら、何回か顔見たわよって言うんですよ。もちろん店の中だと思うんですけど、それってコウさんですよね、ベンさんじゃないと思うんですけど。」

「いや、ベンさんじゃないの。見ようによってはベンさんだって十分男前だよ。貫禄もあるし。ボクなんかその時のおねいさんに『かわいい』なんて言われてるぐらいだから。」

するとヒデちゃんは浩市の言葉を受けて確信したようにうなずいた。

「やっぱりベンさんじゃなくてコウさんですよ。アヤちゃんはイカモノ食いじゃないですからね。少なくともあの店で『かわいい』なんて言われる人を見たことがないですし。」

「それはボクがズブの素人で、オドオドしてたからだよ。彼女だって本気で言った訳じゃないだろ。」

「オイラとすればどっちでもいいんですが、できればコウさんの方が頼みやすいんです。ようは今度コウさんがお店に行ったときに、アヤちゃんに会ったら聞いてみて欲しいんですよ。」

「一体何を彼女に聞くの?」

「ボクとデートしてくれるかって。いや、いつも誘ってるんですけど、上手くはぐらかされて、イエスともノーとも言ってくれないんですよ。」

「それってまさに営業スタイルだね。イエスって言えば行かなきゃいけないし、ノーって言えば客として離れる可能性があるし。それに、そのデートって下心丸出しなんでしょ。まかり間違ってもイエスなんて言葉が返ってくる訳ないじゃない。」

ヒデちゃんは急にしょんぼりして、いつの間にかテーブルに並べられていた焼き鳥に齧りつく。

「なんかねえ、男のロマンなんですよ。家ではヨメさんがいて、外では馴染みの店に女の子がいて、なんか理想じゃないですか。オイラは両方を愛せるんですよ。」

浩市にとっても、やや耳の痛い話に聞こえる。

あえて言えば、『ライムライト』の中でさえ、ミキを指名しながら、その実、期待しているのはキョウコの愛情だったりするのである。

浩市は自らのことを棚に上げて話をするしかない。それでも気のいい友人にする話はやはり一般論だ。危ない橋を渡るような方向を示すわけにはいかなかった。

「じゃあ今度、ボクがアヤさんに直接会って、ヒデちゃんに引導を渡すように含めて来ようか?それでも彼女のことが好きなら、彼女が店を辞めるまでは行ってあげればいいし、それでもう彼女のことを忘れるなら、それはそれでいい区切りになるんじゃない?」

「いや、やっぱりいいです。自分で聞きます。それに、まだ辞めることが決まった訳じゃないですから。それよりも、コウさんに取られる方が嫌な気がします。」

「えっ?何でボクが彼女のことを取っちゃうの?」

「アヤちゃん、コウさんがカメラマンだって言ったら写真を撮って欲しいって言ってましたから。コウさんならデートに誘えそうな気がしますし。」

「ボクはモデルカメラマンじゃないよ。人を撮影するのは得意じゃないからね。頼まれても受けないよ。」

「もろ肌見せられてもですか?」

ちょっと冗談っぽく揺さぶるが、それに動じる浩市ではなかった。

「もろ肌見せてもらうまでには至らないさ。それにボクが彼女をデートに誘うこともないしね。」

「でもやっぱり自分で聞きます。彼女が積極的にコウさんに迫るのを想像するだけでへこみますから。それなら自分で聞いて引導を渡してもらいますよ。なんならこの後行ってきます。コウさんも一緒にどうですか。」

「ボクは遠慮しとくよ。キミがへこんだ後に慰める言葉を持ち合わせていないし。明日、ヒデちゃんを慰める会を開いてあげるから、その時に聞くよ。」

「引導を渡されるのが前提なんですね。」

「たぶんね。」

ヒデちゃんの切ない相談はこれにて終了する。彼の気持ちがどこまで本気なのかは知る由もないが、浩市はその週末に『ライムライト』に足を運ぶことになる。もう一度キョウコの気持ちを試したくなったからである。



浩市が『ライムライト』へ出向く日は、彼が得た久しぶりの休日に当たっていた。サラリーマン並みの休日が予定されない彼は、たまに休みに当たるとまるでネコの日向ぼっこのようにのんびりと退屈な時間を贅沢に過ごすことが多い。

この日も天気がよく、秋を促す心地よい陽気が部屋の中に差し込んでいた。

直美は仕事があるらしく朝早くに出かけたが、朝寝坊したい浩市はまだベッドの中でうずくまっていた。

昨日は二人して早く帰宅できたので、久しぶりに顔を合わせての夕食となったが、今宵は遅くまで編集作業があるそうで、直美の帰宅は遅くなりそうだった。

先日のヒデちゃんの話を聞いてから、キョウコの気持ちを確かめたくなっていた浩市は、この夕方から『ライムライト』へ出かける予定にしていた。この日は指名が出来るミキも出勤している好都合な曜日だった。

昼前にベッドから抜け出た浩市は、軽くランチを整える。

冷蔵庫を探索し、適当なお宝を見つけてはフライパンで炒めてしまう。それをチンした白いご飯に乗っけてしまえば、特製日替わり丼の出来上がりである。

食後のコーヒーはインスタントで十分満足する。起きたばかりなので昼寝はしない。代わりと言っては何だが、近所の公園まで散歩に出かける。この日は夕方まで時間があるので少しばかり遠出の散歩をしてみた。

そろそろ街路樹も公園の樹木も、皆一様に紅葉を呈している。陽射しは暖かいが、ときおり頬を刺す風は秋の香りと共に冷たく過ぎていく。

歩きながら考えるのは、ミキに対する話題とキョウコに対する話題のこと。キョウコの指名が出来ない以上、まずはミキを指名するしかない。そのときに機嫌よく相手をしてもらうためのネタも用意しておかねばならない。

なかなか共通の話題はないのだが、最近はどうやら日本酒に凝っているらしいことを聞いた。浩市もさほど飲んべではないのだが嫌いではない。飲み屋や地方で出会った日本酒をデパートなどで物色したこともあった。浩市は少し早めに出かけて、新宿の百貨店でミキヘのお土産を買って行くことにした。

さて、キョウコへのお土産はどうしよう。まさか同じものというわけにもいくまい。それは行ってから考えることとしよう。百貨店なら何か気に入るものもあるだろう。

散歩から帰った浩市は、夕方の少し早めの時間に部屋を出る。

秋の陽気は浩市の背中を後押しするかのようにポカポカと暖めていた。



新宿のとある百貨店では、最上階の催事場で富士山をテーマとした写真展が開かれていた。出展者の中に浩市の友人の名前を見つけたために、ついぞその写真展を見に行かずにはいられなかった。浩市もいくつか写真のコンクールに出展したことがあり、何度か佳作に選ばれたことはあったのだが、入選作品となるには至らず、師匠から独立すると同時に出展を諦めて、仕事に打ち込んだ。そういった経緯があるためか、あまり写真展を見に行くこともなかったのだが、たまたま友人の名前を見たがために、新たな機会を作ってしまった。

会場となるフロアには大小さまざまなサイズの総勢三十点余りの作品が展示されていた。そこに友人はいなかったけれど、彼の作品を目の当たりにした浩市は少なからず感銘を受けていた。その友人も浩市と同じように、プロのカメラマンとして糧を得ながらコンクール等に挑戦しているはずである。

今回の写真展は、写真雑誌関係の選抜出展のようだが、自分の腕をアピールするには良い機会であることに違いはなかった。

浩市も現在の仕事やその待遇に不満はなかったが、いつかはコンクールで入選を果たしてみたいという夢はあった。その夢に対しての大いなる刺激になったのである。

さほど長居する気もなかったのだが、色んな作品に魅入られているうちに、あっという間に二時間ばかりを費やしていた。慌てる必要もなかったのだが、そのおかげで『ライムライト』のオープニングには間に合わない時間となっていた。

週末でもあるし、そぞろな人波に紛れてもう少し百貨店内を散策してみた。ミキの土産は用意できたが、キョウコへの土産がまだ見つかっていなかったからである。

別に誕生日でもなく、クリスマスでもなく、ホワイトデーでもない。そんな日にプレゼントする物って何だろう。

何も浮かばないまま専門店街を歩いていると、ふと目に留まる店をみつけた。食品サンプルの店である。その店では食品サンプルの技術を活用して、スマホケースやマグネットなどを販売しているのである。

これは面白いと思った浩市は、自分用に名刺入れを購入した。カレーライスを模ったものである。そしてキョウコには似たような系統のピルケースを買ってみた。

さて、これで両名の土産は出揃った。あとは店に向かうだけである。

時計の針はいつの間にか十九時を指していた。


今宵の『ライムライト』は、週末だけあって盛況の様だった。

いつものように受付のおにいさんにミキの指名を告げると、店内の中央に近いシートに案内される。この時点でミキには他の指名客がついていることが確定している。

もしも、誰もいなければ一番手前の通路のシートに案内されるのが、この店のシステムだと理解している。

入店直後はすぐにミキが現れる。

「いらっしゃい。やっときてくれたのね。」

とは最初の営業スマイルからのご挨拶。

「そんなに間が開いたようには思えないサイクルだと思うけど。」

前回の訪問からは二週間は経過しているが、その間隔が長いとは思っていない。

「ミキにとっては気が遠くなるほど昔のように思えるわ。」

少し大袈裟な表現だが、これも一種の営業トークなのだろう。

「今日はお土産を持って来たよ。」

浩市は手にしていた日本酒をミキに渡す。

「嬉しい。ホントに気が利くのね。そういえば前回の時、日本酒の話をしたよね。すぐにお土産してくれるなんて、なんていい人なの。」

そう言ってミキは浩市の首に腕を回して唇を提供する。甘美なサービスを好まない客など一人もいないだろう。浩市もまずはゆっくりと若い唇を堪能する。

「今日は週末だけに盛況だね。今の指名は何人?」

「今はコウちゃん入れて三人よ。こんな週末に暇だったら、お店潰れちゃうよ。」

「それもそうだな。じゃあ、また他の客に盗られる前にミキの首筋の匂いをもう少しもらっておこうかな。」

いつものように匂いフェチの浩市は、香しい匂いを自分の鼻に擦り付けるように堪能する。

「コウちゃんって本当に匂いフェチなのね。どんな匂いなの?何の匂いなの?」

「言葉では言い難い匂いだよ。とっても良い匂い。」

するとミキは目をクリクリして浩市に尋ねてみる。

「コウちゃん、ヘルプの女の子も含めて誰の匂いが一番好き?」

「ん?みんなそれぞれ匂いがあって、誰の匂いが一番とかはないよ。匂いのちゃんとする人と余り匂いがしない人と。違いがあるとすればそれぐらいかな。順番をつけるつもりはないけど、どっちかと言うと、ちゃんと匂いのする人が好きかな。」

「ミキは?ちゃんと匂いがする?」

「うん。とっても良い匂いがするよ。」

そして浩市は再びミキの首筋を確保する。

今は彼女にこの行為以上のことを特に求めていない。

匂いが好きか嫌いかではなく、今はキョウコの登場が待ち遠しいだけなのだが、ミキにその事を告げてはいけない。

百貨店で用意した日本酒の四合瓶は新潟産のこじゃれたラベルの可愛い瓶である。

「日本酒ありがとね。おうちで頂くわ。」

お礼のつもりか、浩市に唇を提供してくれるのだが、そのタイミングで場内コールが聞こえてきた。


=ミキさん、二番テーブルへ=


浩市にとっては待っていたタイミングだった。

ミキは受け取ったばかりの瓶をテーブルの上に置いたままで、呼ばれたシートへと移っていく。

「ちょっと待っててね。」

浩市はその後姿を見送りながら、次の場内コールを待つ。


=キョウコさん、八番テーブルへごあいさつ=


浩市にとってはいいタイミングだ。最初から彼女をよこしてくれるなんて、気の利いた店長だと勝手に満足している。

そしてキョウコはいつものように、すっと現れて浩市の隣に座った。

「こんばんは。熱心ね。」

「誰に?キョウコさんにですよ。彼女には言いませんが、あなたに会いに来てるんですからね。心してくださいね。」

「あら、怖いわね。でも、ちゃんと彼女にお土産を持ってきてるじゃない。」

キョウコはテーブルの上に残されている瓶を見つけて指を刺す。

「キョウコさんにはちゃんと別のプレゼントを持ってきてますよ。」

そういってポケットから包装の行き届いた小箱を取り出した。

「えっ、私に?何かしら。開けてもいい?」

「いいですよ。でもその前に少し時間をもらってもいいですか。」

浩市はキョウコを抱き寄せ、匂いを確保すると同時に唇も求めた。

「悪い子ね。でもいいわ。」

いっときの抱擁を感じ終えた後、キョウコは小箱の包装を開き始める。もちろんそこには食品サンプルを模ったピルケースが入っている。浩市が選んだのはナポリタンのサンプルだ。

「すごい、ステキなプレゼントをありがとう。でも何で今日が私の誕生日だって知っていたの?コウちゃんには教えてなかったよね。」

これには浩市も驚いた。まさかそんなこととは知らなかった。それでも持ち前のジョークの利いた言い草はいつものように流暢だ。

「もちろんキョウコさんのことが大好きだから、何でもわかっちゃうんじゃない。」

「うそばっかり。でもホントに驚いたわ。ありがとう。」

「いくつになったかなんて野暮なことは聞きませんよ。でもプレゼントのお返しに、一度だけキョウコさんを指名させてください。」

「そうねえ。何かコウちゃんとは因果めいた感じもするしねえ。一度社長に相談してみるわ。コウちゃん限定って出来るかどうか。」

「よろしくお願いします。その時はミキが出勤していない水曜日に来ますよ。名刺は渡してましたよね。一度メールを下さい。行ける日を前もって連絡するようにしますから。」

「あら、上手いのね。そうやってメールアドレスを聞き出すのって。」

キョウコはニッコリと微笑みながら浩市の腰に手を回す。

「何だかいつの間にかコウちゃんの術中にはまっていくみたいね。」

今宵もキョウコの妖艶な唇は浩市の神経を痺れさせる。

浩市は無言のままキョウコの動きに合わせる。もはや浩市にはキョウコとの甘い時間のことしか胸中になかった。

何か大切なものを得たような感覚の中、しっとりと汗ばんだ肌の熱さを感じながら互いの体温を確かめ合っていた。

しかし、ひと時の別れの時間は訪れる。

今宵は仕方がない。浩市の指名嬢はミキなのだから。

「また後でね。」

確約の出来ない口約束だけしてキョウコは浩市のぬくもりから離れることとなる。

やがてミキが戻ってきた時に、浩市は少なからず物足りなさを感じていた。そんな表情を出すつもりもなかったが、カンの良い女のことだ、あっという間に指摘されてしまう。

「今のヘルプはキョウコさんだったよね。コウちゃんもしかしてキョウコさんのことが好きなの?」

「ははは、ミキも好きだよ。」

誤魔化すつもりもなかったが、元来表情にウソのつけない性格の浩市は、あっという間に窮地に追いやられてしまう。

「うふふ、大丈夫よ。ミキのお客さんじゃないけど、何人かそんな人も見てきたわ。確かに綺麗な人だものね。でもあの人はヘルプ専門の契約みたいだから無理よ。諦めなさい。」

「そうだね。ミキは可愛くておっぱいが綺麗で、そしてボクよりも遥かに若い。それはそれで物凄く魅力があるんだけど、あの人は同じぐらいの年代だから、ちょっと何かが違うんだよ。ただそれだけだよ。」

「あはは、コウちゃんやせ我慢してる。同じ年代だからこそ、本当の恋に落ちちゃうんじゃない?」

ミキは浩市の関心がキョウコにあることを確信すると、怒るどころか反対に浩市を煽り始めた。

「いいのよ。どうせキョウコさんは指名できないんだから、その橋渡しをミキがしてあげる。そのかわりちゃんとミキを指名するのよ。」

浩市はミキに弱みを握られたような感じがして少し嫌だったが、今のところはミキにすがるしかない。

「じゃあ、ミキに抱きついちゃいけないの?ボクはミキの匂いも楽しみにしてるんだけどな。」

「変な人。いいわ。コウちゃんいい人だから許してあげる。そのかわり、キョウコさんとのこと、逐一ミキに報告するのよ。」

「はい。わかりました。じゃあ早速抱っこさせてください。」

このあたりはミキも慣れたものである。客を逃がさないだけのサービスはきっちりとこなしてくれる。熱いくちづけも今までどおりの挨拶が施される。

男どもがどんどん勘違いを起こしてしまう所以たるサービスなのだろう。どんな男でも若くて可愛い女の子から甘いくちづけをもらって嫌がる馬鹿はいない。

少し罪悪感を覚えながらミキの体を抱きしめる。浩市にとっては、これはこれでまたぞろ不倫感を抱きながらの時間を過ごす空間となるのである。

次にやってきたのはシノブさんだった。

彼女はコミカルな性格のためか色っぽさよりもエンタテイメントの部分に人気があるようだ。従って、衣装はかなりエロチックなのだが、ほぼ楽しい会話だけで過ごすことが多い。

この日も、次に開催される予定のコスプレの衣装のことで盛り上がっていた。

「今度のコスプレ祭り、ハロウインなんだけど、あなた興味ある?」

この店は年に何回かをコスプレ祭りと称して、嬢たちに色んな衣装をまとわせて、客の目を楽しませてくれるイベントを行っていた。

「ボク自身は仮装なんてしたことはないですけど、可愛い女の子たちが色んな衣装を着飾っているのを見るのは嫌いじゃないです。男なら普通だと思いますが。」

「そうだよね。去年は悪魔みたいな衣装でゾンビの化粧をしたんだけど、あんまりウケが良くなかったのよね。でもアニメのキャラクターはあの子がやるだろうし、ナースは先月やったし、ミニスカポリスってどうかなって思ってるんだけど、どう思う?」

「って、ボクに聞くんですか?シノブさんはボクと一緒で、被り物が何でも似合うタイプでしょ。去年の悪魔も似合ってたんじゃないんですか。」

浩市は返事に困っていた。ちょっと想像しがい感じだったが、まさか似合わないだろうなどとも言えないし。ただ、実際に彼女なら何でも似合うと思っていた。

「最近よく見かけるけど、家は近くなの?」

「さほど近くってわけではないですが。」

「家からここまで仮装して来る気はない?」

突然何を言い出すのかと思いきや、とんでもない話だ。

「シノブさんは仮装の格好でここまで来られますか?シノブさんができるならボクも挑戦してもいいですが。」

「アハハハ、そんなの着て来る訳ないでしょ。」

「だったらボクもできませんよ。」

「そうだよねえ。」

何の脈絡もない、けれどもそのコミカルな会話が彼女の特徴だ。

そんな彼女も浩市のシートに別れを告げ、ミキが戻ってきた。

「残念だったね。」

戻ってきての第一声がこれだった。

「どうして?」

「だってキョウコさんじゃなかったでしょ?」

「シノブさんだって楽しいよ。色んな人と話が出来るのは嫌じゃないよ。」

「正直じゃないのね。」

「だって、その分はミキが癒してくれるんでしょ?」

「仕方のない人ね。コウちゃんみたいな人、何か許せちゃうのよね。」

浩市はミキの腕と体に身を任せたまま、何も言わずに彼女の顔を見上げた。

豊満な彼女の胸は浩市の顔を埋めるほどに包んでくれている。

「ミキのことだって大好きなんだよ。」

「うふふ、奥さんもキョウコさんもでしょ?」

「こんな所で奥さんの話はしないで欲しいな。」

「でもね、奥さんは大事にしてあげてね。不幸にしちゃだめよ。」

「自信はないかな。キョウコさんとミキが二人同時にボクと同居してくれれば楽しいのに。」

ミキはキョトンとした目で浩市を見る。

「だあ、めえ、よっ。キョウコさんの橋渡しはしてあげるけど、最終的には奥さんのところへ帰るのよ、解った?」

「はい。今のところはそう返事をしておくよ。」

そしてミキは再び別の客のシートへ渡っていく。

次にヘルプに来たのは待望のキョウコだった。

「うふふ、ミキちゃんがやけにニヤニヤしてたけど、何の話をしてたの?」

キョウコは浩市の隣に座るやいなや、その話を投げかけた。

「あのね、ミキちゃんに見破られてしまいました。ボクがキョウコさん目当てに来てること。」

「で?正直に言っちゃったの?」

「どうせボクはウソが下手ですから。しかもウソを隠すために別のウソをつかなきゃいけないでしょ?ボクには無理です。」

「それで?ミキちゃん怒ってたでしょ。」

「いいえ、それどころか間を持ってくれるって言ってましたよ。ボクとキョウコさんはこれから深い恋に落ちる運命にあるんですよ、きっと。」

「それこそウソでしょ?」

「ホントですよ。そのかわりキョウコさんに会うにはミキを指名するしかないでしょって。今は確かにそれしか方法はないですからね。」

「もし私を指名できるようになったらどうするの?」

「その時は、キョウコさんしかいない日はキョウコさんを、ミキもいる日はミキを指名するようにしますよ。その方が自然でしょ。」

「うふふ。賢いのね、っていうかマメね。」

「好きな人に会えるなら、知恵がいつもより余計に回るようになるんですよ。それに、そうと決まれば、ちゃんと抱っこさせてくださいね。」

「うふふ、結局コウちゃんてば・・・。」

「ん?なんですか?」

「うふふ、内緒よ。」

浩市もそれ以上は何も聞かずに、キョウコの胸の中に顔を埋めて、彼女の匂いを確認する。そして唇を要求し、滑らかな舌触りとネットリとした感触を確認すると共に、吐息の匂いも存分に堪能するのである。

「ところで、ついでと言っては何ですが、デートに誘っても大丈夫ですか。」

「私を?ダメよ。それこそ浮気になっちゃうわよ。お店の中ではいいかもしれないけど、プライベートではダメよ。」

少し落胆したような浩市を慰めるように唇を合わせに行くキョウコ。

「じゃあ、ボクが離婚すればデートしてくれますか?」

「そのために離婚するんじゃもっとダメよ。今はまだそんなこと考えないでね。」

そして現実の空間には、キョウコが浩市のシートから離れる場内コールが響き渡る。

「またね。」

それだけを言い残して去っていくキョウコ。同時に浩市の元へ戻ってくるミキ。

「どうだった?ちゃんと口説けた?」

少しにやけた表情をつくろいながら浩市の膝の上に乗り、キョウコとのやりとりをからかうように投げかけた。

「ボクは口下手なんだ。なかなか上手くボクの真意は伝わらないよ。ミキちゃん、後はよろしくお願いね。それと、今のボクもよろしくお願いね。」

ひと段落した浩市はミキを抱き寄せ、彼女の豊満な胸の膨らみを嗜んでいく。男というものは現金なものである。目の前の手短な欲望は抑えられないらしい。

「そろそろ時間よコウちゃん。今日はどうする?」

いつの間にか終わりを告げるコールがあったようだ。

「今日は帰る。また来るよ。キョウコさんのことはよろしくね。他の人には内緒にしてね。」

「えへへ。」

何だか二人の秘密を握ったような感じでミキも少し満足げだった。

少し進展したようなしないような秋も間近の夜。

浩市は淡い期待を胸に繁華街の装いを後にするのだった。


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