第3話 思い出してしまった二重目の記憶
打合せはスムーズに終わった。葡萄といえば関東では間違いなく甲州山梨である。あとは制作陣にスケジュール調整と取材構成を決めてもらうだけとなっているため、カメラマンが多忙になるのは撮影日が決まってからとなる。
浩市は、今夜は遅くなると言っていた直美の言葉を思い出す。食事は今夜も一人だ。そのこと自体は慣れている。しかし、昨夜の中途半端に終わった情事だけは悶々として脳裏に残っていた。
そして思い出したのは今朝のホームページ。キョウコが出勤日であること。同時に先日の夜の匂いをも思い出してしまう。行くか行かぬか迷っていたが、ヒデちゃんもベンさんも構成内容を編集長と共に詰める必要があったため、今日は遅くまで残業となるだろう。彼らの動向がわかっているのが浩市には好都合だった。
元来、あまり斯様な店に行かない浩市だったので、またぞろあの店に再来店することを彼らに知られることを好まなかった。
浩市は彼らの残業が終わらぬうちに退店することまで考えた。そうすると早い時間に出かけて早く終わらせるのがベターだという答えに辿り着く。
時計の針は午後五時三十分を示していた。
午前中のうちに調べた情報によると開店時間は午後六時。まだ少し早いかなと思いつつ、足は既に店の方角へと向かっていた。
前回の店内での様子を思い出しながら、コンビニで口臭予防液と清涼剤を購入し、途中にある地下街のトイレへと駆け込む。これで準備は万端である。
やや遠回りをしてゆっくり歩く。やがて店の前に着いたのは浩市の時計で午後五時五十五分だった。少し早いと思ったが店の前で待ってみる。するとまだ電気のついていないドアが開き、中からボーイが顔を出した。
「あっ、いらっしゃいませ。なんなら中でお待ちになられますか?」
ちょっと粋なサービスに感謝し、中の待合室へと入っていく。もちろんその前に指名嬢を聞かれたことはいうまでもない。
「ミキさんお願いします。」
「わかりました。しばらくコチラでお待ち下さい。」
案内された待合室には、五人ほど座れるベンチが向かい合わせで設置されており、週刊誌やテレビが用意されていた。
浩市は業界人としては珍しくタバコを吸う習慣が無かったため、こういう待ち時間はかなりの手持ち無沙汰になる。
テレビも番組と番組のハザマの時間帯で、ローカルニュースとCMしか流れていない。置いてある週刊誌も数ヶ月前のものばかりだ。漫画にいたっては任侠物と武道系しか並んでいない。そんな冊子をいくつかパラパラとめくっているうちに、蛇腹のカーテンがようやく開いた。
「お待たせいたしました。ご案内いたします。」
そしてフロアへ案内されると、やや大きめの音量で流れている派手なBGMとギラギラと光るライトが煌く見覚えのあるシート。
そこに座っているとやがてミキは現れる。
「こんばんは。ん?初めてじゃないよね。」
「覚えていてくれましたか。」
今宵は、そんな他人行儀な挨拶から始まった。
「キミのことを思い出してしまったので、とうとう来てしまいました。」
「ああ、ホントに思い出した。あのムチャできない優しい人ね。確か・・・コウちゃんだっけ。あってるよね。」
「あってます。覚えていてくれて嬉しいですね。」
「そうね。コウちゃんみたいなお客さん久しぶりだったからね。」
「えっ?ボクみたいなって?」
「初めて来たような初心なお客さんってこと。」
「この間は初めてだったので緊張してましたが、それほど初心でもないですよ。」
「どれどれ?」
そう言ってミキは浩市の膝の上にまたがって、上から目線で唇を合せに来る。
浩市も両手をミキの背中に回して、ぐっと引き寄せた。
途端に広がるミキの甘い香り。その途端、浩市は完全に思い出してしまった。
一重目の記憶を・・・・・・。
「そうだ、この匂いだ。化粧臭や香水の香りではない、柔らかい女性特有の匂い。」
浩市は頭の中で呟きながら、その匂いを満喫していた。
「やっぱりミキさんの匂いはボクをおかしくさせる。」
「おかしなこと言う人ね。それに“さん”づけで呼ばれると恥ずかしいから、呼び捨てでいいよ。私も敬語は使わないし。」
「じゃあミキちゃん。これでいいかな。」
「うん、いいよ。」
そして浩市はミキのふくよかな胸の膨らみを求めた。
「やっぱりこうしていると、その気になっちゃうもんだね。どんどんエッチなおじさんになっていくのがわかるよ。」
「いいのよ。ここはそういうところだから。」
ミキもそれを理解して体を預ける。
二回目の訪問ということもあり、少し雰囲気のなれた浩市は味わうようにミキの体に手を躍らせた。直美とは違う何かが浩市の感覚を狂わせ始めていた。しかし、こんな場所で女房のことを思い出すなど愚の骨頂だ。もやもやと浮かんでくる直美の姿を振り払うようにミキの体に没頭する。
「なんか家で嫌な事でもあったの?」
「そうだね。なかなかうまくいかないんで困ってるんだ。」
「ここで遊ぶのは構わないと思うけど、最終的には奥さんを大事にしてあげてね。」
思いもよらぬ言葉に少し冷める浩市だが、彼女の言っているセリフは正論である。
「若いのに恐ろしく真っ当なことを言うよね。確かに間違ってないよ。でも別に奥さんをないがしろにしてるとは思ってないからね。」
それでも浩市は少し気分が削がれた気がした。しかし、それも彼女たちの営業トークの一つなのだろう。そう言い聞かせて、彼女の匂いを楽しんだ。
やがて最初のコールがかかる。
=ミキさん八番テーブルへ=
今日も指名がいくつかあるようだ。浩市の隣にいる時間は短い。
代わりにやってきたのがキョウコであった。
「こんばんは、ひさしぶりね。」
ニッコリ微笑んだ唇が今日はかなり赤い。
「今日はかなり唇が赤いですね。」
「そうね、今日のお客さんは偉そうな人とかスケベな人が多いみたいだから、さっき急いで塗ってきたの。あんまり嫌な事するとシャツにキスマークつけてやろうと思って。」
「ぷっ、それは面白いですね。でもボクには勘弁してくださいね。」
「あなたは大丈夫よ。優しそうな感じしてるし。こういうお店にまだ慣れていないでしょ。真面目そうな感じがするわ。」
そう言いつつもキョウコはヒールを脱いで両足を浩市の膝の上に乗せてくる。自然と浩市の腕はキョウコの腰に回される。
「ボクも遊びに来てる自覚はあるので、それなりにエッチな気分になりますよ。」
「どんな風に?」
「こんな風にです。」
浩市はすかさずキョウコの首筋の匂いを確かめに行く。そしてキョウコの何とも言えない匂いを堪能するのである。
「思い出したわ。あなた匂いフェチだったのよね。」
キョウコは自分の首筋あたりを這い回っている浩市の唇を引き寄せて、自らの唇と合わせていく。そしてゆっくりと彼女の祠の中から女神が挨拶に訪れる。
なんともいえぬ甘い香りに酔いしれる浩市。急なキョウコの行動に少し驚いていた。
「ボク、浩市って言います。コウちゃんでいいですよ。みんなそう呼んでますし。」
浩市は何気なく自己紹介をしたつもりだった。同時に名前で読んで欲しかった。
「いいんですか?ヘルプのお嬢さんにキスしても。」
「いいわよ。私がいいって言えば。あなたは優しそうな人だから。」
彼女のお言葉に甘えて、もう一度唇をせがむ浩市。
キョウコもその要望に応えていた。
「ホントはキョウコさんの匂いに誘われて来たんですよ。」
「変な人ねコウちゃん。奥さんの匂いとは違うの?」
「例えば、彼氏の匂いとボクの匂いは同じですか?」
「ん?そんなのあまり意識したこと無いけど。コウちゃんはあまり匂いしないね。」
浩市は一呼吸置いてからキョウコの目を見据える。
そして意を得たように問いかけた。
「その回答は、彼氏がいるってことですよね。」
一瞬キョトンとした様子のキョウコ。そしてゆっくりと話しかける。
「それは誘導尋問だったの?」
「わざとじゃないです。そんなに意地悪なつもりは無いです。たまたまですよ。」
「私ね、結婚してるのよ。あんまりお客さんには言ってないけど。」
浩市は驚いた。人妻がこんな店で働いているとは、考えも及ばなかった。
「ボクはこれでも浮気の経験はないので、ちょっとドキドキしますね。でもいいんですか、ボクみたいな男と唇を合せて。」
「大丈夫よ。あなた、優しい人みたいだし。」
「それに旦那さんはここで働いているのを知ってるんですか?」
「まさかね。もちろん内緒よ。だから私はヘルプ専門なのよ。少し前までは、キスもしなかったわ。」
浩市は店でのスタイルを変えたキョウコの心境の変化に興味を持った。
「何かあったんですか?」
「うふふ。旦那が浮気したのよ。だから、私もいいかなと思って。」
あっけらかんと答えるキョウコだが、浩市はその表情に少しばかり影が走ったのを見逃さなかった。
「キョウコさん。本当は本意じゃないんですよね。」
一瞬うつむきかけた目線をスッと持ち上げて、浩市の首に両の腕を回す。
「そんなこと、コウちゃんは考えなくていいのよ。ほら、ちゃんとこっち向いて、エッチなことして遊ばないと。」
そう言うやいなやキョウコは自分の胸の谷間に浩市の顔を押し付けた。再び浩市の鼻腔から脳にかけてキョウコの匂いが突き抜けていく。
「それなら、ボクも遠慮はしませんよ。こんなこともしちゃいますよ。」
そう言うと同時に浩市の手はキョウコのビキニの中へと侵入していく。そこには心地よい柔らかな丘陵が待っていた。直美のとは感触の異なる、そして不倫の匂いがする妖しく滑らかな肌触りだった。
「いいわよ。意外と度胸があるわね。」
それでも浩市にはまだ遠慮があった。相手が人妻ということ、自らの行為が妻の意に反しているだろうということ。そして彼女の本意ではないかも知れないということ。それが浩市にとっての色々な倫理の壁になっていたことは間違いない。
「今日は暑いですね。キョウコさんの肌も少し汗ばんでいて、かなり色っぽいです。」
「そういうコウちゃんも襟足は汗ばんでるわよ。」
「すみません。まだ外は暑いですから。汗、ダメですか?」
「平気よ。他のオジサンたちなんてもっと汗だくよ。コウちゃんなんか全然マシ。」
「ボクはキョウコさんの汗ばんだ肌は好きです。」
「恥ずかしい。」
最後に恥じらいを見せたキョウコにたじろぐ浩市。どんどん彼女にはまっていく自分が怖くなる。
それでも今宵、キョウコの滑らかな肌と妖艶な唇を求めてしまう。
「なんならボクが浮気の相手として立候補してもいいですか。」
「うふふ。考えておくわ。どうせ本気じゃないくせに。」
「本気になったら立候補できますか?」
「だめよ。コウちゃん奥さんいるでしょ。もうちょっとよく考えなさい。」
キョウコは嗜めるように浩市に言って聞かせた。
「でもボクはなんだかキョウコさんに一目惚れしちゃった感じなんです。この間の夜からキョウコさんのことが忘れられない。」
「出会った女の子みんなに言ってるようなセリフ。そうでしょ?」
「ボク、誰にもそんなこと言いませんよ。」
キョウコは言い返す言葉の代わりに体を預けて、浩市の胸に顔を埋めた。浩市はそんなキョウコの肩をじっと抱いていた。キョウコの爽やかな髪の匂いが浩市の鼻腔から脳に突き抜ける。
やがて場内コールが二人を現実の時間へと引き戻す。
=ミキさん二番テーブルへバック=
「ミキちゃん戻ってくるから。またね。」
何かしら中途半端な余韻を残して彼女は去っていった。
浩市のシートに戻ってきたミキは、少しぼおっとした顔の浩市を不思議に思った。
「どうかした?」
「いや、キョウコさんだったんだけど、何かあったみたいだね。」
「キョウコさんはいいから、ミキは?」
ミキは浩市の膝にまたがり、微笑を投げかける。
浩市は戸惑っていた。ミキの若くて瑞々しい肌とキョウコの熟れた妖艶な肌との両方の魅力に惑わされていた。
瑞々しい肌には予想以上の罪悪感と陵辱感が得られ、妖艶な肌にはどこか懐かしささえ覚えるような感覚に陥る。妖艶ではあるがそこには不倫感はあったとしても罪悪感はない。しかし、キョウコはヘルプ専門の嬢。他の誰かを指名しないとこの店では会えない。だからこそ燃えるのかもしれない。
浩市はミキの瑞々しい肌を堪能しながらも、妖艶なキョウコの肌の方が馴染む感じがする。そう思い始めていた。
やがてコールされるタイムアップの知らせ。
「もう帰るの?」
ミキはもの惜しげに浩市の目を見つめた。もちろん営業用の顔である。解ってはいるのだが、ミキよりももう一度キョウコに会いたい一心で、されどもったいぶった言い方で延長を申し出る。
「キミがどうしてもって言うならね。」
「ありがとう。」
素直に喜ぶミキ。浩市としてもミキの瑞々しい若い体にも関心はあるし欲望も発生する。特に彼女は美しいバストラインを持っており、浩市の好みとしては文句無い体型である。ミキが他で呼ばれる間を全部キョウコで埋めてくれるなら理想だと、少し贅沢な想定をしてみる。実際はそんなことはありえないのだが。
ミキには他にいくつか指名客があるおかげで、何度か席を離れる。その度に場内コールでキョウコが呼ばれることを期待する。
しかし、次に来たヘルプの嬢はキョウコではなかった。最近入った若い嬢だが、いかにも最近のギャルといった感じの女の子で、まだそこまで弾けていない浩市にとっては話す話題にも事欠いた。
その次にやってきたヘルプの嬢は話し上手のシノブさん。確かに若くて可愛いとは言い難いが不思議な魅力で人を惹きつける。しかし、会話は弾むが触手は動かぬ。自らを戒めるタイミングとしてはちょうどいい。
やがてミキが戻ってくる。
「今日は忙しそうだね。流石に週末は早い時間から盛況だね。」
「今日は珍しいわ、こんな早い時間から一杯になるなんて。お給料でも出たのかしら。」
月末払いの不規則なギャランティーしか貰ったことのない浩市にとって、定期的に一定額が振り込まれる給料の制度のことなど知る善しもない。
指名客が被っているのだけは好都合だ。
しばらく若い肌を堪能していると、いい頃合で場内コールが聞こえた。
=ミキさん十一番テーブルへ=
さらにもう一人の指名客。どうやら今日は浩市を含めて三人の指名があるようだ。
そしてやってくるヘルプの嬢たち。すぐのタイミングで待っていたキョウコがやって来た。
「あら、まだいてくれたのね。」
馴れ馴れしく浩市の隣に座る。妖艶な笑顔は先ほどと変わらない。
「お待ちしておりました。あなたに会うためだけに延長したんですよ。」
「相変わらずお口は上手ね。ご褒美にキスしてあげるわ。」
キョウコは浩市に覆いかぶさるようにして唇を捧げる。まるでそれを当然の如く待っていたかのように両手を広げて体ごと受け取る浩市だった。
そしてキョウコの口づけは甘くて心地よい。やはり何かが違う。浩市はもはやミキとの違いを確信していた。
さらに首筋の匂いをもう一度確認する。そしてその匂いを堪能する。やはり爽やかなと言うよりは妖艶な香りがする。堕ちてしまうのは間違いなくこっちの方だろう。
浩市もある程度の年齢や経験があるので、エロチシズムの香りは何かという自己概念は持っている。その概念に一致する匂いなのである。
「ホントにステキな人だ。ボクだけは指名できるようにしてもらえませんか。」
「ダメよ。そんなことできる訳ないでしょ。今日やっと名前を聞いたばかりだもの。」
「次からはキョウコさんがいるときに来ます。またあなたを抱かせてください。」
「エッチな言い方。いいじゃない。こうやってキスも出来るし、体も触れるんだから。それだけで満足してね。」
そのセリフがヘルプとしてのタイムアップのタイミングだった。次のヘルプは別の嬢が来て、そしてミキが戻ってくる。少しの間はまったりしたけれど、最後に一呼吸置いたぐらいのタイミングが今宵のラストタイムだった。
「もう帰る?」
「うん。今度こそ帰るよ。また来ると思うから、その時はよろしく。たぶん金曜日か土曜日かに来るよ。」
その曜日はミキとキョウコの両方が店に出ている曜日である。ただし、そんなことはミキには告げずに店を出ることとなる。
外に出た途端、少し涼しげな風が浩市の頬を撫でた。もはや秋の到来は近い、そう予感させる夜だった。
再び来店する日は早くに訪れる。
浩市はキョウコの少し斜にかかった表情が気になっていた。さらに、彼女のぬくもりも忘れがたい。つまりは思い出してしまったのである。心地よい匂いの記憶を。
淡々とした一週間は過ぎ、翌金曜日の夜のこと。
浩市は『ライムライト』の前に立っていた。
時計を見ると午後九時を回ろうとしていた。浩市は意図的にこの時間を待っていたのである。なぜならば、この時間の方が恐らくは客が立て込んでいるからである。
すでに浩市の目的はキョウコに会うことにあった。従って指名できない彼女と過ごすには、指名嬢が他の客に指名されている時間帯でなければならないのである。それが午後九時以降と踏んだ訳である。
浩市の予想は当たっていた。目まぐるしいとはいかないまでも、店内はそこそこ賑わっていたのである。その光景を見て浩市はほくそ笑んだ違いない。
指名は先週と同じミキ嬢である。
それなりに人気を誇る彼女はこの夜も既に二人の指名を受けていた。
そしてしばらくの間、その気になって若い女性の肌と唇を楽しんだ後に、待っていた場内コールを耳にする。
=ミキさん、五番テーブルへ=
そしてその後に聞こえるコール。
=キョウコさん十一番テーブルへスマイルタイム=
「うふふ。また来たの。元気そうね。」
「キョウコさんに逢いに来たんですよ。」
「そんなこと言っていいの?ミキちゃんに言っちゃうわよ。」
「キョウコさんを指名できるならそれでもいいですよ。」
キョウコが少し意地悪っぽい感じで投げかけてきたので、浩市も悪戯っぽく答える。
滑らかではあるが、奥行きの余りないシートに二人並んで座るのだが、キョウコは履いていたサンダルを脱いで両足を浩市の膝の上に乗せた。滑らかで輝いている妖艶な肌の肢体が浩市の目を惹く。
「首筋の匂いを確認させてもらっていいですか。」
遠慮がちに尋ねてみた。
不思議な目をするキョウコ。
「もちろんいいわよ。」
そう言って浩市を懐の内へと受け入れる。
「今日は大丈夫ですか?」
「ん?何が?」
「前回の時、少しブルーだったような気がしたので。ボクなんかで癒されるなんて思いませんが、力になってあげたいとは思います。」
「優しいのね。でも、コウちゃんも結婚してるでしょ。奥さん大事にしてあげてね。」
何か聞いたことがあるようなセリフだった。ここの嬢たちは皆一様に妻帯者に対して同様のセリフを言うように教育されているのだろうか。それに浩市は直美をないがしろにしているつもりはない。しかし、やや危険な香りのする世界に惹かれていることも事実である。
「その後、旦那さんとは仲直りできましたか。」
「別にケンカなんてしてないわよ。」
「今日はいいんですか。」
「何が?」
「キョウコさんにキスしてもらっても。」
「本当はダメだけど、あなたならいいわ。」
キョウコはニッコリと微笑んで浩市とキスを交わす。やわらかい吐息と鼻息が浩市の何かを目覚めさせる。
浩市はやや遠慮がちに、そして少し強引にキョウコの祠の中を探検しようと試みた。いわゆるディープな行為をである。この店において、通常はヘルプの嬢にはご法度とされている行為ではあるが、嬢が許せば問題ない。
ネットリとした時間が二人を止める。
しかし、彼女はやはりヘルプの嬢なのである。浩市の気持ちや都合など、一切の関係を無視してキョウコは別のシートへと移動させられる。
「またね。後できっと来られるから。」
そういい残してキョウコは暗い空間の中へと姿を消していく。
そしてミキが戻ってくる。
「今日は忙しそうだね。ミキのお客さん何人いるの?」
「いまはコウちゃん入れて三人よ。」
自分を入れて他に二人が被っている場合、フリータイム客への顔見せも入れると、四十分はおおよそ五分の一ぐらいに分割されることになる。つまりは1セット中の配分は、一人八分ぐらいということである。その八分を三分割ぐらいに分けるのだから、シートで隣に座っている時間は約二分程度ということになる。なんとも殺生な時間割だ。浩市はキョウコ目当てなので、時間がありすぎても困るのだが、完全にミキを目当てに来ている客にとってはイライラ感がつのるだけかもしれない。
しかし、この店の超人気嬢などは、一度に指名客が七人もいるときがあるらしく、この時の一人当たりの接客時間は秒単位かもしれない。
それはさておき、次に浩市の席を離れたタイミングでキョウコがやってきた。
「ほらね。また来られたでしょ。」
「今日はすごく盛況ですね。まあ、ボクはある程度盛況な時間帯を狙って来てるからいいんですけど、他のお客さんは満足できないでしょうね。」
「そうでもないみたいよ。中には顔を見られるだけでいいっていうお客さんもいるから。まあ、少ないけどね。」
浩市はやっと巡ってきたキョウコとの逢瀬を一秒たりともムダにしたくなかった。まだ話の途中だったかもしれないキョウコの口を強引に塞ぎ、そのぬくもりと甘い吐息をもれなく感じ取っていた。
スベスベとして張りのある肌は、妖艶な輝きと共に浩市の目を魅了している。この肌の感触とキョウコの声と息遣いが浩市の全神経を震わせるのである。
「やっぱりあなたを指名できませんか?ボクはこの店ではあなたとの時間を大切にしたいと思っています。無茶なことをするつもりはありませんが、ボクはあなたとの時間が欲しいのです。」
「ダメよ。これでもあなただけは特別なのよ。他のヘルプに行ってもキスなんか滅多に許してないんだから。だからこれでガマンして。」
そう言って再び浩市の唇に自らの唇を合わせていく。浩市はその後に首筋の匂いも堪能することを忘れない。
そして浩市がやわらかなキョウコの匂いに包み込まれる頃、ミキが戻ってくるコールを耳にするのである。
「ミキちゃん戻ってくるわよ。彼女もないがしろにしちゃダメよ。」
ちゃんとミキにも気を使うあたりがプロらしい。
「また来て下さいね。諦めませんよ。」
それに対して何も答えずに、ただニッコリとした笑みだけを浮かべて席を離れた。
そしてミキが浩市の隣に座る頃、慌しくも時間だけはコンスタントに過ぎており、そろそろ今宵の遊戯タイムが終了を迎えるのである。
「今日は流石に金曜日だねって言うぐらい忙しそうだったね。」
「そうね、ゴメンネ。ゆっくりいてあげられなくて。」
ミキはミキで、自分を指名してくれている浩市に気を使ってくれている。若い女の子なら間違いなく彼女が一番だった。他のヘルプ嬢にも若い子は何人もいたけど、話が合うのは彼女だけだった。
しかし、浩市の本命はミキではない。そしてそのことはミキには決して言えないセリフでもあった。少しの後ろめたさを感じながら今宵を終わる。
「もう帰る?また来てね。」
「うん、またね。また、きっと金曜日に来ると思うよ。」
浩市は今宵も多少の虚しさを感じながら自宅へと帰るのである。
浩市が帰ってきたのは、二十三時を少し回った頃。タイミングだけならほんの少し浩市が早いだけだった。
ちょうど帰宅後の片づけを終えた頃、玄関の扉が開いて直美の姿が現れる。
「ただいまあ。」
酩酊とは言わないまでも、明らかに酔っている様子である。
「コウちゃん、ちょっとそこに座って聞いて頂戴。」
「どうしたの?えらくご機嫌さんじゃない?」
「また新しい翻訳が決まったのよ。今度は外資企業向けのパンフレットとマニュアルだって。がっぽりもらえそうよ。」
「それはよかったね。益々キミの株も上がるんじゃない?」
するとへなへなと腰を下ろしてリビングのソファーへと倒れこむ。
「コウちゃん。この仕事が終わったら、在宅業務オンリーにしようと思ってるの。そう、フリーになるのよ。そうすればもう少し時間も自由になりそうな気がするんだけど、どうかな?」
「ボクを見てごらん。時間がフリーって言うより、時間的な枠が何にも決まってないって感じでしょ。これは良くないような気がする。ましてや二人してフリーなんて、もしかしたら会える時間がなくなっちゃうかもしれないよ。」
フリーになるということはそういうことなのである。何も自由に使える時間が増えるのではない、取引相手側に自由に設定される時間が増えるということなのである。
第一、浩市自身が今の出版社の契約社員から正式社員にしてもらおうと目論んでいるくらいなのだから。そのためにギャラは幾分かレートが下がりはするけれど、身分保障も勤務時間も今よりははるかに安泰になるのである。
「やっぱりそうだよね。今の方がまだマシだよね。」
ボソッと呟く直美の肩がやけに寂しそうである。
今宵の浩市は『ライムライト』で存分に妖艶な唇を楽しんできたところである。そのまま直美を抱きしめるには、やや後ろめたさが先走る。
それほどに浩市は生真面目なのである。とはいえ、寂しげな直美を捨て置けもせず、後ろから抱いて唇を求めに行く。さりとて鼻息も祠の中もアルコール臭で満たされており、いつもの彼女の匂いではなかった。
「シャワーでも浴びてきたら?少しは酔いも覚めるかもよ。」
「そうね。」
何気に素っ気無くしか答えられない直美はスッと立ち上がり、そそくさと後片付けを始める。そして部屋着を手に抱えてシャワールームへと姿を消す。
結婚してから今までにケンカらしいケンカもなく、周囲からは仲の良さを羨ましがられていた二人であったが、ここに来て子供がいないことの寂しさが別の形で現れ始めていることに気が付いていた。
先日の妊活からひと月が経過しようとしていた。もし今度ダメだったら、二人で病院へ行くことになっている。
その結果が出るまであと一週間。
何となく憂鬱な一週間になりそうだ。
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