第4話 垣間見える三重目の影
九月が終わる。
冒頭で述べた人恋しくなる九月が終わる。
浩市の九月は、やはり出会いの九月だった。
この出会いが、やがて来るべき浩市の運命を変えていく。そんなこととは本人が知らぬまま終わった九月が明けて、やや多忙な十月が訪れている。
直美の妊活の結果は、やはり残念な通達だけが二人を押しつぶすことになった。こうなったら病院へ行くしかない。そう決めていたのだから。
重い気持ちを胸に二人して向かう病院であったが、思いのほか検査や治療を受けるカップルが多いのに驚いた。日本の出生率に曲りなりにも影響しているのであろうと感じる。とはいえ、まさか自分たちがその検査のために病院を訪れることになろうとは考えもしなかっただろう。
そして何度目かの検査で、浩市側に異常がないことが判明する。しかしそれは逆に直美にとっては辛い宣告をされたも同じであった。
女であるはずの最も重要な権利が奪われているのである。結果を聞いたときに泣き崩れる直美をただ慰めるしかなかったが、この結果を両親にしないようにとだけ説き伏せた。妊娠が不可能になったわけではないのだし、本当の妊活はこれから始まるのである。
気が重いのは浩市も直美も同じである。浩市とて本人ではないにせよ、一緒に暮らしている夫婦。毎日顔を合わせ同じ床で就寝するのである。
その内に直美の吐く溜息の回数が増えてくるにつれ、浩市のイライラ感も上昇する。相手への気遣いもなおざりになりがちとなってくる。
そんなつもりはないのだが、重い空気はたった一言で雰囲気を変えてしまうから恐ろしい。
ある朝のこと。
珍しく二人共に休暇日の朝だった。
ゆっくりと遅い朝を満喫した後は、ゆっくりとした朝昼兼用の食事をしたためる。
午後からは病院に行かねばならない。
「なんだか久しぶりに二人でゆっくり朝寝坊したな。モーニングはボクが作ってあげようか。玉子はスクランブルでいい?」
「そうね、サニーサイドアップの方がいいかも。お願いできるかしら。」
「いいとも。」
冷蔵庫から玉子を四つ取り出して、次にフライパンに火を入れる。
フライパンに熱が入ると、オリーブオイルを引いて軽快に四つの玉子を割っていく。塩は振らないで胡椒だけで彩るのが二人のデフォルトである。なぜならば、この後の調味料が浩市と直美とで異なるからである。
浩市は目玉焼きにはソースを。直美は醤油をかけるタイプ。それぞれの好みは尊重する。それが目玉焼きにおける二人のルールなのである。
コーヒーはインスタントでよい。トーストは二人して厚めが好み。ジャムはつけない。マーガリンよりもバターにこだわる。などといった他の家庭とは一風異なるモーニングのルールが存在したりするのである。
時間はあるので、レタスとハムをちぎってサラダにしてみる。ヤングコーンとミニトマトぐらいは乗せてみよう。ドレッシングはノンオイルが好まれた。あとはフライドオニオンでも振り掛ければ、立派なサラダの出来上がりだ。
ちょうど用意が出来たころに、のそのそと直美がベッドから這い出してきた。
「コウちゃんゴメンネ、サボっちゃって。」
「いいよ。別に嫌いじゃないし。」
「今日もいい感じのサニーサイドアップだね。」
「たまにはターンオーバーって言ってくれてもいいんだよ。」
「次の機会があれば考えておくわ。」
軽い感じの会話でこの日は始まったはずだった。
「今日の病院は何時だっけ?」
「二時半よ。忘れてたの?」
「時間までは正確に覚えてなかった。」
「検査するのは私だもんね。」
「そういうスネた言い方しないの。ボクだってちゃんと一緒に行ってあげるんだから。」
「そうね、コウちゃん優しいもんね。」
「キミだから一緒に行くんじゃないか。」
「そうよね。ゴメンネ、手間のかかる奥さんで。」
直美も元々は素直な女の子で、少なくとも学生の頃はこんな言い方をする子ではなかった。と浩市が思った瞬間、少しそのことが顔に出てしまった。
「面倒臭いなら一緒に行かなくてもいいわよ。」
「そんなこと言ってないじゃない。一緒に行くよ。」
直美もつまらないことを言ってしまったと思ったのか、それ以上は愚痴っぽい文句を言うのは避けた。
そしてしばらくの沈黙が続く。
いつの間につけていたのかテレビの音量だけが室内に響いていた。
「テレビって意外とやかましいね。FMでも聞こうか。」
「そうね。どうせならCDをかけてくれない?ポールモーリアがいいわ。あれはゆったりとして落ち着くから。今の私にはそういうのが必要なのよ。」
「うん、わかった。」
浩市はスタンドラックからお望みのCDを取り出し、スイッチを入れる。やがて流れるようにゆったりとした曲の演奏が始まる。
少し躓いたような朝だった。
それでも午後からは二人して病院に出かける。検査は数時間に及んだが、今日のところはすぐに結果がわかるわけではない。また数週間後に再検査を行う。そのための予約だけして帰ってきたのである。
なんだか憂鬱なまま日が暮れる。
そろそろ秋らしい風が吹き始めたころの出来事だった。
浩市の仕事は順調である。
秋になると紅葉のシーズンに向けてのロケハンに忙しい。
その週の金曜日は打合せだった。来年の紅葉の穴場探しがテーマである。
観光客がワンサカと押し寄せて来ない、ひなびた場所を探すのが記事のポイントであるかのようだ。雑誌のサブタイトルにでかでかと「秘境の穴場」などと掲載されると、あっという間に「秘境」ではなくなるということが読者にはお解かりでないらしいが。
しかし、東京から紅葉を見にわざわざ群馬や栃木くんだりまで行くのだろうか。浩市は不思議に思っていたが、実際にいるのだから仕方がない。それどころか、京都や青森にまで出かける人がいるというのだから恐れ入る。
「雑誌の写真は来年用だから。カジ君と一緒にテキトーに何箇所か回って良いとこ見つけて来てよ。」
と簡単に言う編集長。カジ君というのは梶本真司というのが本名で、その記事のディレクターである。
「コウさん、いつもヒデちゃんばかりご贔屓のようですが、たまにはボクにもよろしくお願いしますよ。」
「カジ君、いったい何のことを言ってるのかボクにはわからないけど。」
「なんだかいい所へ行ってるらしいじゃないですか。」
「それはボクがヒデちゃんやベンさんについて行っただけで、ボクが連れて行ってる訳じゃないよ。どのいい所のことを言ってるのか知らないけど、ボクは色々と疎いよ。」
そんな話をしている最中にヒデちゃんが近くを通り過ぎようとしていたので、声をかけて呼び止めた。
「ヒデちゃん、カジ君が一緒に遊びに行きたいって言ってるよ。」
「やあコウさん、それなら今日にでも行きますか?また新しいところを見つけたんですよ。ライムよりも若い女の子が多いですよ。」
「どっちみちボクは行かないよ。今日はちょっと他に行きたいところがあるからね。」
「コウさんもどっか新しい店を見つけたんですか。なんならそこへ行きましょうか。」
「ボクが行きたいところと、キミたちが行きたがってるところは違うような気がする。だから、二人で行っといで。」
ヒデちゃんはカジ君と目が合ったが、二人してため息をついた後に浩市に嘆く。
「あのねコウさん。ボクとカジ君が二人で行ったって面白くもなんともないんですよ。コウさんが一緒に行くから面白いんじゃないですか。」
「どうして?」
「行き慣れてる人と行っても反応はいつも同じですからね。その点、まだあの世界に慣れてないコウさんを連れて行くと面白いですよ。」
結局は浩市がネタにされるということである。
「ボクは面白くないよ。それに、もし何度かついて行ったら、ボクだってそのうち慣れるんだから、キミたちの言う面白さも精々二、三回ぐらいだろうに。」
「そんな回数じゃ、あの世界の面白さはわかりませんよ。ベンさんもボクが知ってるだけでも月に三回は行ってますよ。あっちこっちの店に。」
「そうれはそうかもしれないけど、ボクは遠慮しておくよ。あんまり慣れたい世界でもないからね。」
浩市はすでに何度か通っていることは伏せた。それに直美とのいざこざもあり、今日は『ライムライト』に出かけようと思っていたところでもある。ついうっかりと行くような話が出ても不味いと思っていた。
「ヒデちゃんもカジ君もボクのことは気にしないで、その新しい面白いところへ行っておいで。なんならベンさんも誘えば?」
「ベンさんはまた今度にします。それはそれとしてコッチのキャメラは大丈夫ですか?カジ君の撮影でエネルギー使いきらないでくださいね。」
「大丈夫だよ、カジ君の方はお気楽な撮影でいいみたいだから。」
それを聞いたカジ君は慌てて浩市に訂正を求める。
「いやいや、お気楽じゃ困りますよ。新しい場所探しなんですから、いい写真をお願いしますよ。何せ来年の部数がかかってるんですからね。」
「わかった、わかった。別に手を抜こうって訳じゃない。キミんとこの編集長がテキトーにって言うからさ。」
時計に目をやると既に五時を回っている。今日は早い時間に出動するのがベターであると考えた。あまり遅い時間になって、繁華街のどこかで彼らと鉢合わせするのが憚れたからである。ましてや『ライムライト』でばったりなどというケースが無きにしも非ずと想像できた。
「お先に失礼するよ。」
まだ後始末やら、今後のスケジュール調整やらの作業が残っている二人を尻目に浩市はそそくさと会社を後にした。
まだ薄明るい夕暮れの太陽を背にしながら、ひっそりとアーケードを行き交う人波を避けるようにして歩く。
新宿は二十四時間ひと時たりとも休むことを知らないのだろうか。ネオンサインも喧騒なざわつきも朝から晩まで途切れることなくリズムを刻んでいる。
流石に神無月にもなると日が落ちる時間が早くなり、夕方の六時を過ぎると薄明るい空気が急激に薄暗いトーンへと変わっていくのがわかる。
そして浩市は薄暗い景色の中から、さらに暗い洞穴へと潜り込んで行くのである。
中からはいつものように受付のボーイがニッコリと微笑みながら指名嬢を尋ねてくる。
「いらっしゃいませ、今日のご指名は?」
まだ通い始めて数回の浩市である。誰を指名かなどとボーイ風情が覚えているわけもなく、素直に答えるしかないようだ。
しかしそれは浩市の認識違いで、優秀なボーイ君は覚えているのである。ニッコリ微笑んだのは、わかっている証拠らしい。
「ミキさんをお願いします。」
こうして週末とはいえ、早い時間帯での出動となったのである。しかし、運は浩市にとって良い方向に傾いているようだ。フロアに一歩足を踏み入れた途端、そこそこの客数が確認できた。しかも浩市に与えられたシートは店の奥の席だ。
この店のシステムとして、ドアの手前のシートから客を埋めていく。しかも指名嬢が被った客同士が鉢合わせしないように、奥のシートと手前のシートに分けるのだ。
奥のシートに案内されたということは、すでにミキに指名の先客があるということである。
しかも、いきなりヘルプの接待から始まる。
「こんばんわ、ミキちゃんちょっと待っててね。」
そう言って現れたのがキョウコであった。
「キョウコさんが来てくれてずっといてくれるなら、ミキの指名分は全部その彼に差し上げますよ。今日もあなたに会いに来たのだから。」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。ホントにあなたの指名だけは受けるようにしようかしら。」
そう言って浩市の首に腕を回す。浩市はすかさず挨拶代わりの口づけを求めた。
またぞろ思い出す一重目の記憶・・・。
キョウコの祠の奥底から漂ってくる芳香と首筋から舞い上がってくる妖艶な体臭が今宵も浩市の理性を破壊させていく。
「キョウコさん、今日の気分はいかがですか?旦那さんの浮気の話は解消しましたか?」
「しないわよ。今でもどこを飛び回ってるのか知らないわ。でも私もこうして旦那の知らないアルバイトしてるんだから、あんまり強くは言えないけどね。」
「キョウコさんがこの仕事をするようになったきっかけってなんですか?」
「夜が暇だったからよ。ウチのヒト、帰りが遅いし、まあおこずかいも欲しいし、ってとこかな。でも一応、旦那へも操を立ててヘルプだけにしてたし、おっぱいもキスもなしだったのよ。」
「旦那の浮気以降はずっとキスとかもOKなんですか。」
「限られた人だけにはね。コウちゃんを含めて三人にしか許してないわ。みんな優しそうな人ばかり。そしてムチャをしなさそうな人だけ。」
「そんなのわかるんですか?」
「わかるわよ。色んな人を見てきたからね。コウちゃんは私が見てきた中でもダントツのお人よしだと思うわ。」
「それって良い意味ですか?」
「うふふ、内緒。でも遊び慣れてない人って新鮮よ。それにあなたとのお話は何となく楽しいわ。真剣に私を口説いてくれてる感じが好き。」
浩市はもちろんわかっていた。それが彼女の営業用のセリフだということを。しかし、そう言われて嬉しくないはずもなく、浩市の顔は自然とほころんでくる。
いつの間にかどれぐらいの時間が過ぎたのだろう。ミキが浩市のシートにやって来る場内コールが聞こえた。
「じゃあまた後でね。」
キョウコはそう言い残して別のシートへと去っていく。
虚ろな目で見送る浩市の元にやってきたミキは、一瞬不思議そうな顔をしていた。
「こんばんはコウちゃん。また来てくれたのね。」
「そうだね。ちょっと奥さんと雰囲気が合わなくてイライラしてたから、慰めてもらおうと思ってね。」
「どんな風に慰めてあげればいいの?」
ミキもよろしくしてくれる。今はその好意に甘えるしかない。しかし、浩市は彼女の胸に顔を埋める前にミキに尋ねてみた。
「女の人って、やっぱりいずれは子供を産みたいと思ってるの?」
「そうねえ、今は実感わかないけど、自分の体が産めないってわかったらショックだろうなと思う。もしかして奥さんがそうなの?」
どう答えようかとも思ったが、彼女たちが知り合い同士でもないので、正直に答えてみる。
「どうやら、そうらしいんだ。検査を受けに病院に行ってるんだけど、最適な処方については、結果が出るのがまだ先みたいだから、随分と苛立ってることが多くなってね。ボクも一緒にいていたたまれないんだよ。」
「んー、なんて言っていいのかわかんないけど、奥さん大事にしてあげてね。コウちゃんは正常なの?」
「そうなんだ。ボクは至って正常らしい。だからキミなんかと行為に及んじゃうと、あっという間にハラボテになっちゃうかもしれないよ。」
「そんなふざけてる場合なの?いいの?こんな所で遊んでいても。」
「彼女も忙しい仕事を持ってるからね。この時間に家に帰っても、きっと戻ってないよ。」
「なんだか切実な話ね。でもミキができるのはコウちゃんを慰めてあげることだけね。いい子いい子してあげるからね。」
ミキは浩市の頭を抱えて自らの胸に引き寄せた。どうせなら可愛い女の子に慰められるほうが心地よいのは男ならば仕方がない。浩市は黙ってミキに甘えた。
そんな話をしている最中に再びミキが別の席に呼ばれる。すると別のヘルプの嬢がやってくるのだが、得てして胸中の嬢が来てくれるわけではない。
キョウコがヘルプで来たのは、一旦ミキが戻ってきて、そして次のタイミングで別の席に呼ばれたときであった。
「キョウコさん、なかなか来てくれないんですね。」
「私が裁量できるんならずっとコウちゃんとこへ来てあげるんだけどね、コントロールしてるのは店長だから。でもいいじゃない、こうしてまた会えたんだから。」
「なんだかキョウコさんの顔を見るとホッとする。ずっとボクのところにいてくれませんか。なんなら抱っこだけでもいいです。お触りもキスも無しって言うなら指名できますか。」
「普通はこういうお店ではできるだけ若い女の子を求めてくる人が多いっていうのに、コウちゃんは不思議ね。ミキちゃんとかユミちゃんとか若くておっぱいの大きい女の子いるのに。」
「なぜでしょうね。なぜかキョウコさんがいいんですよ。」
「もしかしたら、私が結婚してるのを知ったからじゃない?」
「そうじゃないです。ボクは一目惚れだって言いました。キョウコさんが結婚してることで、少し遠慮がちになるぐらいです。独身ならもっと積極的になってるかも。」
「今はこれでガマンして頂戴。」
キョウコはそう言って浩市の唇を合わせに来る。同時に甘い吐息が浩市の鼻腔を包んでいく。もはや浩市は自らの意志に関わらず、ただキョウコを抱きしめていた。
そしてヘルプの時間が終わるのである。
「今のボクはあなたが欲しいと思っています。あなたが好きです。」
浩市が言い終わると同時に、スッと立ち上がり、さらっとした笑みだけを残して、何も答えないままキョウコは次のシートへと去っていった。
ミキが戻ってきても浩市の脳裏の中には常にキョウコが浮かんでおり、会話も余り弾まぬまま、ただじっと抱き合って、ときおり口づけをもらって時間を過ごした。
そして思い出したようにミキが浩市に尋ねる。
「コウちゃんのお仕事って何?」
「なんだと思う?」
「そんなのわかんない。でも普通のサラリーマンじゃないような気がする。」
「どうして?」
「だってサラリーマンっぽい格好してないじゃん。」
「そうかもね。一応カメラマンなんだ。とある会社お抱えのね。だからフリーだけどサラリーマンみたいなもんだよ。」
「カッコいいね。どんな写真を撮ってるの?」
「ミキみたいなかわいい子のヌード写真とかばっかりだよ。今度ミキのヌードも撮らせてよ。二人っきりで。」
「嫌よ、ヌードは。これでも普段は普通の女の子なんですからね。変な証拠が残るのは嫌だわ。」
「じゃあ、諦めるしかないのかな。」
話がフェードアウトしかけたので話題を変えようとしたのだが、口火を切ったのはミキの方だった。
「それよりも、最近ちょっと日本酒に凝っててね。なんかコウちゃんのお勧めの日本酒ってある?」
意外な展開に少し驚く浩市だったが、その方面はさほど苦手ではない。
「ボクもマニアじゃないから詳しくは知らないけど、いくつか美味しいと思った日本酒はあるよ。それに今度、地方に行ったらお土産で日本酒を買ってきてあげようか。」
「うん。楽しみに待ってるね。」
そのタイミングで聞こえてくる場内コール。
=ミキさん五番テーブルへ=
そして現れるヘルプの嬢。残念ながらキョウコではなかったが、ベテランのスレンダーな嬢だった。
「初めまして、こんばんは。アヤです。」
そういえば、ヒデちゃんのお気に入りの嬢がそんな名前だったことを思い出した。
「あのう、ボクの顔を見たことがあります?」
「そうね、たまに来てるのを見かけるけど、それぐらいかな。どうして?」
「ボクが最初に来たときのことって、まさか覚えてないですよね。」
「そんなのいつが初めてか解らないじゃない。それは無理よ。でも、どうしてそんなことを聞くの?なにかあるの?」
「いや、いいです。ボクのお友達があなたのお客さんなので。」
「へえ、誰だろ?」
「いや、知らなくていいです。ボクが来てることもあまり知られたくないし。」
「そう、大丈夫よ。誰だか解らないけど喋ったりしないから。膝の上に乗っていい?」
アヤ嬢はサンダルを脱いで浩市の膝の上にまたがってくる。構図的にはかなりエロチックな格好となる。
「どうしてヘルプのお嬢さん方はみんな一様に膝の上に来るんですか?」
「そうしろって言うお店側の方針なのよ。この座り方だと、私たちの方でお客さんをコントロールしやすいでしょ。無理やりキスとかされたりしないからね。」
「なるほど、よく解ります。じゃあ、ボクも無理やりキスしてみようかな。」
「いいわよ。」
そういうとアヤ嬢が浩市に唇を合わせてくる。一瞬ひるむ浩市。やや逃げ腰になる。
「あら、私のキスじゃ気に食わない?」
「そうじゃないです。ダメなんでしょ、ヘルプのおねいさんにキスをせがんだら。そう聞いたような気がします。」
「そうよ。でも女の子が良いって言えばOKだって言うのも聞いてない?」
「あっ、そう言えば聞きました。じゃあ、ボクはOKなんですか。」
「そうね、誠実そうだし。ミキちゃんから奪っちゃおうかな。」
「冗談ですよね。ボクもただのスケベな中年ですよ。だからこんな店に来るんじゃないですか。みくびっちゃ困りますよ。」
「うふふ、偉そうなこと言ってもダメよ。遊び慣れてない人なんてわかるんだから。」
そしてアヤ嬢は再び口づけを試みようとした瞬間、場内コールがその行為を阻んだ。
=アヤさん一番テーブルリクエスト=
どうやら指名が入ったようだ。
「ちぇっ、折角いいところなのに。次は逃がさないわよ。」
そういいながら軽く唇にキスを残して。
ミキが戻ってくると思いきや、思いのほか意中の人がやってくる。
「キョウコさん、やっぱりボクのところへ優先的に来てくれるんですね。」
「そんなことないわよ。たまたまよ。」
「でもいいですか、まずは匂いを確認させてもらっても。」
返事を待つまでもなく、浩市はキョウコの首筋を奪いに行く。妖艶な香りとなんともいえない肌の感覚を鼻腔と皮膚に覚えさせる。
「いつもはどんな仕事をしてるんですか?」
浩市は短い時間の中で、普段のキョウコの様子を少しでも多く引き出そうと話を持ちかける。
「別に。普通の事務員よ。」
「もしかして、旦那さんと同じ会社ですか?」
「まさかね。学生の時からの知り合いよ。友だちのカレシだったの。でも今から思うと、その友達がそろそろあの人に飽きてきたから、私に押し付けたんじゃないかと思ってる。そんなつまらない人。私ね、色々と刺激がないとダメなの。内緒よ。」
「面白いですね。どうせならボクと刺激を楽しみませんか?」
「うふふ、そう言うと思った。ダメよ、私みたいな女とイケナイこと想像しちゃ。」
「どうしてですか?」
「だって結婚してるもの。あなたもでしょ?」
「お互いに結婚してるから刺激的なんじゃないですか。」
「いけない人ね。」
それだけ言って後は唇を重ねてくるキョウコ。耳元で溜息のような吐息が聞こえたのは気のせいか。浩市は少し気になったので、キョウコの表情を見ようとするが、キョウコはがっしりと捕まえた腕を緩めることなく、じっと妖しい匂いだけを放っていた。
「今はね、こうしてるだけで良いと思ってね。」
「ボクは諦めませんよ。ちゃんとキョウコさんを指名できるようになるまでは。ところで、ボクの名刺をもらってくれませんか。」
浩市は裏にケータイのアドレスが記載してある名刺を渡した。
「個人情報なのにいいの?」
「ボクがお願いしてるんで全然かまわないですよ。ボクが指名できるようになったらいつでも連絡して下さい。待ってます。」
「うふふ。」
キョウコは笑顔のみで答えた。
そろそろ2セット分の時間が終わるころである。そのタイミングでキョウコが席を離れ、ミキが戻ってくる。そして今宵のお遊びの時間は終了するのである。
「もう帰るの?」
「うん。また来るよ。今日はありがとう。次に来る時はもうちょっと元気な顔が見せられるようにするから。」
「うふふ。そうね。またきてね。」
浩市にとっても複雑な時間であったが、今はこの時間を有効に使うしかない。いつの日かキョウコを指名できるまで。
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