第2話 思い出す一重目の気配

翌週、浩市は久しぶりに妻と食事を共にした。新宿のある洋食専門店のグリルだった。妻は直美と言って、浩市とは学部は違うが同じ大学のサークルで知り合った同級生でもある。

彼女は英文学科卒で、現在は通訳や翻訳の仕事に携わっていた。割りとお堅い仕事が多かったこともあり、カメラマンという自由気ままな職業の浩市とは徐々に心の距離も生活の空間も開いていった。

そんな妻との久しぶりの食事である。直美も二人で揃って食事をするのが久しぶりであることを理解していた。

「久しぶりなのに外で食事なんてごめんね。ホントは家で作ってあげたかったんだけど、また明日から忙しくなるし、色々と余らせるのももったいないと思ったから。」

浩市も忙しいのは同じである。また、直美のスケジュールに合わせることが容易でないことも自覚していた。

「仕方ないさ、お互い違う世界で生きてるんだから。ボクこそ申し訳ないと思ってるよ。もっと二人の時間が取れると思ってたんだ。あの時は・・・。」

結婚した当時、まだレギュラーとも言える仕事がさほど多くなかった頃は、もう少し直美との時間に融通がついた。しかし、あの頃とは比べ物にならないほどの仕事数をこなす事になった現在は、ゆっくり話をする時間が随分と減ってしまった。

「今日はもうオフなんでしょ。久しぶりに一緒に帰れるわね。」

「そうだな。何ヶ月ぶりだろうな、一緒に家に帰るのは。」

急に直美の顔つきが変わる。

「それって嫌味に聞こえるけど。」

「そんなつもりで言った訳じゃないよ。キミに非があるなんて思ってない。」

「そう。」

呟くように短い言葉を吐き出す。

「またお義母さんから留守電が入ってたわよ。孫の顔はまだかって。ウチのお母さんにも言われたわ。」

「あまり深く考えるなよ。今は出来ない夫婦も多いって言うし。コウノトリだって、いずれはボクらの居場所を探し当ててくれるよ。」

「気休めはよして。あのねコウちゃん、そんな行為も無いのにコウノトリが飛んでくるわけ無いでしょ。」

少しばかり気が滅入っている様子の直美は、やや声が甲高くなる。

「ならば、今晩試してみる?」

学生時代から割りと陽気な浩市は、こういうお喋りで皆から人気があった。

「ハイハイ、あなたが途中で眠くならなければね。」

おそらく過去にそんなこともあったのだろう。直美もあまり期待していない様子だ。

「じゃ、夜の臨戦に備えてスタミナつけないとね。」

浩市は目の前に運ばれてきた好物のビフカツに突撃を始める。少し和やかな雰囲気に戻った様子で直美もビーフシチューに手をつける。ここはただのグリルである。ホールでもなければラウンジでもない。食事がメインなので、二人はグラスに二杯ずつの赤ワインを楽しんだだけで、それ以上のアルコールは控えた。

久しぶりの食事だというのに、二人の会話が盛り上がることが最後まで無かったのは、今に始まったことではない。

結婚して既に五年の歳月を培ってきた二人には、新婚当時の新鮮さはもう無い。逆に、学生時代からの付き合いで色々な事が解りきっているだけに、もどかしさもそれなりに溜まっている。

自宅マンションへは新宿から電車を利用する。二人の住まいは板橋の駅から程よい距離のマンションである。山手線からは外れるので、東京駅に行くのはやや不便だが、新宿へは快速で二駅約十分と便利である。新宿に出版社がある浩市と渋谷に勤めている直美にとっては好都合なロケーションだった。

まだ都内では秋の風が吹くまでに間がある季節。部屋に帰るとモワッとした空気が部屋中を満たしていた。窓を開けて、エアコンのスイッチを入れると、ようやく人が佇める空間となるのである。

「先にシャワーに入ってくれない?洗濯を済ませたいから。」

部屋着に着替えた浩市は言われるがままにシャワールームへ向かう。

「なんなら一緒に入る?」

少し期待しながら誘ってみた浩市だったが、

「シャワーなんだから、さっさと入ってね。」

と一蹴された。

浩市は直美とのベッドインの前に、先日の夜の彼女のことを思い出していた。久しぶりに自分より若い女性の肌とその温もりであった。そしてキョウコのことも。

このとき浩市がキョウコのことを思い出さずにいれば、この先の未来の出来事は起こらなかったに違いない。

やがて二人揃って久しぶりの就寝タイム。普段から同じ寝室で過ごしているはずなのに、いつもはどちらかが必ずと言っていいほど疲れているか酔っているか・・・。

今宵は帰宅するまでに同じ時間を過ごしてきたので、気持ちも雰囲気も同じであるはずだった。しかし、夫婦であるにもかかわらず緊張が走るのはなぜだ。

不審な違和感を持ちながら自らの腕の中に誘う浩市であったが、なぜか脳裏によぎる別の香り・・・・・。

元々遠慮がちに臨んでいる今夜の情事。些細なことで一気に台無しになる。

閨の睦言は滞ることなく進行される。互いの匂いも肌の感触も忘れかけていた二人。それを思い出すかのように反応を試していた。

思い出せば早いのが若くして契りを結んだことのある間柄、急ぐ訳ではないがやや素っ気無く侵攻を始める浩市。新鮮味が無いのは直美も同じだった。

彼女も浮気性な性格ではない。これまでもそれらしい噂さえ上ったことは無かった。浩市については残念ながら、今までの性格と職業柄、いくつか疑わしきことはあったが、直美は特にそれらを突き詰めたり問い詰めたりしたことも無かった。

浩市の侵攻は少しずつその速度を変えて行き、ギアをチェンジするかのように加速していく。そのタイミングで言ったひと言が直美の機嫌をやや損ねた。

「今の時期で子供ができても大丈夫かな、仕事の方は。」

「そう言って今までできたためしが無いのよ。それにいつだって仕事を辞める覚悟はできているわ。それよりもお局さんみたいにずっと居座る方がつらいのよ。」

ニッコリ微笑む浩市は、うなずくように加速を始める。そのとき、ふと先日の夜に出会った肌を思い出してしまった。直美とは違った感触の肌のぬくもりを。

そして直美が浩市の雰囲気の異変に気付く。

「今、別のこと考えてたでしょ。」

女の勘は鋭い。不意に咎められた浩市の表情に狼狽の色が見えてしまった。

「別に何も無いよ。」

そう言って大団円を迎えようとしていた。

しかし、その態度が直美の機嫌をかなり損ねてしまったようだ。

「ちょっと待って。」

直美は浩市の侵攻を強制的に止めた。

「あなたはそういうところが曖昧なのよ。私はいつだって良いって言ってるのに、どうして応援しようとしてくれないの。子供が欲しいと思ってないのはあなたじゃないの?もう私は色んな人に子供のことでとやかく言われるのは嫌よ。要らないなら要らないでちゃんと意思表示して。」

「どうしたんだ。ボクは子供が要らないなんて言ってない。キミの仕事の事が気になったから・・・。」

「そうじゃないでしょ。色んなことが惰性になって来ているのよ、今の生活そのものが。コウちゃんはそこから先のことなんて望んでないのよ。」

直美は少し鬱になりかけていたのかもしれない。浩市は彼女の仕事のことも彼女の両親のこともなおざりにしてきたのも事実だ。しかし、すれ違い続けてきた彼女と未来のことについて話し合う機会も持てずに来ていた。

彼女の勘は鋭かったが、機嫌を損ねた原因は違ったものだった。それでも浩市には次の句が出なかった。

直美は少しべそをかいた様子のまま、情事を諦めるほかなかった。スルスルと着衣を始めて、浩市に背中を向けたまま目を瞑った。

大団円の少し手前で一気に台無しになってしまった今宵の情事。浩市にとって辛かったのは精神的なこともあったが、寸前のところで止められたことである。

この中途半端感は女にはわかるまい。

仕方なくシャワールームに向かい、中途半端に終わった放銃の後始末を自らつけることになるのである。この時の情けないことったらなかっただろう。


翌朝、直美の方が先に目覚める。やや遅れて起床した浩市は直美の後を追うようにして朝の支度を始める。共働きの二人の朝食は各自で行うことが慣例となっていたが、今朝の二人はともにトーストで済ませるようだ。

「昨日はゴメン。折角セッティングしてくれたのに。」

先に謝ったのは直美だった。彼女の性格は決して悪くない。その素直なところに浩市が惹かれたと言っても過言ではないほどに。

「いいんだよ。最後まで集中できなかったボクが悪いんだ。気にしないで。」

直美もまた浩市のこういう優しさに惹かれて付き合い始めたのである。

「でも私たち、ちゃんと時間をとってこれからのことを話し合ったほうがいいかも。」

「これからのことって?」

「あなたの両親も私の両親も、孫の顔が見たいって言ってるのは同じ。でも今のままじゃいけないでしょ。なんならいっその事、私が仕事を辞めてもいいのよ。そうすればもっと時間が出来るんじゃない。」

「折角憧れの職業に就いたキミをボクの不自由な時間のおかげで辞めさせるのはもったいない。もうちょっとボクが時間を作るように頑張るから、辞めるのは子供がデキてからでいいんじゃないかな。」

浩市の本意はそれで間違いはなかった。しかし、すれ違い始めると受け取り方までがすれ違ってくる。

「ホントはもっと遊んでいたいんでしょ。子供ができると縛られることが多くなるから、それが嫌なんでしょ。」

「確かにゆっくりと話をした方がいいかもね。次にゆっくり出来る日はいつかな?」

直美は期待した答えが返ってこない浩市に不満の色をハッキリと出してしまう。

「あなたは妙なところで優しすぎるわ。女にとって期待していない優しさもあるのよ。それを一般的に大きなお世話って言うのかもね。」

立腹気味の食事は早い。直美はプイと背中を向けて後片付けを済ませ、そそくさと出かけてしまう。

「今夜は遅いかも。私の次の休みは月曜日よ。」

カレンダーを見ると三日後だ。

「ボクのオフは日曜日と木曜日だ。どっちかの日に早く終われない?また食事をしに行こうよ。」

「そうね、木曜日なら早く終われるかも。」

二人で食事を取るだけのスケジュールあわせが約一週間後だという。子供ができないのも当たり前かも知れない。


この日の浩市の仕事は午後から。次の撮影の打ち合わせが午後二時にある。それまでは比較的ゆっくり過ごせた。

直美を送り出してから、テレビのスイッチを入れニュースを見る。主な話題と天気予報だけを見れば、とりあえずは事足りる。次にパソコンの電源を入れ、情報を探る。今日の打合せのテーマは『葡萄』であった。

近年、各家庭で盛んに行われている家庭菜園。中でもちょっと変わった作物を注目するといったシリーズで、前回のテーマは落花生だった。その取材で千葉まで行った帰りが“あの日”だったのである。

自然、浩市はまたぞろあの夜のことを思い出していた。

検索エンジンのサイトから『ライムライト』と入力して検索ボタンを押してみる。

すると見覚えのある緑色と黄色に飾られたロゴがすぐに現れる。間違いなく、あの夜訪れた店のホームページだった。そのページでは、イベントの情報や嬢たちの出勤情報が主に掲載されていた。さらに嬢たちが得意客に向けて来店を呼びかけるブログなども掲載されており、お目当ての嬢の様子がわかるというシステムだ。

浩市はミキとキョウコの出勤情報とブログを探してみた。出勤情報はすぐにわかった。嬢の一覧に彼女たちの出勤曜日が記載されており、ミキは=月、火、金、土曜日=となっており、キョウコの場合は=水、金、土曜日=となっている。つまり、今日は土曜日であり、ミキもキョウコも店にいるということに他ならなかった。



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